イアソン殿は気絶しそう
「イアソン・ボガード様が、暴力沙汰を起こして謹慎、療養中だそうです」
「は?」
その夜、従者の報告にオクタヴィアは耳を疑った。
「あの生真面目な男が?嘘でしょ」
「騒動は内々で処理されたので噂は広まらないでしょう。明日から数日、学院は家庭の都合で欠席扱いになるかと」
「何をやらかしたの?」
「第三騎士団の若手と口論の末、殴り合いの喧嘩をしたのだとか」
一般人相手でなくて良かったですね、相手も頑丈だったので痛み分けだったそうです、とイアソンと同レベルでゴツい従者はさらりと流したが、一般人相手でなくても大問題だ。
「いったいなんだって第三の騎士と?」
「なにかの用で第三の本営においでだったところをお見かけしましたので、その帰りでしょう」
「彼、今日、第三に来ていたの!?」
まさか、揉めた相手は義姉の知り合いの部隊の誰かかとオクタヴィアはひやりとした。しかし幸いにも、それらの者は揃って演習場にいたので、イアソンと喧嘩になったのはもっとガラの悪い別の隊の者だったらしい。
「第一の従騎士の隊服をお召になっておいでだったので絡まれたのでしょう」
第三の中には、エリート意識の強い第一に屈託を抱えたものもいる。
「それぐらい、受け流せる方だと思っていたわ」
「お見かけした時は、何やらご気分のすぐれない様子でした。ストレスやフラストレーションが溜まっていたのかもしれませんね」
「……何が溜まっていたって?」
オクタヴィアは聞き取れなかった単語に目を瞬かせた。
「ストレスです。抑圧的状況が続くことで発生し、心身に不調を及ぼすこともある心理的な障害のようなものです。鬱憤といったほうがわかりやすいでしょうか」
「お前……日ごろ喋らないのに、喋ると意外に難しいことを言うのね」
「喋らないほうが良いとよく言われます」
ほぼ真顔だがちょっと困ったように眉を下げているところを見ると、よほどらしい。
「まぁ、学はないよりあったほうがいいから、気にすることはないわ」
「ありがとうございます」
きれいな発音で丁寧に礼を言う従者に、オクタヴィアはシエナへの伝言を頼んだ。
「イアソン様がお怪我を?」
早朝にもたらされた知らせに、身支度中だったシエナは青ざめた。
「只今、ライゴールより参りました使者がこちらをお嬢様にと」
これを持ってきた使者がかなり緊急で来た様子だったので朝食前の時間帯だが取り次いだという。シエナは急いでオクタヴィアからの手紙に目を通した。イアソンの容態はかなり悪いらしい。
「すぐに参ります。先触れを」
「ライゴールより連絡済みだとのことです」
「馬車の用意は」
「ただいま」
ということは今から馬丁が馬を出して装具の用意を始めるということだろう。
「いえ、待って。これを持ってきたライゴールからの使者はまだいる?」
「はい。車止めで待たせております」
オクタヴィアの手紙には、使いに送った者も馬車も自由に使ってくれとあった。
「そちらの馬車でイアソン様のところまで送ってもらいたいと伝えて。オクタヴィア様のご厚意に甘えましょう」
案内されたのはボガード邸でも学院の寮でもなく、第一騎士団の営舎にほど近い住宅街だった。ライゴールの従者によれば、イアソンが今、滞在しているのは、もともと彼の父である騎士団長がまだ平騎士だった新婚時代に住んでいた家なのだそうだ。出世して貴族街に家を構えられるようになっても、騎士団に近くて便利だからとセカンドハウスとしているらしい。
「静かな場所で安静に療養するために、こちらにお一人で?そんなにお加減が悪いのですか?」
「本邸には御兄弟や住み込みの見習い騎士が大勢いらっしゃるので落ち着けないからではないでしょうか」
いつもシエナが乗る女性用馬車よりも一回り小ぶりの1頭立て馬車の御者も務めたその従者は小さな一軒家の前でシエナを下ろした。
婚約者の突然の来訪にイアソンはうろたえた。
みっともない喧嘩騒ぎで、父親から大目玉をくらい「頭を冷やせ!」と謹慎を命じられたのは昨夕のことだ。なだめに入った母や弟妹がイアソンを甘やかさないようにと家も追い出され、噂が広まるからと寮にも帰らせてもらえず、物置小屋同然の古い家に一人押し込められたのが昨晩。
外聞が悪いと全部内々で行われたはずなのに、今朝、お見舞いに参りますと先触れが来て、不要ですと返事を書く前に本人がやってきた。
何がどうなっているんだ!?
気がつけば、自分は寝台に寝ていて、傍らにシエナが座っているという状況が出来上がっていた。
シエナと一緒に来た従者は、応対に出たイアソンの顔を見るなり「怪我人が無理をなさってはいけません」と言い、イアソンは無理やり寝室に連れていかれた。イアソンは抵抗しようとしたが、妙に体格の良いその従者は、なにか格闘術でもやっていそうな身ごなしと馬鹿力で、有無を言わせず彼を寝台に押し込んだ。
「ぐはぁっ」
「ほら、無理をすると傷に障りますよ」
てめぇのせいだ、馬鹿野郎! と叫びかけたが、隣でシエナが心配そうにこちらを見て目を潤ませていたので、イアソンは罵声を飲み込んだ。
彼が朝食をまだ食べていないと知ると、その従者は「なにか滋養に良いものを用意して参ります」と言って、シエナを残して部屋を出ていってしまった。
シエナと個室で完全に二人きりだなどという、今までに一度もないシチュエーションにイアソンは狼狽した。しかも今更気づいてしまったが、自分は全く身だしなみを整えておらず、髪はボサボサ、髭も昨日から剃っていない。それどころかガウンの下は脚通し一枚だ!
イアソンは、自分を寝台に押し込んで上掛けをかけてくれた従者に感謝しつつ、モゾモゾと上掛けを引っ張り上げて、大きな身体を隠した。
「イアソン様……お傷は痛むのですか」
「……う、うむ。大したことはない」
枕に沈み込むようにして、鼻まで引っ張り上げた上掛けの上から目だけ出しているイアソンを、シエナは大きな瞳で心配そうに見つめていた。その表情を見る限り、本気で心配してくれているようである。イアソンはバツが悪くなって、視線を外してもう少しだけ上がけを引き上げた。
「わざわざ見舞いになど来ていただくような怪我ではないのだ」
「申し訳ありません。かえってご迷惑でしたでしょうか」
微かにシエナの声が震えたのに気付いて、イアソンは焦った。
「いや! 迷惑だなどとそんなことは!」
つい握りしめた上掛けの下側で、足先がにゅっと出た。
「来ていただけて大変嬉し…い……」
涙ぐみかけていたシエナの顔が、自分の真上でみるみるほころぶのを見て、イアソンは声を失った。
「(か、かわいい)」
枕元に座って、かがみ込むようにこちらに身を乗り出しているシエナとの距離は、これまでに経験したことがないほど近く、全く見たことがない角度だった。
これまで、慎ましく俯いているか、視線を下げているか、身長差のせいで見下ろすかしかなかった彼女を見上げて目を合わせると、これほど印象が違うものなのかと驚く。
「イアソン様が大怪我をなさって、たいそうお加減が悪くて寝込んでいらっしゃると聞いて、私、心配でしたの」
彼を見つめる彼女の眼差しは果てしなく優しく、慈愛にあふれている。
「思ったよりもお元気そうで、安心いたしました」
彼女は、そっと……本当にそおっと手を伸ばして、イアソンの額にかかった髪をすいた。彼女の小指が耳をかすめたときに、イアソンの背筋から腰骨の内側に、これまで感じたことのない震えが走った。
「イアソン様? 大丈夫ですか?」
「いや…………痛い」
「え?」
「痛い。そういえば、なんだか痛みがある気がする」
「まあ、大変。お医者様はどちらに……」
思わず手を引こうとしたシエナにイアソンはすがるような眼差しを向けた。
「待ってくれ。医者はすぐには呼べないし、必要な治療はもう受けたからもう一度呼んでも変わらない。それよりも、その……今、あなたにお願いしたいことがあるのだが……」
「はい。何でしょう。私にできることでしたら何なりといたしますわ」
こんなに素直ではいかんだろう!
イアソンは心配と罪悪感で胸が潰れそうだったが、道義と建前と騎士道よりも、彼女に触れてほしいという欲が勝った。
「その……民間療法なのだが、患部に手を当てていると痛みが和らぐらしいのだ」
「わかりました。手を添えればよいのですね。痛むのはどのあたりでしょうか」
「ええっと、少し頭痛が……」
「このあたりでしょうか」
殴り合いの大喧嘩をしたせいで青あざになっている部分を刺激しすぎないように気遣いながら、優しく額から側頭部を撫でてくれたシエナの細い指の感触は最高だった。
「もう少し下で」
「ここですか」
「指先だけではなくて、手のひら全体で」
「ええっと、こうでしょうか」
「……気持ち良いです」
「ではしばらくこうしていましょうか」
うっとりと互いに見つめ合う視線が絡んだ。イアソンは己のうちにもっと強い欲が湧いてくるのを抑えきれなくなってきた。
「シエナ」
「はい。イアソン様」
「胸が苦しい……」
「ええっと、胸というと……このあたりですか」
シエナの手が首元から上掛けの隙間に滑り込むように入ってイアソンの胸元に触れた。
「あ」
上掛けで隠れてはいたが、彼のガウンは寝台に押し込まれたときにすっかりはだけていたので、シエナの手が触れたのはイアソンの素肌だった。ビクリと震えて引っ込められそうになった細い柔らかな手の上から、イアソンは自分の大きな手を重ねた。
心臓の音が耳で鳴っているのかと思うぐらいドクドクとうるさかった。
椅子から不自然に身を乗り出す形になったシエナを、イアソンは抱き寄せるようにして寝台に座らせた。片手を相手の胸の上で固定されたままだったシエナは、思わずもう一方の手をイアソンの顔の脇についた。
彼女の緩やかにウェーブした長い髪がイアソンの上にかかって、彼の目の前に彼女の華奢な首筋から豊かな胸元が近づいた。
これはまずいと視線を上げた先で、イアソンの視界に入ったのは、熱を帯びた吐息を漏らす艷やかなぽってりとした可愛らしい唇と、まるで自分の熱情が感染ってしまったかのように、隠しきれない欲を秘めた目だった。
イアソンは、ギリギリまで張り詰めていた自分の理性がプチンと切れる音が聞こえた気がした。
そりゃそうだ




