バレンタイン : 手首と喉の間の話
バレンタイン
異能対策局には、この時期、とあるホワイトボードが用意される。人呼んでチョコボード。男性職員の配偶者や恋人の有無、チョコレートの要、不要などが書かれているのだ。
異局の男女比は大体半々。なので、部署内全員に女性職員がチョコレートを渡す、などのよくある制度はとっくに廃止されているのだが、人気の男性職員のデスクの上にはチョコレートの山ができることがしばしば。
そこで生み出されたのがチョコボードである。これがあれば、円滑なチョコレートの受け渡しができる。いちいち断らなくてもいいし、用意する側も無駄にならずに済むという便利なシステム。
の、はずなのだが。
「おはようございます、忠直さん。相変わらずですね。」
部下の宵人に苦笑されて、忠直は顔を顰めた。彼は律儀にお返しに時間を割いてしまい、女性を期待させてしまうタイプなので、チョコレート不要派なのだが、どうしても毎年、デスクの上に一定数のチョコレートが乗っている。
理由は彼女がいないから。嘘もつけないタイプなので、毎度正直にボードを書いている。
「いい加減、主任ももう少し小狡くなるべきだと思いますけどねー。ま、そこがいいんだろうけど。」
忠直のデスクのチョコレートを物色してニヤつくのは一巳。本命っぽいものが多いのがまた気の毒ではある。
「お前らも一定数もらっているんだろう。俺ばかり揶揄うな。」
はあ、と漏れたため息。そうしながらも相手の名前の書いてあるものは控えるのが彼の駄目なところ。
「俺は彼女いることにしてるんで。お返ししませんよ〜ってちゃんと主張してまーす。」
自分のデスクに戻ってチョコレートの整理を始めた一巳。
「俺は、わりと世話になってるんで。義理が多いですよ。」
宵人は女友達が多いのだ。なので、彼のデスクに乗るチョコレートは市販の簡単なものが多い。
「まあ、1番この課でもらうのは池田なんですけどね。」
3人は同時にまだ来ていない杷子のデスクを見る。積み上がったチョコレート。彼女は友チョコだけでなく、元『警護課』という職歴を生かして、誰かの警護、警備に回されることが多い。背が高くて、凛とした雰囲気を持つ彼女は、親切で誰かを守る姿はカッコいい。よって、女性ファンを増やしがちなのだ。
「主任をイジりたくなるのは、ガチ感がやべーもんが多いってのもありますけど、今年は、ねえ?」
一巳がニヤニヤとする。それに応じて宵人もニヤニヤする。
何の話なのかすぐに察した忠直は嫌そうな顔をした。
「旭とは何もない。お前らが面白がるようなことは起こっていない。」
そう。数ヶ月前の事件で関わった旭兎美の話である。忠直と彼女は世間一般で言えばいい感じの関係。隣を預けて戦った仲なのだ。
「クリスマス、一緒に過ごしたって榊さんに聞きましたよ。」
あいつ、余計なことを。忠直は眉間を押さえた。
「……1月に会って以来、俺の方が面倒事に巻き込まれたからろくに連絡も取っていないんだ。それに、あいつのところでは洋菓子を売っているだろ。忙しくなると聞いたことがある。」
兎美は兄と喫茶店を営んでいる。兄の瑞樹は洋菓子店で修行を積んだことのあるパティシエで、喫茶『7並べ』も洋菓子が美味しいお店として有名なのだ。
「1ヶ月、一つ屋根の下にいたのに何もねえって、ほんと主任、マジ主任。それどうなんですかね。旭さん、可愛いからなぁ。」
一巳がけらけら笑う。
「11月に彼女がここに来たとき、ちょっと色めき立ってた奴らいましたよね。お店の常連で、彼女目当てもいないこともないんじゃないんですか?彼氏いないんでしょ、あっちも。」
宵人の言葉に忠直はなんとも言えない顔になった。それは、彼も知っている情報で、職場にまともに復帰した後、何人かに兎美について訊かれたことがあった。彼女は事件の協力者で、自分とは別に何もない、と答えたら彼らは喜んでいた。
「知らん。いないんじゃないか。そろそろいいか?俺はこの手の話題は苦手なんだ。」
こういうときは逃げるに限る。面倒くさくなるのはまっぴらごめんなのだ。
机上のチョコレートを丁寧に片付けると、忠直は資料を抱えて立ち上がった。
全く期待していなかった、と言ったら嘘になるから逃げたのだ。
(……忙しくなったって言ってたもんな。)
忠直の言う通り、今日の7並べは結構忙しかった。販売の方も喫茶の方もフル稼働で、兎美は作業に追われながらぼんやりと忠直のことを考えていた。
今日はバレンタインデー。現代では好きな男性にチョコレートを贈る日になっている。今までは全く興味のない、ただ店が繁盛するありがたいイベントだったのだが、今年は少し違う。兎美には気になる男性がいるのだ。
昨夜、『会えますか?』と訊こうかとも思った。でも、訊けなかった。彼が忙しいのは知っている。事件の後始末に加えて、1月に新たな面倒事に巻き込まれたと彼は言っていた。そんな彼に、私のために時間を割いてくれませんか、と言う勇気はとてもなかったのだ。
(結局私、彼の何でもないしな。強いて言えば友人、だもの。)
モヤモヤしながら仕事をする。そう思いつつ、この店の上にある兎美の家にはチョコレートが用意してあった。忠直宛のものである。
「兎美、レジよろしく。」
瑞樹に指示されて、兎美はレジの前に立った。よく来てくれる男性のお客さん。定型文を述べながら、代金を受け取り、ありがとうございました、とお辞儀する。が、彼は何かもじもじしたままそこに留まっている。何だろうか。
「あ、あの、旭さん、これ。」
差し出されたのはブランド名の書かれたチョコレート。兎美はぎょっとした。これは、所謂逆チョコというやつでは。
「好きです!受け取ってください!」
口をぽかんと開けて固まる。店内の人々の視線がこちらに集まる気配。厨房の方で、兄もおお、という顔をしている。
兎美は視線を彷徨わせた。これは、受け取ったら、そういうことになるのだろう。どうしよう。彼女は真剣に悩んだ。
だが、そのときなぜか、頭の中に忠直の姿が浮かんだ。すると、その言葉はするりと口をついて出てきた。
「すみません、そういうふうに意識したことがありませんでした。ごめんなさい、受け取れません。」
目の前の彼は、あ、そうですか、と悲しそうに言って、チョコレートを下げると去って行った。
一瞬静まり返る店内。すぐにまたざわめきを取り戻すが、兎美の胸はどくどくしていた。
人の勇気は人を突き動かすものだ。気づけば兎美は忠直の家の前に立っていた。だが、そこで迷ったようにうろつく。
(い、いるかな。いないかな。)
悩んだ末に携帯を取り出す。発信先はもちろん忠直。
プルルルル プルルルル プルルルル……
結論として、彼は出なかった。もう時刻は7時を回っていて、あたりは結構暗い。
「まだ、帰ってないんだ……。」
普通に心配になってしまう。いつもなら6時半には帰ってきている。電話に出られないということは、急な会議とかでも入ったのだろうか。
すごく緊張していた分、なんというか拍子抜けで。兎美はため息をつくと、彼の部屋の番号のポストにチョコレートの箱を突っ込んだ。
(一応連絡を入れておこう。ナオさんがポストを確認せずに帰る人だとは思えないけど。)
それでも、何も言わずに済ませるのはちょっと味気なかった。どうせなら声も聞きたいくらいだったが、忙しい彼に贅沢は言うまい。
(……毎日、お疲れ様です。)
少しだけ名残惜しそうにポストの方を振り返って、兎美は帰路についた。
あと10分ほどで家に着く、というところで着信があった。忠直だ。
「も、もしもし。」
『もしもし。電話に出られなくて悪かったな。』
「いえ、今声を聞けたので、あ、じゃなくて!お、お疲れ様です!」
『……ありがとう。旭もお疲れ様。まだ、局なんだが、着信履歴を見て思わずかけてしまった。ちゃんとポストを確認したらまた連絡する。』
「はい。手作りではないんですけど、兄のものなので美味しさは折り紙付きです。」
『そうなのか。好きだから本当に嬉しい。』
「……へっ?す、好き!?」
『ああ。好きだよ。』
「ちょ、どういう意味かわかって……。」
『ん?好きは好きだろ?』
「や、そんな、急に言うことじゃ。」
『瑞樹さんのお菓子、美味しいよな。』
「……。」
『わざわざありがとうな。……旭?』
「…………ええ、どういたしまして。」
『は?何で怒ってるんだ?』
「何も怒ってません!何一つ怒ってませんから!喜んでいただけて光栄でございます!」
『……よく、わからないが悪かったな。本当に嬉しいよ。お前がくれるとは思っていなくて。1日の終わりにとんだサプライズだった。』
「……そうですか。……ええと、無理はしないでくださいね。ちゃんと睡眠もとってくださいよ?」
『ああ。心配をかけない程度に頑張るよ。じゃあ、失礼する。』
「はい。お疲れ様です。」
短い会話の中で、何度心臓が跳ねただろうか。耳元で言われた『好き』という単語。彼がいつもの無表情で言っている姿しか浮かばないのが悔しい。
(あの余裕、ずるい。)
喜んでいたのは本当だろう。その声にそういう響きがあった。でも、ドキドキしたのはきっとこっちだけ。
兎美は悔しくて、先程まで彼の声を浴びていた耳を押さえて真っ赤になった。
忠直がポストを確認すると、確かにチョコレートの箱が入っていた。それを見て、思わず口角が上がる。そういう表情が似合う自分ではないと思うのだが、こういう日くらい浮かれてしまってもいいだろう。
家に入ると、今日は誰もいなかった。それならば会いに行ってしまえば良かったか、と忠直は少しだけ後悔する。
上着を脱いでハンガーにかける。鞄の中の今日もらったチョコレートは、ブランド名のあるものや、手作りのものなど様々だ。
人の好意は素直にありがたいな、と思う。だからこそ、ちゃんとお返しをするのだが、兎美からもらったものはどうしてもそれだけじゃなくて。
ありがたい、じゃ足りなかった。嬉しいが上回って堪らなくて。
ぼーっと眺めていたら、メッセージカードが挟まっていることに気づいた。そこには、『いつもお疲れ様です。ちょっとでも癒しになれば。』という言葉。
『好き』を貰える関係でも、与える関係でもない。わかっていても、それでも少し物足りなくて。
(少しだけ、期待した。)
本命じゃなくても貰えるだけありがたい。でも、自分の預かり知らないところに、もしも本命がいたら、なんて。
自分の狭量さに呆れながら忠直は、それを大事そうに机の上に置いて部屋を後にした。