美しいパイアキス、彼は――
「パイアキス、おまえが悪いぞ!」
「何です? いきなり……」
何の前触れもなく背後から怒鳴りつけられ、パイアキスは呆れて振り向いた。
声をきいた瞬間に、その主が誰であるかは判った。
彼の兄役――フェイディアスだ。
だが、振り返ったパイアキスは、予想だにしない光景を目にしてあっけにとられた。
フェイディアスは、片目のまわりを紫色に腫れ上がらせていた。
身につけた衣服はずたずたに裂け、逞しい身体にかろうじてぶら下がっている状態だ。
サンダルは片方脱げ、しかも、両の手足が血で真っ赤に染まっている。
「どうして……いったい、何があったんです!」
「どうしてもこうしてもあるか! これは、おまえが原因なんだぞ!」
フェイディアスはいまいましげに喚き、地面に座り込むと、乱れた髪を乱暴に手で梳いた。
パイアキスはすぐに彼のそばに駆け寄って膝をつき、自分の衣で赤い血を拭き取った。
フェイディアスの手を取り、食い入るように怪我の様子を調べる。
――だが、手足には血がついているのに、フェイディアスの身体には、どこにも傷がない。
「大丈夫だ、パイアキス。俺の血じゃない」
顔をあげると、フェイディアスは磊落に笑っていた。
「そこの辻で、男どもに襲われたんだ。まあ、全員、手ひどくぶん殴ってやったが」
「男ども……?」
「おまえの崇拝者どもさ」
パイアキスは、はっとした。
街のあちこちの壁には、たくさんの落書きが書き込まれている。
『誰某、美しい』『誰某、愛しい』――
そういう、娘や少年、青年を讃える文句が並んでいるのだ。
面と向かっては伝えることのできぬ想いを、恋する者は、物言わぬ壁に託すのである。
最近、そんな壁のそこここに、パイアキスの名が頻繁に見られるようになっていた。
フェイディアスは、そういう落書きを目にするたびに不愉快さを隠そうともしなかったが、敢えてそれらを削り取ることはせず、そこに並べて、大きな字でこう刻んだ。
『美しいパイアキス、彼はフェイディアスのもの』
「恥ずかしいからやめてください。落書きくらい、放っておけばいいじゃないですか」
と、パイアキスは呆れていたのだが――
「あなたを傷つけるなど……許せない。誰の仕業です」
「いや、いいんだ」
「よくありませんよ! 私のせいで、あなたがこんな目に――」
「何だ、俺の言ったことを気にしたのか? あれは、ただの冗談だ」
底光りのする目で言ったパイアキスを、フェイディアスは穏やかになだめた。
「許してやれ、パイアキス。俺にぼこぼこにされた上、おまえにまでやられたのでは、あいつらは完全に再起不能になる。
それに、戦って美しい愛人を勝ち取るのは、男の名誉というものだろう?」
「フェイディアス……」
パイアキスは、理解できない、というように首を振った。
「皆、眼が曇っているとしか思えませんよ。私は美男子じゃないし、そう若くもないのに、その私をつかまえて、美しいだなんて――」
「眼が曇っているのはおまえのほうだぞ、パイアキス」
フェイディアスは、からかうように言った。
「美しさは容姿や、年齢だけに宿るものか?」
子供のようにきょとんとした表情を見せたパイアキスは、まだ、フェイディアスの腕をしっかりと握りしめたままだ。
その手を撫で、フェイディアスは告げた。
「おまえほど心ばえの優しく、誠実な男は他にはいない。その心の美しさに、皆、惹かれているのだ」
「そんな――」
なおも否定しようとしたパイアキスの唇に、フェイディアスの唇が押し付けられる。
かすかに血の味がするくちづけは、しかし、この上もなく甘く感じられた。
「ここの壁にも、書いておくか? 『美しいパイアキス、彼はフェイディアスのもの』と」
「お願いですから、やめてください。また、余計な喧嘩に巻き込まれたらどうするんです?」
「そうだな」
にやりと笑い、フェイディアスはパイアキスの身体を引き寄せた。
「おまえの身体に、刻んでおけばいいか」
【終】