第三章:始動(3)
どこか懐かしいような、まるで真っ青な空の下に広がる草原のような、爽やかな匂いが突然周りに漂って、勇希はふと、目を開けた。隣の椅子に座っていた小太りの女性が、何やら甲高い声でけたたましくまくし立てている。その後ろでは若い女店員が、疲れたような笑みを浮かべながら適当に相槌を打っているのが鏡越しに見えた。
ヘアサロンは土曜日のためか午前中でも混雑していて、いつにも増して騒がしかったのだが、それでも、ついうとうとしてしまったのは前日に夜遅くまで残業していたせいだった。目が覚めてものの数秒もたたないうちに瞼がまた重くなってくる。
必死に睡魔と闘ってみるが、自分の髪に吹きかけられるドライヤーの風が心地よく、次第に意識が朦朧としてくる。完全に瞼を閉じかけた時、ふと、またさっきの匂いが鼻をついた。
なんだろう?この匂い。なんだか懐かしい…。ぽかぽかしたお日様の下みたいに安心できる…。
ぼんやりとそんなことを考えながら、うっすらと閉じかけた瞼を気だるそうにあける。目の前の大きな鏡の中をしばらく彷徨っていた瞳が、やがて一人の姿を捕えた。
紺碧の髪の青年。
「あれ?誰だっけ…」
しばらくその姿をぼんやり眺めていると、ほんの少しだけ、その横顔が見て取れた。その瞬間、藍色の優しげな瞳に今まで襲ってきていた睡魔が一気に吹き飛んだ。
「あれは!」
「あ、ちょっと!」
突然椅子から弾かれたように立ち上がると、そのまま入り口へと走っていく勇希に店員が驚いて声をあげる。だが今はそんなことに構っている暇はない。急いで店の外に飛び出して、さっきまでいた男の姿を探したが、もうどこにも見当たりはしなかった。
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「それって見間違いなんじゃないの?」
昨日まで試験で徹夜明けのつくもは無遠慮に大きなあくびをした。街でカミンにそっくりな人物を見かけた勇希は、あれからすぐ、大学の寮に住むつくもの部屋にやって来ると、いきなり早口で事の次第をつくもに話したのだった。
「そんな筈ないよ。あれは絶対カミンだよ。あの瞳、それにあの匂い…。絶対間違いない」
勇希は真剣に答える。
「う〜ん、そうは言ってもねえ…」
つくもはまた大きなあくびをする。今度は目のふちに涙が溢れた。
つくもが素直に勇希の言うことを信じられないのは当然のことだった。二年前、カミンは確かに、ダコスを連れ黄泉の国に旅立った。それは勇希も目の当たりにしている。仮にカミンがあの後、すぐに現世に生まれ変わっていたとして、今はまだ2歳足らずの子供のはずである。常識的に考えて、カミン本人が当時の姿のまま、今この世にいることはありえなかった。
「勇希、あんたの気持ちは分かるよ。けどね、そんなことはありえないんだ」
「わかってる。わかってる。だけど…」
つくもの言うことが正しいということは勇希にも分かっていた。自分でも見間違いか、他人の空似ではなかったかと、ここに来る前に何度も問い掛けていたのだから。それでも納得できない何かがあった。理屈ではない、何かが。
突然、勇希は急に何か悪寒のようなものと、なつかしい気を同時に感じた。びくっと体を震わせて思わずつくものほうを見ると、つくもも同じく真剣な顔で勇希を見つめている。
「今の、感じたか?」
最初に口を開いたのはつくもだった。緊張で、口調がクルツのものに戻っていた。一筋の汗が、つくもの頬から顎につたって流れ落ちる。勇希は無言で頷いた。
「何か、あったんだ…」
窓を開けて外を見ると、まだ高かったはずの陽はとうに沈んでいて、代わりに深い闇が世界を包んでいた。どこかで青白い光が瞬いたが、幾十もの高層ビルが邪魔をして、寮の窓からその光を見ることは叶わない。二人はこの時、運命の歯車が再び回り始めたことにまだ気付いていなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。次章から物語が少しずつ動き出していきますので、引き続きお楽しみいただければと思いますが、ここから五大戦士の名前がちらほら出てきますので次章の前に各故人と今回の登場人物についての簡単な紹介を次ページに載せておきます。