第十九章:嫉妬(4)
勇希が立っていた窓辺には大きな穴が開いていた。かろうじて残っている部分がシューという嫌な音と焼けるような匂いをさせて白い煙をあげている。敬介が咄嗟に勇希を突き飛ばさなければ、そして灑蔵が事前に結界を張っていなければ、今ごろみな完全にやられていただろう。
ぽっかりと開いた穴の向こうに結界を破ろうとする白い龍の姿が見えた。
結界に触れるたび、眩い電光が縦横無尽に走り、ばりばりという耳をつんざくような音が響き渡る。おそらく傷ついているのだろうに、白い龍は甲高い獣の声をあげながら、それでもなお執拗に結界を破ろうとその大きな口を開いた。
その口から吐き出された白い液が、今度はまだ溶けずに残っていた玄関を消滅させる。結界のお陰で簡単には勇希たちに手出しできないようだが、それでもこの結界を突破されるのは時間の問題だった。
「なんだ、こいつ…」
「これは、煙龍だにゃん。通常、術者によって使役される龍で、その実体は水蒸気…。」
レルムがポシェットをマインドスターと呼ばれる羽のついたワンドに変えながら説明する。隣でつくもも持ってきていた大剣を手に身構えた。
「水蒸気?それなら剣じゃ歯がたたないんじゃ…」
つくもの問いにレルムは神妙な顔でうなずいた。
「そういうことだにゃん。それに、あいつは通常の火ですら消せない厄介な魔物だにゃん」
「通常の火じゃ消せない…か。よっしゃ、俺に任せろ!」
敬介が親指の腹で得意気に鼻の頭をこすった。
「任せるって一体どうす・・・」
「パワーブラスト!!!」
つくもが尋ね終わる前に敬介の両掌から黄色い光がほとばしると、煙龍の前で大きな爆発がおこる。そのすさまじい威力につくもが驚いた表情で敬介の顔を覗き込んだ。
「あんた…なに、今の…」
「へっへ〜ん。すげーだろ。俺だってな〜んもせずにいたわけじゃないんだ…ぜ」
誇らしげに胸を逸らした敬介の側を煙龍の太い腕がかすった。
「へ?」
「うっわ!敬介のあんぽんたん!結界を中から壊してどーするにゃん!!」
何がおこったのか状況が把握できずに素っ頓狂な声を出す敬介にレルムが黄色い声をあげた。
「え?ええ?」
「この馬鹿モンが!ちったあ、考えて行動せんか!」
慌てる敬介を叱咤しながら灑蔵がさっと印を切る。狙いを定めた煙龍の長く鋭い爪がすんでのところで新しい結界に弾き飛ばされた。ついさっきまで得意気だった敬介は腰を抜かしてうずくまる。その隣でレルムが大げさなため息をついた。
「まったく…。それにしても、術者の姿が見えないにゃん。普通、煙龍は術者と共にあるものなのに…煙龍だけで行動させるなんて…」
「術者がなに?術者がいないとどうなるの?」
普段自分が最強だと豪語しているレルムからは考えられない弱気な口ぶりにつくもは不安を押さえきれずに詰め寄った。
「この手の魔物は使役した術者でないと、消せないのにゃ。もちろん、術者をかたづければ、龍も一緒に消えるのだけれど、龍だけ攻撃しても無意味なのにゃ」
「そんな…」
「この龍…。私、見たことがある」
レルムの説明につくもが唇を噛んだ時、今まで黙っていた勇希が突然そう言った。
「え?」
「見たことがあるの。以前、光君を探しに灯台へ行った時、私をさらっていったのが、これにそっくりなの」
「…てことは、術者は菖蒲だってことか」
「いや、おそらくこの煙龍の使い手は他におるんじゃろう」
堅い表情の勇希をじっと見つめていた灑蔵は静かな声でそう宣言した。
「他にいるって…どういうことだよ?」
「遠隔使役できるのは、そうとうの使い手のはずじゃ。一朝一夕で身につくものではないからな」
「それじゃ…」
さらに詳しく聞こうとした敬介を遮ったのは執拗に診療所を破壊しようとする煙龍の咆哮だった。その雄叫びとともに灑蔵が張ったばかりの結界が弱まってきているのが見える。
「いかん、このままでは突破されてしまうぞ。敬介、お前たちは避難するのじゃ」
「避難するって一体どうやって?」
「満の車が裏の車庫にあるにゃん。あれを使うにゃ」
「満の車?」
「そうにゃ。敬介、運転できるにゃ?」
「そりゃ免許は持ってっけどさ、鍵どこにあるかわかるのかよ?」
「う〜んと、たぶん満の部屋にゃ」
「よっしゃ!」
敬介は急いで満の部屋に駆け込むと、質素な部屋にただ一つ置かれている机の引出しを探り始める。たいして何も入っていない引出しに目当ての鍵は見つからなかった。
「おい、レルム!ここにはないぞ!」
「ええ!そんな…この間、車庫に行ったけど、車庫や車の中にも鍵はなかったし…部屋じゃなきゃ一体どこへ…」
考え込むレルムの背後で結界が大きな音を立てたかと思うと、みるみるうちにヒビが入り始めた。他のものも狭い家のあちこちを探し始めるが、それらしいものはどこにも見当たらない。
「くそっ!」
敬介が舌打ちした時、崩れた玄関の側で灑蔵が大きな声をあげた。
「敬介!見つけたぞ」
「ホントか、じいさん!…ああっ!!」
灑蔵の声に飛び出した敬介は目に飛び込んできた光景に叫び声をあげていた。
「敬介、どうし…きゃあああ!!!」
少し遅れて出てきた勇希たちも敬介の見たものと同じ光景を見て同様に黄色い悲鳴をあげる。呆然と立ち尽くす四人の前で灑蔵が口から大量の血を吐き出した。
「じいさん!!」
一瞬遅れて駆け寄ろうとする敬介に阻むもののなくなった煙龍のするどい爪が襲い掛かる。敬介の頬から真っ赤な血が滴り落ちた。
「構うな、敬介!早く皆を連れて逃げるのじゃ!」
灑蔵はそう叫ぶと手にした鍵を敬介に向かって投げつけた。胸のあたりにはぽっかりとあるはずのない穴が開いていて、肉の焼き焦げるような嫌な匂いが辺りにたちこめた。
「そんな、おじいちゃん!」
「師匠!今助けます!」
「この、馬鹿モンが!」
半狂乱になりながら煙龍にその武器を向けようとするつくもとレルムを灑蔵は驚くほどしっかりした声で叱咤した。その怒声に二人はびくっと肩を震わせる。
「お主たちには果たさねばならん使命があるはずじゃ。それをまっとうするのが主らの務め」
「し…しかし…」
「レルムよ、お主はなぜ今、この時代にやってきた?」
「そ…それは…」
「つくも、お前はどうじゃ?また後悔するつもりか?」
「…」
灑蔵の問いにレルムはぎゅっと唇を噛む。その横でつくもも同様に項垂れた。爪が肌に食い込むほど硬く握り締めた拳は細かく震え、指の隙間から赤い血が滴り落ちた。
「わしはお主たちを信じておる。お主たちは必ず自分の使命をまっとうする…必ず、この世界を救ってくれるとな」
ゆっくりと穏やかに説き伏せる灑蔵の顔はもはや死人のように土気色に変わっている。だが、その分厚い瞼の下に隠された小さな瞳だけは、松明の炎のように爛々と輝いていた。
一瞬の沈黙のあと、また大きな爆発音と共に結界の亀裂が大きくなり、ぱらぱらとちいさな欠片が皆の頭上に降ってきた。
「もう時間がない。敬介、早くしろ!」
「あ、ああ、わかった」
灑蔵の声にはっと我に返った敬介は、傍にいたレルムを担ぎ上げた。
「な、なにするにゃ!降ろせ、敬介!師匠を、師匠を助けなきゃ…」
「馬鹿野郎、てめえは師匠の犠牲を無駄にする気か!勇希、つくもを頼む!」
泣き叫ぶレルムを叱咤しながら敬介は背後で蒼い顔をしていた勇希に怒声を飛ばした。
「え、わ、わかった…」
まだ蒼い顔のまま、敬介の声に勇希もつくもの手をひいて奥の台所へと走り出す。抵抗するつくもの足を勇希はありえないほどの力で引き剥がした。掌に感じるつくもの手は恐ろしく冷たくなっている。
「わしの孫たちを…やらせはせんぞ!!」
背後に灑蔵のしわがれた声とそれに答える恐ろしい咆哮を聞きながら、台所の勝手口を飛び出し、裏の車庫の車に乗り込む。震える手でエンジンをかけると敬介は思いっきりアクセルを踏んだ。その直後、わずかに残っていた診療所の残骸は灑蔵の身体と一緒に跡形もなく吹き飛んだ―。