今日から僕は
僕は病室で目を覚ました。4人部屋の窓側のベッド。外には雲一つない青空が広がっている。秋の澄んだ空気を感じているのだろうか、遊歩道をジョギングしているカップルや老夫婦も走りながら笑顔を見せている。怪我などしていなければのんびり散歩でもできたのだが残念ながら足を骨折して入院中の身だ。階段で足を踏み外し踊り場まで転がり落ちたのだ。全治一カ月だった。
仕事はコピー機をリースする会社の営業マン。成績は決して良くはないが給料泥棒と罵られるほど悪くもない。自分で言うのもなんだけど朗らかな性格もあって上司や同僚にも受けは良い。入院したと聞いてすぐに営業課の面々が駆けつけてくれた時、僕は感動で目を潤ませた。
そんな、良き仲間に恵まれている僕だか彼女はいなかった。30歳になるが未だ童貞。もちろん女には興味があるのだがアイドルの追っかけなどのオタク活動に貴重な青春時代を捧げてきた。身近な女性との交流に目もくれなかった結果、僕はこの歳まで恋愛経験を持つことはできなかった。
そんな生活を一変させたのは今回の骨折がきっかけだった。病院に運ばれ一週間ほど入院が必要と診断を受けた僕は、母親に連絡をして入院生活に必要な諸々の道具を持ってくるよう伝えた。
「まったくもう。またボケッとしてたんでしょ」
心配性の母親はほどなくして病室にきたが、骨折以外は元気であるとわかった途端に愚痴り始めた。
「私だっていつまでもあんたの面倒見られるわけじゃないんだよ。わかってんの?」
「うん、心配かけてごめん。お父さんにはもう話したの?」
「まだよ。明日にでも話しとく。体調のこともあるし話すタイミングも考えないとね」
「うーん。もう少ししてからでいいんじゃないかな。お母さんも二人の面倒見るんじゃ大変だろうし」
母を気遣うふりをして父への報告は避けたかった。
父は長年の不摂生と無理が祟って一昨年の人間ドックで癌が見つかった。肝臓の癌だった。
いずれ知らせることになったとしても、その時期を少しでも先延ばしにしたかった。
「お父さんも昔みたいにやいやい言ってこないわよ」
息子の心情を見透かしたかのような母の言い草に僕は反論する気もなく窓の外を見やる。
遊歩道脇を流れる川の水面に映える夕日に目を向けた。
「こんな時お見舞いに来てくれる彼女でもいればね。私も安心なんだけどさ」
母と顔を合わせるとまずは父の話。次いで彼女の話と流れは決まっていた。
「いつになったらかわいい彼女を連れてきてくれるのかねぇ。いい人いないの?」
「まぁ、いなくもないけど‥」嘘をついた。
「それなら早く連れてきなさいよ。楽しみにしてるから」
「わかったよ」
「お父さんね、もう長くないみたいなの。お医者さんに言われた」
「え……」
「もってあと一年ですって」
「そんな……」
「お父さん、もうやり残したことはないって。子供二人も独立したし」
一つ下の妹は五年前に結婚し二児の母だ。現在は旦那の仕事の関係で仙台に住んでいる。
「やり残したことはないけど思い残しはあるって」
「お母さんのことかな」
「それもあるだろうけど。雄一のこれからが心配だって。あいつ付き合ってる女もいないだろって」
「そ、そんなの大きなお世話だよ」
「それでも独り身は寂しくないかって」
情けなかった。余命宣告された父の唯一の心残りが息子に彼女がいないことが気がかりだなんて。そんな思いをさせていたなんて。モテないことで親に負担をかける親不孝者の僕は考えた。
かわいい彼女を作る。そして二人で父の見舞いに行く。ゆくゆくは結婚をして幸せな家庭を築こう。
母に対して口には出さなかったが、強い決意を胸に病室に戻った。
それからは今までいまいち乗り気ではなかったリハビリにも積極的に取り組み、医者も驚くほどの回復を見せた。
当初の予定では一ヶ月だったが、懸命なリハビリの結果、予定より一週間早く退院の許可がおりた。
その足で会社に顔を出すと拍手で出迎えられ照れ臭い思いをしつつ素直に喜びを伝えた。
「そしたら今日は雄一の快気祝いってことで飲み行くか!」
課長の一言で歓声が上がり、場は盛り上がる。最早快気祝いというより呑めれば何でもいいんじゃないかと呆れつつ、この流れを予想していた僕は今夜の舞台になるであろう焼き鳥屋「大吉」の店員の優子さんを思い浮かべた。
会社から最寄駅に向かう途中にある大吉は歓送迎会、忘年会、新年会等で利用する馴染みの焼き鳥屋だ。丸鶏からさばく絶品焼き鳥と、時期ごとに変わるつまみの美味しさで人気を集めている。その上低価格ということもあって週末などは予約を入れないとまず入れない。
今日は金曜なので予め電話予約を入れておいた方が良いだろう。そんなことを考えていたら早速後輩の藤田君が大吉に電話をかけていた。仕事が早い。
今の電話の受け答えの感じだと、電話の相手はおそらく店主の安田さんだ。おかみさんや優子さんの場合、藤田君はもっと無駄口を叩く。安田さんは職人気質で口数が少ない。
黙々と焼き鳥を焼く安田さんと主人を甲斐甲斐しく支えるおかみさん。あと僕のお目当てである笑顔とおしゃべりで場を和ます優子さんの三人で切り盛りしている大吉。早くあの人達、特に優子さんに会いたいなんて考えながらデスクワークを片付けていた。
「では雄一の復帰を祝って乾杯!」
「いやぁ、雄一も無事帰って来てくれて本当に良かった良かった」
「階段から落ちたなんて聞いて笑っちゃったけど、けっこうな大怪我だったんだろ?」
「まぁ、骨折だからそれなりには……」
乾杯を皮切りに皆が思い思いに注文を始め、口々に語りはじめた。話題の中心はやはり雄一だった。
適当なところで入院中に固めた決意について話した。それを聞いた皆の意見を総合すると以下の通りだった。
お前の気持ちはわかった。親父さんも心配だろう。さっさと作るに越したことはない。だが童貞のアイドルオタクがいきなり彼女を作るのは現実的ではない。とりあえず風俗で一発やって女というものを知ってから具体的に彼女作りを始めようではないか、と。
それを聞いていた安田さんは、うんうんとうなづく。優子さんが聞いてたらと思うとヒヤヒヤしたが別の席の注文を取っていたため、やりとりは聞いてなかったようだ。一安心。
とにもかくにも その場の流れで風俗に行くことに決まった。僕は気が進まなかった。課長が会計中にどんな言い訳をして帰ろうかと考えてみたが、先輩の言うことにも一理あるなとも考える。
今まで自分の考えでやってきて失敗ばかりだった。たまには人の意見に便乗してあたらしい世界を見るのも経験になるだろう。最初の相手は大好きな人じゃないと、なんて乙女な発想はとうの昔になくなっていた。社内でのより深い絆を作るという効果もあるはず。風俗一択の気持ちになった。
駅に向かい改札前を通り過ぎ大吉のある西口とは逆の東口の風俗エリアに足を向ける。毒々しいネオンが扇情的な気分にさせる。客引きを適当にあしらいながら、風俗好きの先輩の案内のもと店に近づく。
ここなんかいいんじゃないかと先輩が指さすビルの五階に目指すべきソープランドがあった。
いよいよかと、鼻息を荒くしていたところ
「あれ?雄一じゃん!」
昔のオタク仲間の武弘だった。相変わらずの小太りメガネのチェックシャツという出立ちだ。
「何やってんだよ、元気だったか?」
「あぁ、まぁな。お前らも元気そうだな」
武弘の他に建次と将司も一緒だ。オタク時代はこの四人でいつもつるんで遊んでたものだ。懐かしい。
アイドルの握手会やライブに足を運ぶ日々。彼らとの時間はとても楽しく将来への不安を忘れさせてくれるものだった。
だが充実していると感じる一方で、このままじゃダメだ。社会との接点がここにしかないと焦る気持ちもあった。そんな不安が募ったからか、いつしか会うこともなくなり誘いの返信も滞るようになった。
このまま彼らと一緒に行動していては現実の女性との接点がなくなる。二次元やアイドルを追っかけて歳を重ねていくことに恐怖を感じグループから抜けた。
「来週乃木坂の握手会とイベントがあるんだよ。雄一も行くだろ?」
建次は当然と言った感じで誘ってくる。今でも僕を同類だと思っているのだろう。
こんな言い方をすると下に見てると思われそうだけど、そんなことはない。
ただ、もう好きなことに没頭するだけの自分は卒業したいのだ。一方通行の応援という形ではなく、相互の心の交流のある健全なコミュニケーションをとることで異性と親しくなり彼女を作る。
「誘ってくれてありがとう。でも僕はもうドルオタは卒業するよ」
そう告げて、僕は元仲間達に背を向けて風俗ビルに入っていった。