第二十一章:それぞれの想い(8)
暗い部屋に白髪の老人が佇んでいる。その灰色の瞳には凍りつくような鋭い光を湛え、狭い額にはくっきりと深い皺が刻まれていた。
『さあ、楽しい宴の始まりだ。我に仇名す光の子。闇から生まれし希望の雫よ。お前は我に勝てるかな?彼の者の姿を知って…己の使命を知って、それでもなお、お前は我に立ち向かえるか?』
老人はただ一人、何も見えない闇を見つめてはその顔を愉悦に綻ばせる。
『さあ、我の可愛い操り人形よ。お前のすべてを取り戻すがよい。失われし、封印されしその力。今こそ、その忌まわしき力を解放するがよい。哀しいか?くやしいか?だがもう遅い。手遅れだ。お前に残された道はただ一つ。その力を解放しろ。そうして全てを…』
老人がこみ上げてきた笑いを我慢できたのはそこまでだった。深く暗い闇に老人の笑い声が響き渡る。狂ったような笑い声がどこまでもどこまでも続いていた。
***
そうだ、その手があった。
「光くん?」
光の様子に勇希が不安そうな声を出す。光は何も言わずに左耳に下がっていたピアスを外すと菖蒲の側にそっと置く。そうしてまだ菖蒲の血がついたままのエクスカリバーを両手で持ち上げると涙石の上に振り下ろした。白く光る刃金が青い石を砕くと同時に地面へと深く突き刺さる。その途端、エクスカリバーと光の体の両方が自ら輝き始めた。
「なんなの、この光…」
驚く勇希の目の前にさらに輝きを増した光の背中からいつか見た青白い翼が出現した。その翼を広げると、以前勇希たちが見たものよりもさらに大きくなっていて、辺りに光の羽根がはらはらと舞い上がる。その美しいさまに思わず見とれていると、背後からレルムの悲鳴にも似た叫び声が聞こえてきた。
「光!」
はっとして後ろを振り返ると顔を真っ赤にしたレルムが息を切らせてこちらへ走ってくる。その後ろに敬介たち三人の姿も見えた。
「みんな、無事だったの…」
「勇希、光を止めるのにゃ!」
仲間の無事な姿にほっとして声を掛けようとした勇希をレルムの金切り声が遮る。普段の傲慢で非常識なほどの余裕は微塵にも考えられないほどレルムは取り乱していた。
「なっ…なに?止めるって一体どういうこと?」
「禁断の魔法を…命が…!!」
レルムが答え終わる間もなく、勇希の背後でものすごい量の気と光が膨れ上がった。はっとして振り向くと光の体が目を開けていられないほどの光の中でまるで陽炎のように揺れている。
「なっ…なんだ、この光は!」
やっと側に駆けつけた敬介たちもあまりの眩しさに目を閉じた。それでもその光の本流は閉じられた瞼を通して伝わってくる。
「これじゃ側に行くこともできないよ!」
つくもの叫ぶ声が聞こえるが、その場にいた誰もが動けない。
「光、ダメ!今のあなたではその術は…」
「自己犠牲!」
「!!」
レルムの声に光の声が被る。その呪文にその場にいた誰もが言葉を失った。
いつだったかみんなでつくもの家に集まったことがあった。灑蔵に魔法の講義を聴くためだ。つくもの祖父が武道の達人であることは公認の事実だが、実は魔術に関しても非常に長けた人物であった。レルムが師匠と言って朝夕となく道場に通っていたのもどうやら灑蔵が持つ無限の知識によるところのようだった。灑蔵の話によると、魔術を使役できるのは生まれながらにその資質を備え持った者だけで、たとえ資質を持っていても、それぞれにあった属性というものがあり、属性を持たない魔法を使うことは例え高位な魔道士でも不可能らしい。そして、中には属性を持っていても使役できないもの、あるいはその危険性に半ば封印されたものもある。その一例として灑蔵が口にした究極の蘇生呪文があった。その呪文というのが―。
「サクリ…ファイス」
つくもが消え入るような声で繰り返す。最高位の魔道士でも完成させるのは難しいと言われるその呪文はリゾレクションでも助からない者を蘇生させる回復系最大の究極魔法。光属性において最終秘奥儀と言われるその魔法への代償は術者の存在そのもの―。
恐る恐る目を開けてみる。今までいたはずの異空間の闇は跡形も消え、空には雲ひとつない青空が広がっていた。辺りはさほど広くない空き地のようであちこちに雑草が生え、両隣にはどこにでもある、ごく普通の家が建ち並んでいる。けれど目の前にいたはずの光の姿はどこにも見当たらなかった。やっぱりという諦めの気持ちと認めたくないという気持ちが入り混じり、つくもの目から一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。
「ううっ…」
草むらの中で小さな呻き声がする。はっとしてそちらに目をやると、倒れている菖蒲の姿が目に入った。真津子が急いで駆け寄ると脈を診る。あれだけひどかったはずの外傷はきれいさっぱり消えていた。
「遅かったか」
皆が無言で立ち尽くしていると背後から聞きなれた声がした。振り向くと同じく落胆した様子のルシファーが立っていた。あまりのショックに食って掛かる気力すらない。ただ一人、ルシファーの声に反応することもなく呆然と立ち尽くしていた勇希の前に一枚の光の羽がふわふわと舞い降りてきた。勇希が反射的に手を伸ばすと、その指先に触れた途端、まるでシャボン玉のようにはじける。
「また…繰り返してしまったの…」
勇希の唇から、力のない声が漏れる。次の瞬間、今までかろうじてつながっていた何かが勇希の中でぷっつりと途切れた。
「みんな、勇希が!」
その変化に気付いたレルムが小さな悲鳴をあげる。言われて見ると、勇希の体から何か黒い禍々しいものが煙のように湧き上がっていた。この気配には見覚えがある。ヒプノスを始めとする魔族の類がこういった邪悪な気を纏っていた。けれども勇希のそれは今まで敬介たちが対峙してきたどの魔族のものよりもおぞましく、震えがくるほどの瘴気を湛えていた。そうしてそれは時間が経つほどに膨れ上がり、その濃度を濃くしている。堪え切れないほどの吐き気に耐えながらその中心にいる勇希を見ると、まるで心を失ったように無表情で大きなセピア色の瞳には何一つ映っていないようである。
「なんだ、このすさまじい気は?」
勇希の側に駆け寄ってやりたくても、体にかかるプレッシャーに立っているのがやっとだ。一体なにが起こっているのか訳がわからない敬介たちにルシファーがぽつりと呟いた。
「とうとう、暴走してしまったのですね…」
「え?」
「破壊神の覚醒です。一番避けたかった事態が起こってしまうとは…」
ルシファーはそう言うと悔しげに下唇を噛んだ。
「暴走?覚醒?一体どういうことだよ?」
「ちょっとあれ!」
問い詰める敬介を今度はつくもが遮った。それまで晴れていた空には今、重く暗い雲が垂れこみ、みるみるうちに暗黒の世界が広がろうとしている。不吉な光景を成す術もなくただ唖然と見上げていると、突然、勇希の体が宙へと舞い上がった。その体から今度はなにやら得体のしれない、邪悪なものが何千、何万と溢れ出し、四方八方へと飛び去っていく。その様は、まさに「地獄絵巻」と言った感じだった。
「ナユルが、『深き闇』がとうとう暴走したのです。神の計画を遂行するためにね」
ルシファーが苦々しげに答える。
「神の計画?『深き闇』?いったいなんなんだよ。ちゃんと解るように説明しろ!」
周囲を徘徊する黒いものにうろたえながら、敬介が悲鳴のような声をあげた。それはまるで悪霊か何かのようで、黒い影に二つの目と一つの口と思われる空洞が開いている。近寄ってくる影をつくもの大剣が切り裂くが、実態のない霊たちはすぐに再生を始めてしまう。
「スターダスト!」
レルムの呪文にきらきらと輝く光の粉が舞い上がる。辺りにいた数体の霊魂が消滅するも、また後から後から新しい魂があちこちから湧き出してきた。
「うにゃ〜〜。これじゃキリがないのにゃ」
さすがのレルムも何度目かの呪文の後には泣きそうな声をあげた。
「今更説明してどうなるというのです。我々がどうあがこうと、もう全ては終焉に向かってしまった。『深き闇』を止めることができる唯一の希望が失われた今、もう誰も、この暴走を止めることなどできないんですから」
全てを諦めてしまったようなルシファーの口ぶりにつくもたちの苛々がさらに募っていく。だが真司たちとの戦いで体力を消耗しきっているうえ、物理攻撃は一切効かない無数の敵を相手には今の状態を把握すらできていないつくもたちに出来ることなど限られていた。
「とにかく、今はここを離脱する!話はそれからよ!」
真津子がそう叫ぶと、皆の周囲が一瞬、淡い光で包まれる。光が消えた跡にはただ闇と黒いものたちの悲痛な叫びだけが取り残された。