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第二十章:愛情の裏側にあるもの(1)

黒ずんだ扉を押すとチリンチリンと軽やかなドアベルの音が響く。菖蒲が一歩足を踏み入れると、待ち構えたように茶髪の店員が出迎えた。


「いらっしゃい…。あれー、菖蒲ちゃん。久しぶりじゃないか…。最近顔を見ないから心配してたんだよ。どうしてたの?」


いつものように変わらない人懐こい笑顔でヨウジが話しかけてくる。菖蒲が最後にここに来たのは半年も前のこと。近所の町並みは驚くほど変わっているというのに、なぜかここだけは何も変わっていなかった。店内は相変わらず女性客で賑わっている。落ち着いたジャズが流れ、香ばしいコーヒーの匂いが満ちるこの場所にいると、まるで昔のまま何も変わっていないような錯覚に捕らわれてしまう。本当に何も変わっていなければよかったのに。そう思うと、自然とため息が漏れた。


「疲れているみたいだね?大丈夫?」


菖蒲のため息を勘違いしたヨウジが心配そうに菖蒲の顔を覗き込む。ここ半年はいろんなことがありすぎて確かに疲労困憊だったが、事情を知らないヨウジに話すことではない。それに、今日はここにお茶をしに来たわけではないのだ。早く目的を果たさなければ。菖蒲は慌てて首を振ると無理に笑顔を作って要件を告げた。店の奥に消えるヨウジの背中を見届けると、菖蒲は二度目のため息をついた。


菖蒲は火群の企みを遂行するためにここにいる。光の身柄の保護。それが火群の企みだった。光の体はまだ安定しているわけではない。定期的に必要な薬を投与しなければ、各機能が停止し死に至る恐れがあった。二度目の入院の後、処方された薬はとっくの昔になくなっているはずなのだが、出生の秘密を知って以来、光は一度も診察に訪れていなかった。


本人に自覚症状が現れていないのかもしれないが、自覚症状がないからと言って普通の人間のように健康とは限らない。それに、勇希たちに通院するのを止められている可能性もある。取り返しのつかないことにならないためにも早急に身柄を拘束する必要がある。勇希たちからの妨害を防ぐためにも、この世界とは別の場所に保護しなければならないと火群は締めくくった。


「別の世界って…いったいどうやって?」


「ヒプノスを使うのだ」


とまどう菖蒲に火群はまるでなんでもないことのようにそう答えた。ヒプノスというのは夢を司る鬼神である。その神の力を借りて光を菖蒲の夢の世界に保護しようというのだ。それにはまず、光を連れ出す必要があった。以前の菖蒲なら、光はなんのためらいもなくついてきてくれただろうが、今は状況が違っている。一番知らせたくなかった事実を偶然聞かれてしまった。それは菖蒲が一番護りたかった人を最悪な形で傷つけ、裏切ったことになった。


あれ以来、菖蒲は光の前に姿を現していない。どんな顔をして会えば良いのか、一体何を言えばいいのかわからなくて逃げていたのだ。今も正直、どうすればいいのかわからない。実際会っても怒って口も利いてくれないかもしれないし、そうでなくても以前と同じようにとはいかないだろう。それに自分がしようとしていることは、光を自由のない場所に閉じ込めてしまうことになる。例えそれは光を危険から護るためだとしても、別の犠牲を伴うことに変わりはない。


自問自答する菖蒲の前に現れた光は何も変わっていなかった。菖蒲の心配は無用なものだった。自分の失踪に責任を感じていたらしい光は菖蒲の顔を見た途端、ほっとしたように胸を撫で下ろすと、自分のせいで菖蒲に迷惑をかけてしまったと小声で詫びた。小声なのは店内の女性客がじっとこちらを凝視しているからに他ならない。そんなところも相変わらずで菖蒲は思わず笑みを漏らした。それにつられたように光も優しい笑みを返す。


「ちょっと話があるんだけど、つきあってもらえる?」


本来なら謝らなければならないのは自分のほうだ。そう言いたいのに実際口から出たのは全く別の言葉だった。光は菖蒲の誘いに疑うことなくわかったと答える。自分を見下ろす満面の笑みが眩しい。穢れを知らない子供のような笑みに胸の奥がずきんと痛むのを感じた。


(あら、怖気づいたの?)


心の闇に妖艶な女の姿が浮かび上がる。血の気の失せた青白い顔に真赤な口紅がどこか猟奇的なものを感じさせる。切れ長の瞳はまるで血を流しているかのように真紅に染まっている。その瞳が意地悪そうな笑みを浮かべ菖蒲の闘争心を煽った。


(そんなわけ、ないでしょ)


菖蒲は腰が抜けそうになるのを必死でこらえながら女の顔を睨み返した。


(ならいいけど。あなたの気持ちにはまだ斑があるから、任せていられないわ)


女のてらてらと妖しく光る赤い唇が薄く笑うのを見て菖蒲の全身に鳥肌が立つ。


(心配しなくても大丈夫よ。ちゃんとできるんだから)


(そう?じゃあ、しばらくはお手並み拝見といこうかしら。でもあなたが契約を破ろうとすればその時は…わかっているでしょうね)


女の声はどこまでも穏やかだ。なのにその声音には有無をも言わせぬ支配力が宿っている。


(わ、わかっているわよ)


ごくりと生唾を飲む菖蒲を女は愉快そうに一瞥するとまた闇の中へと消えていく。女の姿がどこにもないことを確かめると、無言のまままだ陽の高い戸外へと足を向けた。

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