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ドストエフスキー論

村上春樹、カフカ、ドストエフスキー、セルバンテス、夏目漱石の現実との接続について

 文学という領域では、メタファーという事が重要になってくる、と最近考えていた。ただ、このメタファーというのはいわゆる「暗喩」ではなく、作品全体が現実と何らかの関係を結んでいる、という意味なので、本来は「象徴」とか「アレゴリー(寓意)」と言った方が正確かもしれない。しかし今は、メタファーという言葉を拡張して考えていこうと思う。ここで使われるメタファーというのは「現実の象徴」という意味だと思ってもらいたい。


 例えば、村上春樹作品を「拡張されたメタファー」という観点から考えてみよう。僕の感じでは、村上春樹作品は「ねじまき鳥クロニクル」までは、彼の作品の物語の構造は現実の象徴、メタファーとなりえていた。彼の作品の物語的な構造が、高度資本主義的な世界で、人間達が織りなす文明の謎、不可解さというものと必ずリンクするようなっていた。


 これは吉本隆明が言っていた事だが、村上春樹の作品では、充足した高度資本主義、輸入されたアメリカ文化に対する「疑い」が作品の構造を成立させていた。「ダンス・ダンス・ダンス」の最初では、主人公の「僕」が、ティーン・エイジャーから小銭をふんだくる為に歌われたバンドミュージックに対する毒舌が現れていた。物語の最初にそれが出てくるというのは特徴的な事で、そうしたものに対する疑いが、主人公を世界の構造とは外れた(実は世界の構造の内部にすぎないのだが)もう一つ別の世界への冒険の契機となる。この物語の作り方は僕は優れていると思う。


 …とはいえ、村上春樹の作品にはある限界がある。それは、「ダンス・ダンス・ダンス」では主人公の「僕」が結局の所、スタートするのも帰ってくるのも、村上春樹自身にとって母胎のように感じられているある世界観であって、村上春樹はどうあってもこの世界観の外には出ない。この世界観とは多分、八十年代の日本の雰囲気であって、それは友人とバーでビールを呑んだり、自分が「寝たい」と思った女とはなんとなく優雅な雰囲気の中で「寝れる」ような世界である。


 村上春樹の他の作家では、村上龍をのぞけば、大抵、そもそも世界に対する疑いも抱いていないので自分は非常に物足りなく感じるわけだが、世界に対する疑いを抱いている村上春樹でも、上記のようにある限界性を感じる。では、この限界性はどのように表出されたのだろうか。僕はそれを、「海辺のカフカ」以降の、作品の現実からの遊離、つまりは単なる「お話」を紡ぎだす人になってしまったという事実に見ていきたい。


 ここで話を「メタファー」に戻す。…海辺のカフカでは、作品内で、化物を倒すシーンが出てきたと思うが、今振り返っても、化物を倒すという事は、それ自体何のメタファーにもなっていないと感じる。友人の手回しオルガン弾きさんが指摘していた場面で、イワシが降ってくる場面があったが、それもおそらくは何のメタファーにもなっていない。ここでメタファーになっていないとはそれが現実と接続していないという意味だ。


 こうした事で何が言いたいかというと、村上春樹が自分の中に持っていた、現実分析装置が時代が変わるにつれて機能しなくなっていったという事だ。世界が、八十年代の日本を大きく外れて、別の世界に変わっていくに連れて、分析は機能しなくなっていった。それにつれて村上春樹の作品は現実を遊離して「お話」を書くようになっていった。村上春樹は形式的なレベルでは技術を高めていっているだろうが、作品内の深い構造のレベルにおいては、作品の精度を高めていっているとは言いがたい。


 村上春樹とくらべて、例えばカフカを例に取ってみよう。カフカの作品というのはどれほど幻想的に見えても、常にカフカ自身の宿命と接続している。カフカの世界との間のごわごわした違和感、自分がそこになじめないという感覚、その感覚をカフカは絶対に手放さない。カフカ自身はそうした運命にうんざりしていただろうが、文学者としてみる時、カフカの作品を現実に接続させているのはその違和感である。カフカは、世界に対する異質物としての自分を手放さなかった。カフカの作品がアレゴリー・メタファーとして機能しているのはカフカが自身の違和感を手放さいなからであり、カフカは自身の宿命を通じて絶えず現実と接続していた。だからカフカの作品は現実に対する逃避としてのフィクション作品ではなく、あくまでも優れた文学作品として論じる事ができる。


 これに比べると村上春樹作品は確かに精妙に構成されたそれなりのスケールの世界ではあるものの、彼の作品は最初から作者にとってある気持ちの良い世界、優雅で快適な世界を目指していた。もちろんそうはいっても、その快適で優雅な世界にそれなりの意味、実定性があったのだ。しかしその実定性は「ねじまき鳥クロニクル」までで、それ以降は現実と接続する事も少なくなっていった。


 これらの事を総体として考え、今、ある程度の答えを出してみよう。つまる所、文学作品は何らかの形で現実と接続している事が求められる。この場合、「いや、想像力は無限だ、自由だ」という人がいるかもしれないが、カント哲学を想起してみれば、それは嘘だという事がわかる。我々は我々の世界の「外」を思考しうるが、その「外」も実は内側の世界を延長したものに過ぎない。「1+1=2」というのは我々の直感と一致するが、「1+1=3」の世界は想像する事ができない。「1+1=3」は正しいと言い張る事はできても、その「正しさ」がそう言い張っている人間の直感と一致する世界というのは、この世界に生きている我々には想起しえない。だから、我々は「1+1=2」が「正しい」(本当に正しいかどうかはわからないにせよ)として生きていく他ないのである。ここで想像力は限界線を引かれる。


 想像力はこのように限界を引かれるだろう。この時、SFもリアリズム文学も同じ、「文学作品」というジャンルに混合されるわけだが、それで構わないと自分は考えている。ではこの文学作品と呼ばれるものはなんだろうか。アリストテレスは文学というものを「一個の人間の人生を描く事によって人類全体の人生を象徴的に描き出す」のように定義したのだが、アリストテレスの定義は現代にも通用するのではないかと思う。アリストテレスの定義を村上春樹に適用してみると、海辺のカフカ以降の作品は人間全体を象徴する事を止めて、単なる文学作品という形式性の中に入っていったという事を意味する。


 こうして考えていくと、文学作品というのは常に現実と照応した、イデア的なものだと考える事ができるだろう。漱石やドストエフスキー、トルストイのような偉大な作家の作品は最初から最後まで現実に対して開かれていた。それは「海辺のカフカ」以降の村上作品とは違うタイプのものであって、村上春樹がいかに形式的に漱石・ドストエフスキーから学ぼうと、文学作品の根底的な構造において村上作品はドストエフスキーとも漱石とも異なっている。ドストエフスキー・漱石・トルストイ作品で物語性が現れるのは、現実に対する逃避や、現実の我々を心地よくさせ、読者を楽しませるためではなく(そういう目的もあったかもしれないが)、あくまでも現実に対する分析の延長線上の事だ。現実とは何かという問いに対してそれと葛藤し、それを越えようとする時にある物語のパターンが現れてくる。後代の作家がそのパターンにのみ目をつけ模倣すればそれなりの優れた作家にはなれるだろうが、セルバンテスやドストエフスキー、トルストイ、漱石のような大きな作家にはなれないだろう。彼らが偉大な作家なのは、彼らの作品が現実を観照し、なおかつそれを越えようとする事自体が、物語内部で主人公が運動していく過程として描かれているからであって、単にそういう形式性を生み出したからではない。


 それでもう少し付け加えるとすれば…カフカの作品は現実に対する照応やメタファー概念として考えられる。それは現実に対するカフカ自身の意識の構造化として認識する事ができる。しかし、カフカは現実と自分とを、極限的に、いわばセルバンテスのように対比的に作品内部に取り込む事はできなかった。カフカの作品が幻想的なのは、彼が幻想の外側にある現実を作品内部に取り込めなかったからだ。現実は幻想の外部にあって直感されてはいるが、内部に取り込めてはいない。これを取り込んだのだがセルバンテスの「ドン・キホーテ」であり、だから「ドン・キホーテ」の主人公は悪夢を背負ったまま現実を通行する。こうして考えていくとドン・キホーテという主人公はカフカの悪夢…カフカの作品全体を脳髄に宿したまま現実と戦う物語であり、カフカよりも一段大きい構造を持っていると言える。同じ事はドストエフスキーの「罪と罰」にも言える。時代が違うので本来単純比較できないのだが、無理に比較するというそういう点でカフカーーセルバンテスは物語の構造が大きく違うと思う。

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― 新着の感想 ―
[一言] >>、「海辺のカフカ」以降の、作品の現実からの遊離、つまりは単なる「お話」を紡ぎだす人になってしまったという事実 >>村上春樹が自分の中に持っていた、現実分析装置が時代が変わるにつれて機能…
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