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もう一つの『図書館』

 六月一四日、火曜日。

 天気、晴れのち大雪。

 最高気温、零度。

 最低気温、氷点下七度。

 一度晴れたほかは空に一片の蒼も無し。

 ――夏はまだ訪れない。


 うらぶれた校内の一角。

 入口の看板には比較的新しい筆跡で一言『図書館』と書いてある。

 

 そう書いていなければわからないほど、その建物は老朽化が進んでいた。何でも、創立当初から既に学校の敷地内にあった建物を買い取って学校の一部としたらしいと教師から聞いたことがあった。

 学校で図書館というなら、ちゃんとした場所にもう一つある。

 

 内装も凝っていて、きちんと管理が行き届いており、新しい書籍もそろっていて申し分の無い堂々としたものだ。利用者も多く、常に人がいる。

 一方で、この人気のない『図書館』の本当の名前は『早苗堂』といった。正式名称で呼ぶものは皆無。表の看板の通り図書館と呼ぶ者も稀だ。そもそも全校生徒のうち何人が存在を知っているのだろう。


 やる気のない教師陣が虱潰しに不良学生を探しにきたところで見つかるわけもないが、急ぐ必要がありそうだった。

 ごく微かに入口のドアが開いている。

 男は、既に誰かがいる気配に驚いた様子もなく傍目には廃墟にしか見えない建物へと入っていく。


「先輩、なにしているんですか」

 本日もやはり先客が我が物顔でいた。

「やあ、後輩。見てわからんかな。当ててみてくれ」

「ーーどう見ても本でドミノ倒ししているようにしか見えないのですが」


「実に惜しいな、若人よ。これは迷路を作っているのさ」よくできてるだろう、と自慢げに胸元まである髪をかき上げた。書庫特有の光を嫌う環境下ゆえに薄暗い室内にあって、その黒髪はより暗く、よりきらびやかに存在を主張する。

 低く落ち着いた声音と、平均よりも高い身長とが相まって、見る人に大人びた印象を与えていた。優美な弧を描く眉は涼しげで制服を着ていなければ決して十代には見えないだろう。清治は眉根を寄せて、決まり文句を口にする。


「やめて下さい。本が傷むじゃないですか」

「何だいこんなときだけ真面目なふりして。君だってこっち側じゃないか。この前嬉々として、初版本限定七並べしたの、忘れてないよ」

「まあそれは、そうですがね。限度があるでしょうに。本が痛むのはノーです」

「やっぱり早苗堂の()()()としては私のような者は疎ましいかな? 後輩君」少女がにやりと笑った。声にからかうような調子がある。清治は内心が表情にでないように唇をかんで、無表情を貫き通す。


 この先輩と決定的に相容れない点がここにある。直接聞いたことはないが、どうも彼女は『本というモノは読めればいい』と考えている節があった。そして悲しいことに世の中の多数が彼女と同じだった。

「……先輩のことをそう思ったことはありませんし、()()自分が管理者とは想っていません。いずれとは想っています。今はここを管理するまねごとをするだけですね。わざわざここに来てくれる人を邪険に扱ったりしませんよ。ここは()()()なんですから」


 もともとが個人の旧い書庫であったものを学校が譲り受けた経緯から、このもう一つの図書館は蔵書管理が甘い。故に時折書棚から文字通り『発掘』されるモノが少なくない。管理番号さえ振られていない本が多々あるのが、歴代の管理者のやる気とスタンスを如実に表している。おそらく本来の主の頭には入っていたのだろうが、時を経た今誰も全容を知るものはいなくなった。今は勝手に清治がその役目を継いでいる。


「いいじゃないか、こうやっていじれるのはここぐらいなんだから。こっちじゃこうはいかない」

 そう言って彼女は、自分の端末をいじって、無機質な画面を清治にも見えるように映し出した。

当たり前のように映し出されている映像の書籍群はきらびやかで、今この場にある本達とは比べものにならない。また映像の書籍群は見た目通りの電子書籍ですらない。

「やぶったり落書きさえできないのは寂しいものだね、紙のころはだれしもそうしていたというけれど」

「やり方によってはできると聞きましたが、データベースをそこまで使う気にはなれませんね」

なんの飾り気もなく安直に付けられたその名だけではその実態を表すのは難しい。


 過去、データベースといえば無味乾燥な文字や数列の羅列を意味するが、現在ではもう一つの世界とでも呼んだ方が似つかわしい半現実のことをさす。今や、一般的に本や図書館と言われるものは全てデータベースのなかのものである。見た目こそ、かつての図書館を模しているものの利用のあり方は異なっている。そこに現物と呼ばれる物は存在しない。 文字通り、様々なデータの集合体だ。犯罪以外のほぼすべてがそこでできるようになっている。ゆえに人々はデータベースの海に喜んでおぼれたのである。


 昔ながらの紙の本とは明確に区別されており、紙の本は旧本と呼ばれ、その地位を追われた。

 一部のマニアや研究者だけが旧本を手に取るようになって五〇年。一度覆された地位は戻ることはない。

 清治は本が好きだ。和洋、古今東西は関係ない。本であること、活字であるもの。活字の集合体が一体の形を為して意味をかたどる物。


 清治の周りにはいつでも活字があふれていた。物語を追体験できる媒体が主流となった今、文字を読み、物語を読み手の創造にゆだねられるようなゆったりとした体験は貴重な体験である。

 一年の時、かつてデータベースの雲の中で見つけ憧れたあの場所が廃墟同然だと知った。

 誰も。誰も、ここに興味がないことに驚いたと同時に、理由の付かぬ寂しさを覚えた。

 千尋の輝きを湛える英知の庭が見る影もない。

 

 文字通りの廃墟をまだ見れる状態まで持っていくのは骨が折れた。本が無事でも、読める状態にない図書館ほど存在理由のないものはないだろう。古書の集まった特有の匂いが濃く鼻を刺激するのは、単に掃除にまで手が回らなかったからだ。

 古書にはきらびやかな雰囲気は似合わないが、だからといって今の状態を維持することが良いとは思えない。いずれは片付けなければなるまい。

 あまり綺麗と言えない床に一定の間隔を持って並べられた憐れな書籍群の一つを手に取った。

 

 現在は使われていない十進法をもとに再整理した早苗堂は清治の秘密基地みたいなものだ。手入れを手ずから行った物には愛着が湧く物だが、清治にとっては早苗堂だけでなくその付属、いや本体である書籍すべてに愛着を抱いていた。

「新しい傷はないようですね」丁寧に一つ一つの本を見比べて言う。こういった人目につかない場所だからこそ、たまり場になって荒れそうなものだが、早苗堂に収められた書籍はすべて経年劣化による頁の変色程度で済んでいた。


「当たり前だろう。一体君は人なんだと思っているのかね。この松金智晶、ラインは見極めているつもりだが」

心外だという風に先輩は肩をすくめた。悪びれもせずに、大きなストライドで堂々と歩いてくる。

「そのラインとやらが毎日あっさり消えたり、曲がっていたりするからでしょうかね。……見てないで手伝ってくださいよ」

一冊一冊を手に取って戻していく。何が楽しいのか先輩は黙ってその様子を眺めていた。

 古書を戻し終えて一息を付く。

 窓の外はに広がるのは複写機の再生紙をばらまいたような不純物の混じった白で、窓硝子は中にいる清治達をすっかり隠してしまうように潔く曇っていた。だが、寒さは一向に訪れない。外見のぼろさとは異なり、不思議と建物の造りはしっかりしているようだ。


 だから先輩も清治も上着を一着羽織るのみで済んでいる。

 全くここのところの天気はどうかしているらしい。桜だって散って青々とした葉が茂っているし、とっくに黄金週間が過ぎているのにこれである。自然に試されすぎではないかと思う。これではまた明日は靴がべちゃべちゃだ。靴下の予備もいくつあったって足りない。

これが午前中までは初夏の和やかな風景であったとは、言われなければ想像もできないに違いない。それほど外の光景は異様だ。

「そもそもいいんですか、帰らなくて」


「あいにくと帰れと言われて、はいわかりました、は性に合わないんだ。キミも同じだろう」

 その問いには答えず、清治はいつものように本棚という本棚を練り歩き、コツコツという音を響かせ続けた。やがて厚みを持った本を手に取って空き教室から拝借した椅子に腰掛けた。昔ながらのパイプに板を乗せたこの椅子は清治にとって小さすぎたが、贅沢は言っていられない。

 便宜上早苗堂も学校の一部であるのだから、敷地の中から敷地の中へ移動したところで何も問題ないだろう。この件で誰かが文句を言うなら、仮にも図書館なのだからまともな椅子と机ぐらい置けと声を大にして反論してやるつもりだ。

 

 今日選んだ本は、クラウゼヴィッツの『戦争論』。普段読むジャンルではないが、斜め読みする分には飽きないだろう。どのみちここではあまり集中して読めないことは身にしみて分かっている。

 手で持つには少し持て余すこの重みがまた清治を満足させる。重さもまた重要だと想うのだ。知識には目に見えない重さがある。読む人が読めば知識は命を生かしも、また奪いもする。量は膨大でも簡単にライブラリから消去できてしまうデータに清治が重さを感じることはない。それがデータベースの利点であり、欠点でもある。だからというわけではないが必要でない限り、清治は旧本を読んで知識を得る。得る代わりに、懐は寒くなる。稀少な物は高い。学生という身分である清治にとってそれは目下の悩みだ。


「ほう、いずれはそうなる気があると。そんなにここがいいのかい」

どうも私にはわからないよ、とこぼし先輩は清治の顔を眺めたのぞき込んだ。

「自分にとっては。誰に理解してほしいとも想いません。今は、良さは僕だけが知っていればいい」

「……全く。キミは本当に頑固な後輩だな」あきれたようにつぶやく。「もう少し他に目を向けてもいいと思うのだけどね」


「もうデータベースが見れないのだからしょうが無いでしょう。授業について行くのにこれくらいはしないと。今となっては立派な趣味ですから」こんな言葉を言えるようになるまでには、時間がかかった。立ち直ったつもりでも致命的な自分の欠点をさらけ出すのは今でも難しい。事故の後遺症でこうなったからといえど、いつまでもそれを前面に押し出していくつもりがなかった。

 

 ため息を吐かれた。恐らくは単二重のオブラートに包まれたそれをいつもの通りに一蹴して次第に頁をたぐる速度が上がっていく。ため息と共に彼女もまた、そのへんにあった椅子を持って隣にやってくる。この先輩とは普段からあまり話すことはない。古書のかび臭い匂いに混じって、柑橘系の香りが鼻腔を刺激する。彼女は何するでもなく黙って隣で清治の本に目を通しているか、清治の顔を眺めている。決して自分から本を選んで読むようなことはしない。

 

 そうして、完全下校時間となるとさっと片付けて、校門で別れるのが日課となっていた。お互いそれ以上のことは知らない。彼女との関係はそれで十分だ。

 本日はどうも様子が違っていた。

「今日は本当にどうしたんですか。本を読んでいるなんて珍しいですね。また雹でも降りそうだ」

わざとらしくペラペラと音を立ててアピールを止めない左隣にいらだって意趣返しとばかりにそう返せば、ふくれっ面で先輩は不満を表明する。


「失礼な後輩だな、キミは。雪ならもう降っているだろう。なに、キミがあんまり真剣に読むから興味がわいてね」

 ちらと挙げられた視線が戻った先には文庫サイズの装丁の本があった。例によってそのタイトルは見えない。唯一存在するはめ殺しの窓から差し込む薄陽が彼女を照らして一つの絵画を作り出していた。題名は『深窓の乙女』。視線が合いそうになって、さりげなく本に目を戻した。

「この本だけが椅子に置かれていたのさ。君が置いたのかい?」

 

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