アーベル殿下とヒバリの卵(後編)
暑い日差しも傾いて、やや過ごしやすい時分になった頃、ベアトリスはオクタヴィアの家の女性用客室で、ティーカップを揺らしながら、ポツリとつぶやいた。
「最近、わかったことがあるの」
窓辺に置かれた水盤に浮かぶ花びらがゆらゆらするさまを、なんとなく目で追いながら、彼女は殿下の良いところを探す過程で気づいたことについて、オクタヴィアに語った。
「完璧な出来じゃなくても、ちょっと良かったら、それは“良いところ”なのよ」
蔓性の観葉植物を這わせた緑の葉のサンシェードの間から、キラキラと差し込む日差しにオクタヴィアは目を細めた。
「王族だからといって、そんなになんでも完璧でなくても問題はないんじゃないかなって」
「それはそうね」
「私、王子妃になるからって、気負いすぎていたかもしれないわ」
「そうなの?」
「ええ。完璧以外はダメだって。それで、アーベル殿下にも同じことを求めていたのよ……たぶん」
ベアトリスは手元のカップの中に視線を落とした。
「殿下はそれが息苦しかったのかも」
彼女はお茶を一口飲んで、その複雑な香りを楽しんだ。深く息を吐いたあとに口にほんのりと甘い香りが残る。思わず口角が笑みの形になった。
「あの方がね……最近、時折嬉しそうにしてくださるの」
完璧な出来でなくても、他にもっと優秀なものがいても、それでも何か良いところが彼にあったとベアトリスが思ったときに、それを言葉に出したら、それを聞いたアーベル王子が満更でもなさそうな顔をしたのだという。
「今更、そんな些細なことを褒められても仕方がないようなつまらないことでも、喜んでくださるの。……不思議でしょう?」
「そうね。でも解らなくはないわ」
遥かな高みの理想に届いていないって叱責されるより、今、達成できた成果を評価された方が嬉しいのは当たり前だ。
オクタヴィアも小さい頃、七つ歳上の優秀な兄のマネをしようとして、剣術や乗馬を習って、何も上手くできない己に絶望しかけたことがある。あの時は隣に幼馴染がいて、共に学び、剣を交え、轡を並べて切磋琢磨してくれたから頑張れた。当時、自分よりも体が小さかった相手が自分よりもずっと努力しているのを間近で見ていたから、高みに絶望なんてできなかった。最善も尽くしていないのに、自分はダメだなんてなぜ言えるのか。万策果てていないのになぜ望みが捨てられるのか。今できる範囲で今できることを着実に積み重ねることが、どれだけ大切かを、オクタヴィアは幼馴染を見て学んだ。
結局、彼のほうが着実に腕を上げていったのに、あの時、彼はオクタヴィアの些細な成功をとても素晴らしいことのように称えてくれた。
「小さな褒め言葉って、自信につながるのよ。自分を信じられることって、とても……変な言い方だけれど、人を安定させると思うわ」
「国で王の次に尊い身で、次代の王になることがほぼ確実なアーベル殿下でも、そんなに小さな自信が必要だったのかしら」
「尊い生まれだったからこそ、不安で自信が持てないことってあるかもしれないわね」
「あんなに自信満々そうだったのに」
「板についた尊大さって、以前あなたが評してたの覚えてるわ」
「実力が追いつかない焦りが虚栄を生むのね」
「トリシア。言葉選びが微妙に辛辣だから気をつけよう」
「いけない。私ったら、つい」
「語彙が罵詈雑言方面に特化して豊富なのなんとかしないと、そのうち表でポロッと失言するわよ」
「ううう」
「本を沢山読んで、普通の語彙を増やして中和しようね」
「詩集の朗読会はいやぁ~」
淑女らしくなくテーブルに突っ伏したベアトリスの頭を、オクタヴィアは撫でてあげた。
華麗な草花装飾と重厚な古典絵画が美しい公爵家の音楽室で、楽士の爪弾く弦楽器の甘い調べにのせて朗読された恋愛詩の甘ったるい文言に軽く胸焼けを起こしながら、オクタヴィアはにこやかに詩人に称賛の言葉を送った。
「素敵だったわ」
こちらは意外と本気らしく、ベアトリスは、詩のフレーズを口の中で転がすように口ずさんでうっとりしていた。
「あなたがこんなに恋愛詩にハマるとは思わなかったわ」
「いいじゃない。素敵なフレーズは、言い表せなかくてわからなかった気持ちを、美しく表現して理解できるようにしてくれるもの」
オクタヴィアは隣りにいるシエナと思わず視線を交わした。おっとり美人のシエナは柔らかく微笑んだ。
「最近、トリシアは表情が明るくなったわ」
「そう?」
「先日、殿下にお誘いいただいたオペラはどうだったの。新劇場のこけら落とし公演だったのでしょう」
「素晴らしかったわ。アーベル殿下は夜会の装いなのだけれど、式典に準じた少し華やかな雰囲気でね。それでいて非公式のパーティだからちょっと装飾に遊び心があって……私はその日、オペラの演目に合わせて短剣と花紋織が入った蒼絹緞子のローブ付きドレスだったんだけれど、殿下はベストとジャケットの袖飾りを色違いの同じ意匠にしてくださって。しかも、あの方の左袖の二段目の飾りボタンは、金の薔薇だったのよ」
延々とつづく惚気と美辞麗句を、オクタヴィアとシエナは親友の好でひたすら傾聴した。
「大事なことはね」
詩人や楽士も退出し、いつもの三人だけになったところで、ベアトリスはしみじみと言った。
「男の方の面子やプライドって潰しちゃいけないってことなのだとわかったわ」
「なにそれ?そういうものなの?」
「そうなの。殿下にとってはとても大事なことなの」
「王族の誇りなんて、それこそ戦争で虜囚の辱めを受けても傷つかない鋼よりも強固なものだと思っていたのだけれど、違うの?」
「違うの。ヒバリの卵の殻よりも砕けやすくて、露草の花びらの上の朝露よりも儚いの」
困惑するオクタヴィアに、ベアトリスは重大な国家機密を打ち明けるように囁いた。
「いいこと、タヴィア。大抵の男性はあなたが考えているより、ずっと繊細で傷つきやすくて、取り扱いに注意が必要な壊れ物よ」
「シエナの婚約者のイアソン殿も?」
騎士団長の息子のイアソンは背も高く厳つい男だ。肩幅や胸板の厚みは細身のアーベル殿下の倍くらいあるようにみえる。性格も繊細という言葉からは程遠い無骨さの堅物だ。
婚約者のシエナもベアトリスの指摘には賛成しかねるのか、もの問いたげな顔をしている。
「見かけは関係ないわ。私達女性だって、どこのお茶会に呼ばれただの呼ばれないだの、アクセサリーやドレスの色が被っただの、つまらない些細なことで、立場が、プライドが、と騒ぐでしょう?男の方って同じように、もっと些細なことでなにかと戦っていらっしゃるのよ」
「なにか?」
「よくわからないけれど、たぶん“男らしさ”の理想概念みたいななにか……」
「理想は自分が精進するための目標にするのは良いけれど、自己評価の基準にするのには向いていないと思うけれど」
「たぶんそう簡単に割り切れるものではないのよ」
「難しいわね」
「難しいけれど、たとえ理解できなくても、そういう、相手にとって大事なことを大切にして差し上げることって、ともに歩むうえで必要なんだなって最近思えるようになったわ。だって、それを大切にしてあげると、殿下はとても率直になってくださって、最初から私を拒絶するようなことがなくなったのよ」
「話を聞いてもらえるようになったのね」
「ええ。そして私もあの方のお話を聞くことができるようになった」
「それは良いことだわ」
自分の理想で相手を測って、足りないと嘆くのではなく、互いの理想を尊重しながら少しずつすり合わせて、二人で目指せる到達点を重ねていくことが大事なのだと、彼女は噛みしめるように語った。
「いいわね……」
シエナは深くため息をつき、オクタヴィアはかすかに苦笑した。
「今度、殿下の談話会に出席するの。招待していただけたのよ」
なんの話題を用意していけばよいかと嬉しそうに話すベアトリスに、オクタヴィアは長編恋愛詩は止めておけとアドバイスした。
アーベル殿下とベアトリス編完
アーベル殿下視点はナシ。
掘り下げてもおもろくなさそうなので、パスしました。
こういう男いるよなって程度でOK。
……トップオブトップじゃないだけで、悪い男じゃないんだよ。
ベアトリスへのコンプレックスをこじらせると厄介なことになっていた可能性がありますが、早期の軌道修正で円満解決です。
次回、ここまで影の薄かったシエナちゃんの話。(全4エピソード)
……なぜそんなに多い!?




