第四話
この場所に来てから十日程。アリスは未だ、この部屋の外に出たことは無い。
しかし、少しずつアリスも小屋での生活に慣れてきたところであった。この部屋を出てすぐ正面にいるニクハテに限った話ではあるが、最近ではアリスに対し歯をガチガチと打ち鳴らすような行動を取らなくなったぐらいだ。
果たしてそれがアリスのことを住民と理解したのか、それとも油断を誘っているのかは分からないけど。
ただ、今日は少し違う。
「少し、小屋の中を見てもいい?」
アリスが言うと、ルカは少しだけ考えた後、すぐに頷きを返してきた。
いつまでもこの一部屋で収まっているわけにはいかない。ここは今となっては自分の家に近く、だからこそ自由に行動できるようにしなければならなかった。
それに、毎回ルカに用事がある時、自分から行くことが出来ないのは不便だ。トイレに行く際にもじもじと我慢をし続ければならないのはかなりの苦痛である。
「なら、少し案内しようか。今は食後だから、ニクハテ達も比較的大人しいだろう」
ルカが差し出してくる手を、アリスは握った。ルカの手は父と比べると非常に細くしなやかな印象を受けるが、それでもアリスの小さな手を覆うには十分すぎる大きさだった。
ルカに手を引かれ、アリスは初めて部屋の外に出る。
「……」
壁についた、天井からぶら下がった、床に敷かれているニクハテ。
少しビクビクとしながら部屋の外に出たアリスに対し、それらは特に何の反応も示さない。まるで眠っているかのようだ。
通路の幅は決して広くはなく、人が二人並べる程度。意図せずニクハテ達に体が触れてしまいそうだった。
やはり、至近距離で肉塊を見ると気持ち悪くなってしまうが……ブヨブヨとした肉は壁や床と一体化しており、しかし付いている口は現状動きを見せない。
「そう怯えなくても、私が居るから大丈夫だ。間違って触ってしまっても問題無いよ」
アリスが怖がっていることを察したルカがそう言うが、例えニクハテが襲ってこないとしても触りたくはなかった。
そもそも、素手で触るのは良くなさそうだし、気持ち悪い。生肉を素手で触るよりも危険だろうし、何か病気にかかるかもしれない。
そんなアリスの気持ちを知ってか知らずか、ルカは天井から吊り下がるニクハテを避けながら部屋を紹介する。
ルカの肩とニクハテの距離は十数センチ程度しか無く、それほど近くを通りながらも、警戒した様子はない。
それだけ慣れているのか、それとも、何をされても平気だという自信があるのか。
リビングやキッチン、洗面所など、この小屋には普通の家にあるような設備は一通り揃っているように見える。どちらかと言うとログハウスというのが近いだろうか。
しかしどこの部屋も必ずニクハテが居るのは、やはりと言うべきか、アリスにはどうしても許容出来ないような気がした。
少なくとも今は、自分から言い出したこととはいえ、こうして見て回ることすらそれなりに苦痛を感じている。
「気持ち悪く、無いの?」
「そういう感覚は私には無いかな。一般的に気持ち悪いとされる部類なのは分かるが……衛生面で見たら、不衛生だろうなと思うぐらいだ」
「病気とか怖いよ」
「食事を作る時や、物を触る時は清潔にしているから平気だとは思うが、確かにアリスのように子供だと、私では予測できない部分が出てくるかもしれないね」
ルカはアリスの言葉を聞いて、思案する。
アリスは決して体の強い子供ではない。飛び抜けて病弱でもないが、子供の免疫はあまり頼りにならないのも事実。
ルカは、先程までと同じトーンで、続きを口にした。
「一層この機会に、ニクハテを処分するのもアリか」
「えっ……で、でも、駆除しないって」
「私にとって特に問題無いから放置していただけで、人命を無視するほどの事じゃない。アリスが嫌なら、掃除しても構わないが」
「それ、は……」
ルカにとって、ニクハテが脅威でないことは今までの生活からよく分かっている。こんな場所で生活していて、無傷で過ごせている時点で尋常ではないとわかっている。
そしてアリス自身、ニクハテは気持ち悪いし、怖いし、負の感情を多く持っていることは間違いない。
だが、そうも簡単に言われてしまうと、止めざるを得なかった。
「……でも、やっぱり違う、と思う」
「だけど、実際君の言うように衛生面でもそうだし、当然純粋な危険もある。天然の要塞というのは事実だが、同時にこれらは不発弾にも近い罠だ。それも触れないようにしたところで何がきっかけで起動するかも分からない、厄介なトラップ───危険なのは明白だからね」
「そう、だけど……」
ルカの言う通り、アリスにとってはこのニクハテ達は危険だし、精神的にも居ない方が本当はいい。何せ相手は人を食い、あらゆる物に寄生する化け物なのだ。
しかし、それでも複雑なのは、なんと言おうか。自分の為にそこまでしなくていいという申し訳なさと、例え気持ちの悪い化け物であってもそう簡単に殺さないで欲しいという、子供ながらの倫理観がもたらす思考だった。
それが、ルカにとって不都合がないのなら、尚更。
それを言葉にすることは、アリスには難しかった。
「……」
ルカはアリスの顔を見つめ、全てを理解したように口を開く。
「まぁ、君がいいというなら、するつもりも無い。そもそもニクハテに寄生された部分は肉に置き変わってしまっているしね。今ニクハテを全部綺麗に掃除したところで、小屋が穴あきになるだけだ。それはそれで快適とは言い難い」
上手く言葉にできないアリスの思考を汲むように、ルカは顔色一つ、声音すら変えずに答えた。
確かにニクハテが寄生している壁や床は、木材の代わりに肉が収まってしまっている。掃除すれば、虫食いのように広がった穴を修復する作業も行わなければならない。
アリスの殺して欲しくないという身勝手な気持ちを、ルカは上手く合理的に汲み取っていた。
アリスに罪悪感を与えないためなのか、それとも単に本心からの言葉なのか。それも分からない。
「それに、慣れればきっと一人でもそれなりに出歩ける。食後のように落ち着いているタイミングなら襲ってくることはほぼほぼないだろうから、アリス一人でもある程度行動は出来ると思う。このニクハテ達も、そのうち君をここの住人だと覚えて、威嚇することも無くなるだろう」
「それは……頑張ってみる、けど」
とは言ったものの、まだ一人で歩くには途方もない時間がかかりそうであった。犬や猫などのペットとは違い、ニクハテの殺傷能力は大人をも簡単に殺してしまうほどだ。
至る所にそんなに危険生物が居る場所を、歩ける気はしない。
果たして慣れるだろうか。心配にはなるが、今更前言を撤回することは出来ない。
アリスがこの小屋に、この世界に慣れれば良いだけの話なのだ。
案内の続きをするように、ルカが再び歩き出す。そしてまだ入っていない部屋の扉を開けた瞬間───。
「ひっ……!?」
アリスの目の前で、血飛沫が舞った。
扉のすぐ横に寄生していたニクハテが、いきなり肉を伸ばしてきたのだ。
しかし、血飛沫はルカのものでも、アリスのものでも無かった。アリスには見えなかったが、横合いから物凄い速度で迫る攻撃を回避したルカが、いつの間にか持っていたマチェットで、その肉を根元から切り飛ばしていたのだ。
切り飛ばされた、口の付いた肉塊が床に落ち、じたばたと激しい痙攣を起こすように暴れるが、それをルカは容赦なくマチェットで斬り潰す。
攻撃をしてきたニクハテは、口を斬り落とされ沈黙する。それで死んだのかどうかは分からないが、ダラダラと零れる赤黒い血液が床を汚していた。
一瞬の出来事なのに、ルカは一切驚いた様子はない。まるで当たり前のように、淡々と一連の動作をこなした。
そのマチェットはどこから取り出したのか、あの速度に何故反応出来たのか。そんなことよりも、恐怖が思考を塗りつぶす。
これを、こんなことを、ルカは繰り返していたのかと。
「……まぁ、たまにこういうこともあるかな。こいつはこの小屋に芽吹いて日が浅いから、刷り込みが出来てなかったみたいだ。一度こうすればある程度は抑制できるから、次は大丈夫だと思う」
そう言いながらも少しバツが悪そうなのは、先程『ほとんど襲ってくることは無い』と言った事実があるからだろうか。
驚きと恐怖で尻もちをついてしまったアリスがルカを恨めしげに睨み上げるのは、少々仕方の無いことであり、間が悪かったと言わざるを得ない。
本当に一人で出歩ける日が来るのか、益々不安になるしかなかった。
次話は3/19の20時に投稿されます。