第十九章:嫉妬(5)
真津子は暗い海の傍にひっそりと立つ灯台を呆然と見上げていた。息をするたびに、真っ白な煙が闇に現れては消えていく。冬の海は恐ろしく暗くて冷たかった。風が吹くたびに頬が鋭利な刃物で切られるようだ。灯台は思ったとおり真っ暗だった。光の言葉に後先考えず飛び出してきてしまったが、冷静になって考えてみると、こんな時間にあの光が自分を呼び出すなんて通常では有り得ない。だとしたら光の声音を使った敵の罠か―。冷たい夜風にはっきりしてきた頭が危険信号を放っている。入ってはいけない。今ならまだ間に合う。今すぐ引き返せ―と。
けれど、と真津子は自分に言う。もし、これが敵の罠だとして、相手は本当に光の声音を真似しただけだろうか?もし、本当に光が囚われているのだとしたら?何かの術でかつての自分のように操られているのかもしれない。自分がここで敵に背を向けるということは、また大切な仲間を自分の手で殺すということではないのか。
(それがどうした?)
心の中で悪魔の声が低く囁いた。
(それがどうしたと言うのだ?あれがお前の仲間だと?馬鹿なことを言っちゃいけない。カミンならともかく、光はただのクローンじゃないか。お前の父親が作った、ただの操り人形さ。今更人形の一つや二つ、いなくなったところで何が変わるってわッじゃない。だが、お前は一人しかいないんだ。この世の中でたった一人のお前がいなくなれば、一体誰がお前の代わりをするんだい?)
そんな、そんなこと…。あの子は私の仲間。大切な仲間…。操り人形なんかじゃ!
(そうかい。そこまで言うのなら、試してみるがいい。お前の本当の気持ちがどれぐらいのものなのか。ホンモノの人間と作り物の光、どちらがお前にとって大切なのかをね)
悪魔がふっと意地悪な笑みを残して消えた時、それまで真っ暗だった灯台の中から淡い青白い光が漏れてきた。真津子は一度大きく深呼吸すると灯台の中へ足を向けた。中を覗くと、中央付近に紺碧の髪の青年が立っているのが見えた。身体中を包んだ柔らかな青い光がさほど広くない灯台の内部を優しく照らしている。光は真津子の姿を目にすると、いつもと同じ柔らかい微笑みを浮かべた。
「来て、くれたんだね」
「ええ…。あなた、大丈夫なの?」
ふだんと変わらない様子の光に真津子は戸惑いを映した堅い表情のまま尋ねる。対する光は真津子の問いの意味がわからないようで、子供のようにこくんと小首をかしげてみせた。
「大丈夫って?」
「また敵に襲われたりとかしたんじゃないの?こんな時間に呼び出すなんて、あなたらしくないし」
「ああ、そういうことか。大丈夫。僕は敵じゃないよ。ただ、思い出してね」
「私の…父のこと?」
光が自分のことを「敵じゃない」と言ったことがひっかかったが、真津子は気付かないフリをして話を促した。電話で光は眞のことを思い出したと言っていたのだ。眞がどうして光のことを知っていたのか、どうして真津子に光のことを頼むと言ったのか、それが真津子の知りたいところだった。
「うん。病院を出てからさ、少しずつだけど、映像を見ることがあったんだ。それで、最近それは僕が生を受けてからあの病院に運ばれる前の出来事だって気付いたんだよね」
「その中にいたのが…」
「君のお父さん。眞さんだよ」
そう言って光は生前の眞のことを話し出した。自分の名前を教えてくれたこと、言葉や読み書きを教えてくれたのも眞だと言う。光は眞の教えることをどんどん吸収していった。それこそ、人一人が一生をかけてやっと覚えられるかどうかの量の内容をたったの数ヶ月で完全にものにしてしまう光に眞も驚いていたらしい。自分の娘とどちらが優秀だろうかとうれしそうに話す眞の顔を思い出して光は思わず微笑んだ。
「息子ができたようでうれしかったんでしょうね」
「一度だけ言われたんだ。お前が本当に自分の息子だったらよかったのに…って」
真津子の言葉に光の顔から笑みが消える。その目には哀しみが溢れていた。
「光君…」
光の潤んだ瞳に真津子の胸がずきんと痛む。少し上目使いでこちらを見つめる光はまるで雨の日に捨てられて泣く子犬のようだ。いっぱしの大人以上の知識を持っているとは言え、光が実際に生きてきた時間はレルムの年にもおよばない。そのせいか、たまに光は小さな子供のような仕草をすることがある。普段は敬介よりもしっかりしているし、本人は気付いていないのだろうがそんなところもバイト先に来る女性客が「かわいい」と光に夢中になっている理由だった。
「本当にアニキは罪作りな男だな」
どう言葉をかけようかと考えあぐねていたとき、光の背後から突然誰かの声がした。他には誰もいないと思っていた真津子は驚いて身体をびくりと震わせる。いつからそこにいたのだろう。光の背後に立つ針のように鋭い目をした色の浅黒い男の姿に真津子はその目を見開いた。
「叔父さま?」
真司の浅黒い顔が光の青白い光にさらされて、まるで病み上がりの人間のように見える。ただ一つ、父と同じ灰色の目には今。狂気の色が宿っていた。
「叔父さま…いったいどうしてここに…!」
はっとして光を見ると、もうその藍色の瞳には生気のかけらも残っていなかった。光を失い何も映さなくなった瞳がただ呆然と闇の中を彷徨っている。
「光君に・・・いったい何を?」
「ああ、彼かい?ちょっと俺に力を貸してもらおうと思ってね。菖蒲に頼んで彼女の夢の世界へ閉じ込めてもらったのさ」
「夢の…世界?」
「そこで作り出したのが彼の影…。この子さ」
「影?」
真津子はただ、真司の言葉を繰り返す。いったい何のことを言っているのだ?どうして真司がここにいるのか、なぜ真司が光を閉じ込め、代わりに影を作り出さねばならなかったのか。いくつもの疑問が真津子の脳裏に浮かんでは消えていく。
「そう。ヒトは誰でもその心の中に光と影を持っている。クローンの彼も同様にね。影の部分は覚えていたんだ。兄貴が彼を自分の欲望のために作り、偽物の愛情を与えていたことを」
「一体、なにを…?」
まだ要領を得ない風の真津子に真司はふっと唇の端をあげて、一歩近づいた。それにあわせ、真津子は反射的に一歩後ずさる。人を小馬鹿にしたような、嫌な微笑みだった。
「わからないか?真津子。兄貴は後継者が欲しかったんだよ。男の後継者がね。だから無理やり千津慧と結婚して子を設けた…。だが、最初の子は女の子で…もともと身体の弱かった千津慧はその子を産むと同時に命を落としてしまった。どうしても後継者の欲しかった兄貴は偶然舞い込んできたクローンの話を利用することにしたのさ」
「そんな!」
「そんなことは信じられない?はっ!そうだろうな。お前は兄貴の本当の姿を知らないのだから」
真司は吐き捨てるようにそう言うと、憎悪のこもった瞳で真津子を見据えた。
「俺はずっとアニキを憎んでいたよ。あいつは俺から千津慧を奪い、そして殺した。真津子、お前と共にな。お前達父娘を、俺は許さない。だから俺は復讐するんだ。アニキが護ろうとしたもの全てを壊してやる。お前も、光も、そしてこの世界の全てをな」
「叔父さまは、もしかして母さんのことを…」
昔、眞に聞いたことがある。三人が幼馴染だったことを。偶然隣に住んでいて、年も近かったからよく一緒に遊んでいたと言っていた。若い頃の千津慧は真津子にそっくりで、ころころと鈴のような声で笑う愛らしい少女だった。近所には悪ガキも多かったから、よく兄弟で庇っていたらしい。
「オレがいつも護ってやる」
幼い真司はちょっとしたナイト気取りで口癖のように言っていた。
三人はまるで本当の兄弟のように仲が良くていつも、何をするにも一緒だった。けれど、そんな三人の関係は、大人になったある日突然崩れ去った。兄の眞と千津慧が結婚することになったのだ。おそらく真司は、千津慧に想いを寄せていたに違いない。でも、真司にはどうすることも出来なかった。いや、もしかすると、千津慧に気持ちを打ち明けていたかもしれない。けれど、運命は真司に見方してはくれなかった。しばらくして真津子が生まれ、千津慧は代わりに命を落とした。千津慧を奪った兄、そしてその命と引換えに生まれてきた真津子。自分と同じ血を引く二人を真司はずっと影で恨んでいたのだ。
「ふっ。いい加減、おしゃべりは終わりだ。さあ、親父の大切にしていた操り人形に殺されてしまうがいい」
そう真司が言った途端、光の瞳に奇妙な色が宿った。まるで機械じかけの人形に電源が入ったかのように光が感情のない顔をこちらに向ける。
「光君…」
困惑する真津子を他所に光は無言で左手を掲げた。青い光がその掌に急速に集っていく。直後、真津子がいた場所に大きな穴があいた。間一髪、瞬間移動でその攻撃をかわした真津子に次の攻撃が降り注ぐ。
「どうした?反撃はなしか?このままでは、お前は本当に死ぬぞ」
何度目かの攻撃をかわした時、真司の面白がる声が聞こえた。余裕を持って光の攻撃をかわしているわけではない。満が死んでから、光は必死にその能力を高めようと訓練していたと聞いている。光の力は確実にあがっていて、このまま逃げているだけではいつかやられてしまうことは真津子にもわかっていた。得意のバリアも光の攻撃には通用しなかった。反撃したところで、今の光に通用するのかはわからない。だが反撃するなら早いうち、まだ自分に余力が残っている時でないと意味がない。けれど、真津子は反撃していいものかどうか迷っていた。真司はこれが光の影だと言っていた。それが本当なら、目の前にいる彼は光本人ではないのかもしれない。だが、影は光と表裏一体。影の部分を消すということは、その表にある光も一緒に消してしまうということではないのか。どんな形で生まれてきたにしろ、光は今や真津子たちの大切な仲間だ。ましてや敵に操られている仲間を攻撃することなんて真津子にできるはずもない。そう、あの時の満や光と同じように。例え自分の命を失っても、友を攻撃してはいけないのだ。
「ふっ。友の愛…か。笑わせてくれる。そんなくだらないものにこだわっているから満も光も敵の手に落ちたのだ」
「なっ!」
真司の言葉に真津子は心の中の怒りが爆発するのを感じた。
「怒ったか?悔しいか?ならばこのオレを倒すといい。オレを倒せば、光を呪縛から解いてやれるかもしれんぞ。母親を殺したお前になら、容易いことだろう?」
真司は真津子の怒りをさらに煽るようにそう言った。
「私は…私は…うわあああああ!!!!」
挑発に乗った真津子が周りに紫色の気が渦巻き始める。けれど、それが勢いを増す前に光の気が爆発した。爆風に灯台の壁がこなごなに吹き飛ばされる。もうもうと吹き上げられる砂煙に辺りは何も見えなくなった。