第二十五章:希望の玖(いし)(1)
どれくらいたっただろうか?気が付くと、たくさんの光の妖精が勇希たちの周りを、まるで二人をいたわるように飛び交っては消えていった。敬介たちの周りにいたはずの悪鬼たちも一匹として見当たらなかった。
「あんたの翼ってすげえ力持ってたんだな」
「いや。あれは私の力ではありませんよ」
目の前の光景に目を奪われたまま、興奮したように話しかける敬介に、ルシファーは半ば茫然とした力のない声で答えた。
「え、でも、あんたの力じゃないって…それじゃあ、あの力はいったい…?」
「きっと、あれが光の…『希望の玖』の本当の力なのでしょう…」
四人があっけにとられて見守るなか、はるか上空にいた勇希と光が静かに降りてくるのが見えた。大きく青白く光る翼を広げたその姿は、大老神であるセフュロスなど足元にも及ばないほど荘厳で、初めからあれが自分達の仲間だと知っていなければ恐らく天使かなにかが降りてきたと思っただろう。けれどお互いの顔がはっきり見える高さまで降りてきた光は以前と何も変わらない敬介たちが知っている仲間だった。
「光!」
その顔にレルムたちが安心して集まってくる。何もかも終わったと真津子がほっと胸を撫で下ろしたその時だった。突然、今まで事の次第に驚いて声も出なかったセフュロスの顔がみるみるうちに怒りで紅潮し始めた。
「待て」
地面を這うような太く低い声が言った。
「どこに行くつもりだ」
まだ上空に浮かんだままのセフュロスを見上げると、その巨体の周りに黒雲が立ち込めるのが見えた。町中飛び交っていた光の精たちはその雲の到来と共に一瞬にして掻き消えている。
「答えろ。どこに行くつもりだ」
セフュロスは自分に背を向けたまま、何も答えようとしない光に怒声を投げつけた。
「このままで済むと思っているのか?全能の神に楯突いた罪がいかに重いものか…」
「もう、いい加減にしろよ」
セフュロスの言葉を遮った光の声は、とても穏やかで、それでいてどこか怖いような低い声だった。
「何を…」
「もう、いい加減にしろと言ったんだ」
振り向いた光の瞳はセフュロスの灰色のそれを真直ぐに捕らえると、もう一度同じ台詞を繰り返す。だが興奮しているセフュロスに光の意思など通じはしなかった。
「お前は何を言っているのかわかっているのか?我はお前たちの創造主。お前達を生かすも殺すも我の思い一つなのだぞ」
「それは、違う」
口から唾を飛ばしながら早口に捲くし立てるセフュロスを、ルシファーの言葉が遮った。上空のかつては自分の兄だった者を見上げるルシファーの目はいつもの疲れきった色褪せた瞳ではなく、まるですっかり忘れていた色を取り戻したかのように、鮮やかな碧色に輝いていた。
「あなたは間違っています。確かにあなたはこの世界を創造したかもしれない。けれど、だからと言って理不尽な言動が許される理はないのです」
ルシファーの言葉にセフュロスは目をかっと見開いて、既にあった眉根の皺をさらに深くその顔に刻みつけた。
「なんだと?」
「あなたはいつからか変わってしまった。ずっと長い間、罪のない天使や地上の生き物や人間をあなたの歪んだ心で傷つけてきた。それは例え生を与えた神であっても許されないことです」
「ルシファー…地に堕ちたお前が我に意見をするというのか!お前はいつも我の邪魔をする…それゆえに暗く湿った地下に堕とされ、恋人を殺され、それでもなおお前は我に逆らうというのか」
「何言ってんのよ!それもこれも、あんたの我侭が原因じゃないのさ!」
セフュロスの勝手な言い草に腹を立てたつくもが割って入った。
「ふん。人間の娘が何を言う。我は大神。我の存在は絶対なのだ。絶対のものに従わぬものはすなわち悪であり、悪を処罰するのは神の仕事。お前たちも、我が堕ちた弟と一緒に仲良く朽ち果てるがよい」
セフュロスはそう言うと光たちの頭の何倍もあるかというような大きな掌をこちらに向けた。はっと身構えた光たちの横を何かが風のようにすばやくすり抜けた。それが何だったのか、理解する間もなく耳をつんざくような爆発音がして同時に発生した爆風に光たちは皆地面に叩きつけられる。間一髪、真津子とレルムが張った防御陣のお陰で体に受けた衝撃はさほど酷いものではなかった。
「一体何が起こったの?」
光の腕の中で身を起こした勇希は空から落ちてくる、ぼろきれのようなものに目を留めてはっと息を飲んだ。大人の体とは思えないほど細くやせ細った肢体。長い艶のない緑の髪が揺れている。
「ルシファー!!」
五人はそれが誰なのかに気付くと一斉に駆け出した。いち早く駆け出した光が滑り込むようにして落ちてきたその細い体を受け止める。腕にかかった重さはまるで小さな子供ほどしかなかった。
「おい、しっかりしろ!おい!」
激しく揺さぶりながら声をかけるとルシファーはうっすらとその瞼をあげた。セフュロスの攻撃をまともに受けたその体はぼろぼろで、唯一つ、開かれた一対の瞳だけが煌々と輝いていた。
「今、回復魔法をかけるから…」
そう言って自分の体を地面に下ろそうとする光の腕に骸骨のようなルシファーの長い指が触れた。はっと視線を戻す光にルシファーは穏やかな笑みを浮かべた。
「いいのです。もう…私は十分この世界に留まった…。これでやっと、ルナのところにいける…」
「何腑抜けたこと言ってるのよ!こんな、こんなことであんたが今まで勇希たちにしてきたこと、全部帳消しにできると思ったら大間違いなんだからね!」
きっとなって怒鳴りつけるつくもにルシファーはふっと自嘲的な笑みを浮かべたが、すぐに真顔に戻ると光にその視線を向けた。
「あなたは、負けてはいけませんよ。あなたは私の…皆の希望なのですから…必ずこの世界を助…け…」
ルシファーの口からそれ以上の言葉が発せられることはもうなかった。最後に往年の光を取り戻した瞳がきらりと輝くと静かに瞼が下りていく。その顔は相変わらず痩せて皮ばかりだったが、大切な何かを成し遂げたという確かな満足の表情が浮かんでいた。