Page.1 生い立ち
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・地名等とは一切関係ありません。
2036年。
本土から遥か南の遠く離れた太平洋に浮かぶ小さな島、雪神島。
かつてこの雪神島には多くの島民が暮らしていたが、年々過疎化が進行し、今となっては島の人口は10人程にまで落ち込んでいる。
しかも、その殆どが70過ぎの老人ばかりという、典型的な限界集落と化していた。
同年9月30日。
そんな雪神島で1人の女の子が生まれた。
その子の名は、御堂真琴。
だが不幸にして真琴は、一般的な子供と比べると極度に体力が低く、長時間身体に負担がかかるとすぐに疲労困憊になってしまうという重い病を患って生まれた。
その上、病気への抵抗力が弱いため、特殊な薬剤を服用し続けなくてはならず、しかもやっかいな事に、その薬剤は副作用として極度の光過敏症を引き起こしてしまうため、太陽からの直射日光を数分浴びるだけで、真琴の肌は炎症を引き起こしてしまう代物であった。
医療技術が進歩し、癌ですら完治する現代においても、真琴の病を治療する方法は未だ確立されていない。
ゆえに真琴は、生まれてから一度も太陽の陽の下で遊んだ事がなく、一日中部屋のベッドの上で過ごして育った。
日が完全に沈んだ夜にでもなれば外出することもできるのだが、島の山あいに位置する御堂家周辺の地形は起伏が激しく、港まで続く唯一の道路は傾斜がきつい上に、長年の過疎化によってもう何十年も前から整備されておらず、所々で道が崩落していたり、土砂崩れで岩が散乱していたり、道路のひび割れから背丈の高い青々とした草が生い茂っているなど、とにかく危険極まりない状態となっている。
当然ながら、自動車やバイクでの通行は不可能だ。
そんな荒れ果てた道で、体力もなく、抵抗力の弱い真琴が転倒して怪我でもしようものなら、それだけで命に関わる危険がある。
ゆえに真琴に許されている外出範囲は、家のすぐ側の、木の柵で囲われた小さな庭のみ。
日が沈んだ晴れた日の夜に、真琴は庭にある切り株を椅子代わりにしてそっと座り、1日僅か2~3分の間、じっと星を眺めるだけ。
これが、真琴が実際に感じられる世界の広さ。世界の全てだった。
それでも真琴は「遠くに行きたい」とか「外の世界を見てみたい」とは決して言わなかった。
海の底を泳ぐ魚が宇宙まで行きたいと思わないのと同じように、真琴には庭より遠くへ行こうなんて思わなかったし、思いつきもしなかった。
◇ ◇ ◇
2037年8月11日。真琴0歳11ヵ月。
子供は夏休み。そして多くの社会人もお盆休みを迎えようとしていた時期。
真琴があと1ヵ月と少しで1歳の誕生日を迎えようとしていた頃。
真琴の父、御堂大輝は東京に単身赴任で働いていたが、お盆休みに雪神島へ帰って来る予定であった。
しかし、大輝の乗っていた船は、雪神島へと向かう途中に消息を絶ってしまった……。
当時、この連絡船の失踪事件は国内で大ニュースとなり、海上自衛隊まで出動して大規模な捜索も行われたが、ついに何一つ手掛かりを掴めないまま捜索は打ち切られ、連絡船失踪事件の真相は、今でも謎となっている。
父、大輝が行方不明になったことにより、御堂家の生活は目に見えて苦しくなっていった。
特に真琴の治療費は御堂家の家計に重くのしかかり、母の文子は休む間も無く働き続けた。
だが、御堂家のような悲惨な家庭に対して政府の支援は一切ない。
少々政治的な話になるが、日本政府は長年続く超超少子高齢化社会に対応するために『限界集落集約法』をついにスタートさせたからだ。
簡単に言うとその法律は『過疎地の住人は都市へ移住しろ。移住しないなら見捨てる』というもので、生まれ故郷に愛着を持つ過疎地の人々にとっては、まさに悪夢のような法律だった。
当然法律の施行まで全国的に大論争になったが、その話は置いておく。
ともかく、この法律によって過疎地に住む人々は「自らの意思による任意の移住」を余儀なくされたワケだが、雪神島に残った老人達のように、故郷を見捨ててまで都会へ移住する事には耐えられないという人々が、今もなお、全国各地の限界集落に点在していて大きな社会問題となっている。
そして真琴の母の文子もまた、生まれ育った故郷を見捨てる事ができなかった1人であった。
この悪名高い法律のおかげで、政府に見捨てられた雪神島の老人達は、国に頼ることなく助け合って暮らすようになった。
真琴の母の文子が働いている間は、手の空いた島の老人達が交代で真琴の家に出入りして真琴の世話をするようになった。
島の老人達は、一日中退屈そうにベッドの上で過ごす真琴を不憫に思ったのか、父の大輝が所蔵していた難しそうな古本を、文字も碌に読めない真琴に次々と読み聞かせた。
それらの古本は元々、父の大輝がインテリぶって見栄で買い集めた云わばコレクター的な本ばかりだった。
ゆえに、本のジャンルに統一性などは一切無く、また、漫画や雑誌といったカジュアルな娯楽本は一つもない。その殆どが何らかの学術本の類という、とても小さな子供に読ませるようなものではなかったが、幼い真琴がその内容を理解しているのか分からないが、とにかく本を読み聞かせると楽しそうにしていたと、島の老人達は口を揃えて言う。
後に真琴の異常とも言える記憶力や学習能力の基礎的土台は、これら父が残したお堅い古本の影響によるもの……かも知れない。
◇ ◇ ◇
真琴が住んでいる部屋は、昭和の古い木造建築を思わせる内装で、窓は田の字の木枠に質の悪いガラスをはめ込んだシンプルなものだ。
その小さな窓は分厚い遮光カーテンに塞がれていて、昼間でも真琴の部屋の中はほぼ真っ暗の状態に保たれている。
ちなみに真琴が服用している薬の副作用による光過敏症は、電灯などの人工的な光だと特に問題ないので、本来ならば部屋の明かりをつけても構わないのだが、御堂家の電灯はLEDではなく未だに旧式の蛍光灯を使っていた。
言わずもがな、現代では旧式の蛍光灯はとっくに生産が終了していて予備の入手は絶望的だ。
そういった事情もあり、御堂家ではあまり電灯をつける習慣はなく、夜はまるで停電したかのような暗さになる。
後に真琴が成長して自分で本が読めるようになると、ようやくオレンジ色の小さな常夜灯が部屋を優しく照らすようになる。
家の話といえば、御堂家には悪い話がまだある。
真琴の父が消息不明になって数カ月後、つまり真琴が1歳の頃。
当時の御堂家のリビングには、父の大輝が買い揃えた液晶テレビやスマートフォン、エアコンや掃除機、全自動洗濯機といった、それなりに新しい家電が一通りあった。
だがある日、雪神島は記録的な暴風雨に見舞われてしまい、その暴風雨によって御堂家のリビング一帯は屋根ごと崩壊してしまった。
その後、島民達の協力もあって、家屋そのものは以前よりもしっかりと改修されたが、リビングにあった家電類は全て使い物にならなくなった。
この暴風雨によって、御堂家の情報家電は1つ残らず機能を停止してしまった。
そしてそれは、雪神島から本土へ連絡する通信機器が全滅した事を意味した……。
雪神島の島民達によって宝物のように育てられた真琴だが、情報化社会が成熟した時代に生まれながら最先端の情報に一切接触できないという、とても日本国内の話とは思えないような極めて特殊な環境で育っていく。
◇ ◇ ◇
2043年。真琴6歳。
幼少の頃よりは幾分か成長した真琴は、身体に負担をかけなければ普通の人と同じように話したり、家の中を歩きまわったりできる程度には育っていた。
けれど、未だに遠出できるほどの体力はついておらず、以前よりは病気への抵抗力は高まったものの完治には至らないため、今も光過敏症の副作用がある薬を服用し続けている。
真琴が小学校に入学する数カ月前の事。
雪神島を管理する都では、真琴1人のために分校の復活が協議されていた。
限界集落指定された雪神島では、既にあらゆる公共サービスが停止されてはいたが、さすがに未成年の真琴の義務教育の件だけは見過ごせなかったようだ。
雪神島がそれなりの人で賑わっていた頃は、島の中央の森に囲まれた場所に本州の小学校の分校が存在していたが、過疎化により20年前に廃校となった。
時が経って廃墟と化していたその校舎を、真琴の入学に合わせて修復しようとする会議が関係者の間で何度か行われた。
しかし調査の結果、当の真琴が難病であり学校に登校する事も困難であると分かると、校舎の修復計画はすぐさま凍結となり、真琴の入学も、学校の復活も書面上のみの扱いとなった。
こうして真琴の扱いは書類上だけで処理され、実際には病を理由に義務教育すら受けられなくなるという、酷い状態となった。
同年5月。
真琴の義務教育の放置問題は、事情を知ったある都議会議員の調査により、早くも露見した。
都は急遽、真琴の家へ臨時教師を派遣する形で対応したが、それはまるで臭いものに蓋をするかのような冷たさであった……。
同年8月。
ようやく雪神島に派遣された教師は、東京からやってきた24歳の若手教師の八重樫留美だった。
留美は真琴の家に居候しながら、毎日真琴に勉強を教える事となった。
留美が雪神島にやって来る前の事。
東京で小学校の教師をしていた当時の留美は、都会の喧騒と融通の利かないしがらみだらけの職場で、心身共に疲れきっていた。
とにかく都会から逃げ出したいと思いつめていたところに、老人だらけの限界集落の離島で、たった1人の女の子のために授業をするという斡旋話を知ると、留美は一も二もなく飛びついたのだった。
実のところ、真琴の教師の選定は留美が志願するまで難航していた。
長年続く慢性的な教員不足により人が集まらなかったため、都の教育委員会は全国規模で急募することとなったが、殆どの教師が携帯の電波も届かない原始人のような環境の限界集落で、6年も勤務するのを嫌がった。
しかもそれが重度の病を持つ子ともなればなおさらで、真琴の身に何かあれば責任問題を問われかねないというハイリスクな案件であった。
結局、都が定めた期限ギリギリのタイミングで、ようやく留美が志願したことにより、真琴の義務教育問題は一応の解決を見せた。
雪神島へ赴任した当初、留美は真琴が病気の子だという事なので、あまり勉強は教えられないだろうと憐れに思っていた。
だが、留美の安易な先入観は、半月もしないうちに粉々に打ち砕かれることになる……。
真琴の記憶力と理解力は常軌を逸しており、留美が真琴の教師となってから数カ月もすると、学校指定の小学生用の教科書はあっと言う間に使い物にならなくなった。
以降、留美は国が定めた学習指導要領なんてものは一切無視し、実家から学生時代に使っていたあらゆる教科書を全て取り寄せ、それらの教材を使って真琴の勉強を指導していったが、真琴の超速学習ペースは留まる事を知らず、真琴が小学4年生の頃にもなると、授業内容は高校の進学校レベルのものとなっていた……。
後年、留美はとある雑誌のインタビューで真琴についてこう語る。
「はっきり言ってあの子は異常でしたねぇ。さすがにこれは無理だろうという超難題をぶつけても、翌日にはあっさりと解かれてしまいましたし、逆に教えた事を応用した難問をぶつけられる事さえあってヒヤヒヤしました。それがインターネットどころか、テレビやラジオといったものすら無い環境下で毎日のように見せつけられるものでしたから、正直頭を抱える日々でしたよー。しかも、それが6年間続く事になるなんて、島に来た頃には想像すらできませんでしたから大変なんてもんじゃ無かったです。途中で投げ出そうにも島に船なんて来ないので逃げられませんし……」(後略)
一方、真琴と留美の2人の交友関係という面では、真琴にとって留美という存在は非常に大きく、留美はただの教師と生徒という枠を遥かに超えて、親友、あるいは姉代わりのような存在となっていた。
姉妹のように親しくなった2人の間柄ではあるが、留美は都会については頑なに真琴に教えたがらなかった。
息苦しい人間関係や夜中に奇声をあげる騒がしい隣人、増加し続ける常識が通用しない迷惑な不良外国人、ぎゅうぎゅう詰めの通勤電車……。
何もかもが徹底的に合理化され、留まることなく進化しすぎた生活環境は、いつしか行きすぎた相互監視社会を生みだし、安らぐ暇すら許されなくなっていた。
これらは留美による屈折した主観でしかないが、そんな都会の窮屈な有様を仮に真琴に話してみたら、おそらく真琴はポジティブに捉え、まだ見ぬ世界にキラキラと目を輝かせるだろうと留美は考えた。
そして、何も無い見捨てられたこの雪神島の事を急に嫌いになったり、あるいは見下し始めたりして、心が荒む原因にならないだろうかと心配した。
そのため、留美は都会について聞かれると
「普通だよー。人とか池とかもあるよー」
と、白々しくはぐらかしていた。
そのうち真琴も留美の事を察してか、都会については全く質問しなくなった。
結局真琴は、都会というのは、教科書に載っているよくわからない写真やイラストからしかイメージできなかった。
◇ ◇ ◇
2049年3月。真琴12歳。
真琴は晴れて小学生を卒業した。
卒業式は真琴の部屋で行われ、真琴の家には島中の老人8人と、母の文子、そして教師の八重樫留美が集まっていた。
留美が卒業証書を朗読し両手で真琴に授与すると、いつも静かな真琴の部屋は拍手で包まれた。
簡素ながらもささやかな真琴の卒業式が終わると、今度は6年間付きっきりで教えていた留美とのお別れ会となった。
実は留美の母が数日前に脳卒中で倒れ、意識不明となってしまったのだ。
そんな状態でも留美は、真琴のために卒業式の日までは雪神島に残っていたのだった。
真琴の卒業式が終わり、留美は感謝とお礼と別れの言葉を言うと、名残を惜しむ間も無く急いで真琴の家を後にした……。
港まで見送りにすら行けない真琴は、部屋の窓から速足で去っていく留美を見送るしかなかった。
その日、2人はそれぞれ異なる場所でずっと号泣していた……。