第三話
食事として出されたハンバーグを、食べる。
長らく缶詰やパン、お菓子などしか食べてこなかったアリスにとって、それは久々の肉料理であった。
もっとも、だから嬉しいのかと聞かれるとそうでも無かった。
むしろ、嫌な顔をするしかない……それでも食べたのは、味自体は美味しかったからだ。
吐き気を催さなかったのは、それを抱けるほどの余裕がなかったからかもしれない。
「あぁ、こんな世界で肉料理というのは少し辛かったか。次は違うものにしよう」
そんなアリスを見て察したのか、ルカは合点がいったように頷いていた。逆に何故ルカは、こんな世界で平気で肉の料理を食べることが出来るのか。
まだ幼いアリスにとって、それはただただ不思議にしか映らなかった。
アリスが複雑な気持ちで完食し終えると、ルカは早速食器を片付けていく。
その際、扉を開けた隙間から見えた通路には、やはりニクハテという肉が壁に居座っていた。
目の前にルカが来ても、それは付いている口を動かしもしない。ルカも、意識を向けていない。
それ以上はすぐに扉が閉まってしまい見えなかったが、ルカは何故かあのニクハテに襲われないらしい。それは何度か彼がここを往復している間、あの肉が噛み付くことは愚か、動きすらしないことから確定的と言っていい。
「……どうして?」
口に零す。何故、ルカは襲われないのか。外では上手くニクハテを避けて歩いてきたため、何が要因なのか分からない。
ルカがすぐに戻ってくる気配がなかったため、アリスは好奇心から、僅かに扉を開けてみることにした。
扉を開けると、広がるのは肉の塊。けれど、意外と大きくはない。アリスが両腕をいっぱいに広げたら同じぐらいの大きさになるか、少し余るかといった具合。
てっきり壁一面かと思ったが、全然そんなことは無かった。代わりに、壁や床、天井に何体もニクハテが居る。外にいるのと比べると、小規模なものだった。
扉を開けて正面に居るニクハテは、アリスが出てきたのに気づいたのか、ガチガチと歯を打ち鳴らしてくる。それは、父に巣食ったニクハテと同じ反応だった。
「ひっ……や、やっぱり、怖い……」
ルカの時とはやはり違う。自分ではダメなのか、と思うが、距離的にはそれなりに近いのに、肉を伸ばして噛み付いてくる様子はない。どちらかと言うと、餌を前にして『お座り』させられている犬を連想するような光景だ。
食べたいけど、食べないようにしているのだろうか。アリスが客人だから? ルカがそう命令している?
少しだけ、部屋から顔を出して左右も見る。通路の上から垂れるように吊り下がっているニクハテは、体を小刻みに揺らし、こちらに対してやはり歯を打ち鳴らしていた。近づいたら噛まれるかもしれない。
アリスの中では、このニクハテというのは気持ち悪い化け物だ。父を殺した存在であり、人を食べる生物であり、とにかく気持ちが悪くて近寄りたくもない怪物。
それでもこの家の中では、ルカが主。アリスが気持ち悪いからやっつけて、と言ったところで、ルカがそうしてくれる保証は無いし、アリス自身そこまで頼める度胸もない。
つまり、現状はこの気持ちの悪い化け物と一緒に暮らすしかないということ。
通路全体からじっと見つめられているような感覚に陥り、アリスはそっと、刺激しないように扉を閉めた。
「……お父さん」
今は居ない父親のこと呼ぶ。そう呼んだ所で仕方ないことは十分にわかっているし、アリスも父親が死んだのは目にしている。
けれど、呼ばずには居られなかった。父の形見となった拳銃を抱きしめ顔を埋める。そうせざるを得ないほど、異常な空間。
どうしてルカは、こんな環境で平然と暮らしていられるのか。
どうして父は、そんなルカに自分のことを託したのか。
どうして自分は、ルカを信用したのか。
唯一まともな部屋の中で、ソファの上に座り込む。
気がつけば、アリスの意識は闇に沈んでいた。
◆◇◆
どのぐらい眠っていただろうか。嫌な目覚めを体験する。
窓の外が未だに暗いことを見るに、あまり眠っていた訳では無いようだ。アリスが体を起こすと、通路から僅かに物音がした。
「ルカ……?」
小さく声を出すと、扉が開いてルカが部屋へと入ってきた。
相変わらず、通路の方にはニクハテが居座っているが、先刻見た時と違い特に動きはない。
「アリス、起きたのかい? さっきまでは寝ていたようだが」
「……うん」
何故起きたのか。何となくではあるが、怖い夢を見たからな気がする。じっとりとかいた汗のせいで服が肌に張り付き、妙に心臓の鼓動も荒い。
どんな夢だったかまでは、覚えていないけれど。
心が、ざわついている。父親の死の瞬間を、夢にでも見たのかもしれない。
「……ルカは? まだ、起きてるの?」
「私はもう少し起きているよ。それよりアリス、もしかして眠れないのか?」
「…………うん」
「悪い夢でも見たようだな。それも無理はない。今日は君にとって色々とあっただろうからね」
アリスの横に座ったルカは、全てを見透かすように言う。
この感覚───ルカを信頼し、同時に不気味であると思う要因。まるでこちらの思考を、心を読んでいるかのような振る舞いが、不思議なのだ。
少し視線を逸らし、代わりに扉の方を見た。
「どうしてニクハテが襲ってこないのか、不思議そうだね」
やはり、ルカはアリスの考えを直ぐに見抜いてくる。アリスはルカの方を見て、その先の説明を急かした。
「小屋をこれ以上侵食されても困るし、だから代わりにニクハテ達の餌を用意していたら、いつの間にか襲われなくなっていた。私のことを保護者だと思っているのかもしれない。もしくは、私に攻撃してきたニクハテは全て殺してきたから、生存本能が私に逆らってはいけないと理解したか」
「……怖く、無いの?」
「怖がってるのはどちらかと言えばあの肉達の方だろうね。食事こそ貰えるが、下手に逆らえば殺される環境に身を置いているんだから」
ルカは平然とした顔で、残酷なことを言う。確かにそれが本当なら、あの大人しさにも納得が行く。
この小屋の主は既にルカであり、ニクハテ達はそのルカに逆らわないようにしている。下手に攻撃してしまえば、躊躇いなく殺されるから。逆らわなければ餌を貰えるから。
明確な上下関係、主従関係ができているのかもしれない。
ニクハテと一緒に暮らし餌を与えておきながら、しかし平然とそれらを殺す。そこに愛着も何も無く、その精神は、幼いアリスでなくとも理解できないだろう。
そもそも人を食い殺す化け物を、こうも支配出来ること自体が異常だ。アリスが父親と生活していた時は、この化け物を前に震えることしか出来なかったのに。
そんな能力が、そんな精神が、そんな思考が。
異常でないのなら、なんなのか。
「アリスは少しずつ慣れていけばいい。ある程度の面倒は私が見るから」
そう言うと、ルカはポンと膝を叩く。何の意図があるのかルカの顔を見てみる。
「寝れないのなら、膝枕でもしよう。ソファより寝心地がいいかは分からないが」
「……どうして、膝枕?」
「ん? 特に意味は無い。あまり好みじゃないなら無理強いはしないが」
アリスがいきなりの言葉に訝しむも、ルカは至って真面目な声音で返してくるのみ。どうやらルカは、膝枕をすればアリスが寝れると思っているようだ。
これが家族ならば、まだ分かる。だがルカは、今日出会ったばかりの人だ。そんな相手に膝枕をされるのはむしろ嫌がるのが普通なのだが、ルカはその辺りの価値観が違うらしい。それは今までの会話からも見て取れる。
しかし、単なる異常者と言うには、他者の感情や思考をよく理解し、気持ちを汲み取ってくれる。価値観は違えど、常識は持ち合わせ、他者に押し付けない。
優しい人と言うには、冷徹で無感情な思考を見せてくる。化け物を平然と支配し、逆らえば躊躇いなく殺す。
「……ルカって変だね」
「周りからはそう見えるらしい。自覚はあるよ」
「……でも……」
今日会ったばかりのルカに、アリスは二つの思いを抱いている。
それは、恐怖と信頼。理解できない行動への恐怖と、安全であると思えてしまうような信頼。
ルカの行動は常軌を逸している。こんなニクハテが居る小屋で平然と暮らし、この世界で生きるために必死という訳でもなく、さも当たり前のように歩く。
けれど、その中には確かな安心感があった。ルカと共にいれば大丈夫だと思えるような、落ち着きと平穏。こちらの気持ちを的確に読み取り、大事に扱ってくれて、意思を尊重するような大人。
「……」
僅かな後、小さな頭を彼の膝に預けると、微かに甘い香りがした。
アリスにとって、ルカが本当に信頼できるのかはまだ分からない。そもそも、そんなことを明確に思考したこともない。
ただ、それでも今のアリスには頼れる相手が必要であった。父が死に、その遺言で生きるとしても、アリス個人では何も出来ない。それを支えてくれる人物が必要であったのだ。
だから、ルカに対しての恐怖よりも信頼が───"信頼したい"という思いが勝ったというだけの話。
そうしないと、アリスには先がなかった。
大きな手が、アリスの視界に影を作る。
「ゆっくり休むといい、アリス。何も焦る必要は無い」
優しく撫でるその手は、父によく似ていた。
いや、もしかしたら、もう随分前に居なくなった……母にも。
「また明日。目が覚めてから、この世界をゆっくり学んでいけばいい」
ルカの声が徐々に遠くなる。すぐに、アリスの意識は再び微睡みの中に沈んで行った。
次話は3/15の20時に投稿します。