第十九章:嫉妬(3)
暗い室内で汗をかいたワイングラスが淡い光を放っている。血のように赤い液体が、真津子の紫の瞳を狂気の色に染めていた。傍らに置かれたシルバーの入れ物もグラスと同じようにその表面に冷たい汗を流している。ワインボトルの周りで溶けはじめた氷がカランと冷たい音をたて、真津子はふっと思い出したように辺りを見回した。
外から差し込む蒼い月の光が見慣れたはずの社長室にいつもと違った顔を作り出している。ふっと肩から力を抜くと、グラスに注がれた赤い液体を一気に喉の奥へと流し込んだ。熱い刺激が喉を通リ抜け、ずっと深いところへ落ちていく。空っぽの胃袋に走った痛いような衝撃に、真津子は思わず眉をしかめた。
真津子の目の前には一振りの短刀が怪しい光に包まれ横たわっていた。そのよく磨きこまれた刃先にグラスの奥で揺れる赤ワインが反射している様は、まるで血に飢えているようにも見える。柄の部分に掘り込まれた文字にあてもなく彷徨っていた真津子の瞳が止まった。
蘇生禁厭呪。それは刃先をほんの少しかすめただけで相手を確実に葬り去ることができるという恐ろしい呪詛の文句である。光が満を救えなかったのはこの呪詛のためだった。
どうしてこんなものを、私は…。
深い自責の念が暗闇の中、真津子の深い紫色のオにくっきりと浮かび繧ェった。
満がこの短刀にその命を奪われるよりずっと以前から、真津子はこの短刀に見覚えがあった。
二年前―実際はもうすぐ三年になろうとしているが―、真津子の父が受けた短刀がまさしくこのオリハルコンだったのである。あの時、真津子は理由もなくこの短刀を持ち帰っていたことを誰も、一緒にいた満でさえも知らなかった。もちろんその時はこの短刀にそんな呪詛の文句が刻まれているとは思いもしなかったのだが。
もしかして自分はこの短刀に呪われているのだろうか。そんなことを考えながら真津子が二杯目のグラスを仰いだ時、机上の電話が甲高い音をたて、凍りついた静寂を遠慮なく引き裂いた。
こんな時間に会社の電話にかけてくるなんて一体何の用事だろう。慣れないアルコールで朦朧とした頭で考える。どうせただの間違いかイタズラに違いない。しばらくしたら鳴り止むだろうと無視を決めて三杯目のワインをグラスになみなみと注ぐと、今度はその味を舌に覚えこませるようにゆっくりと舐めてみた。かなり大振りのグラスが完全に空になっても、電話は鳴り止むことを知らなかった。二十を超えようとする頃までは数えていたが、その後いくつなったのか、あまりの長さに定かではない。真津子はアルコールに充血した目で面倒くさそうに机上の電話を睨む。
「いい加減、しつっこいわね」
誰かが出るまで鳴らしつづけるつもりだろうか。他人を相手にする気にはなれなかったが、このままだと静かに一人酔いつぶれることさえできはしない。鳴り止むことのない騒音に半ば腹を立てながら、乱暴に受話器を掴むと開口一番、見えない相手に怒鳴りたてた。
「一体こんな時間に何の用?」
こうすれば、驚いて切るだろうと思っていた相手は以外にも落ち着いた口調で応答した。
『真津子さん。僕です。光です』
「光…くん?」
光の穏やかな声に毒気を抜かれた真津子は頭に昇っていた血が急速に冷えていくのを感じていた。いつも思うのだが、光の声にはどこか人の心を癒してくれるような、そんな響きがある。一般的に言う、「育ちがいい」ということなのだろうか。けれど光の場合、実際誰かに育てられたというわけではないから、それとはちょっと違うような気がする。それを証拠にカミン自身、幼い頃に親をなくし一人で山道を彷徨っていたところをケラの父親が見つけ引き取られたと聞いている。
ケラの家は代々王帝付剣客として立派な家系であったのだが、実子のケラの性格を見て分る通り賑やかなことが好きな一族で、「癒し」とは程遠い家庭であったから、周囲の人間による影響ということは有り得ない。ならばやはり、カミンの人格からきているものなのだろうか。真津子は醒めきらない頭でぼんやりと考えていると、カミンの穏やかな性格に一番似ている満の声にも似たような作用があったことを思い出した。
けれど、二人の声が持つ印象は、その容姿のようにまるで対極的である。例えて言うなら、満のものは「諭す癒し」でカミンのものは「包み込む癒し」だ。そうして光のそれはカミンのものよりも遥かに強い。カミンはもともと治癒魔法の類は使えなかったし、クローンは通常、オリジナルの性格までは受け継がれないと言われているから、外部や遺伝子的なものの影響とは少し違うもののように思える。
『あの子は必ずこの世界の光になる。だから真津子…あの子を、助けてやって欲しいんだ』
光り輝く扉の向こうで、そう呟いた眞の言葉が蘇る。満が命を落とした時、光が自分から回復魔法を試みたように、もしかすると、光自身、癒しの力を持って生まれてきたのだろうか。そうして、それを眞は知っていたのだろう。だから今になって真津子に頼ることにしたのかもしれない。
『やっぱり、そこにいたんだね…ごめん、こんな時間に。でも、どうしても気になって…』
「あ…」
満の葬儀依頼、真津子は仲間の誰一人とも連絡をとっていなかった。皆が自分のことを気遣ってくれていることは十分承知していたが、どうしても皆の前に顔を出すことができなかったのだ。光のことやその命を狙うルシファーのこと、そしてリオンのことすらまだ何も解決がついていない状態で全てを放置してしまうことに罪悪感を覚えなかったわけではない。それに光のことは、死んだ眞にも頼まれている。だが、それでも現実に立ち向かう勇気が今の真津子には見つけられなかった。
『話があるんだ…。今から灯台まで来てくれないかな』
「今、話したい気分じゃないのよ。悪いけど…」
どうして放っておいてくれないのか、そんな我侭なことを思ってしまう真津子はまたあからさまに不機嫌な声になった。だが今日の光はやけにしつこい。さっさと自分を開放してくれと思いながら、黙って切るわけにもいかず、真津子は左手に受話器を持ち替える。空のグラスにワインを注ぐ右手が光が話したいという内容を聞いてはたと止まった。あんなに深かった酔いが氷水でも浴びたかのように一瞬にして覚めていく。真津子は短くわかった、とだけ答えると静かに受話器を戻した。しばらく眼を閉じると、大きな革張りの椅子に深く背をもたせかけていたが、やがて開いた一対の瞳には意志の光が宿っていた。受話器をとりあげて短縮ダイヤルのボタンを押す。深夜だというのに、電話の相手は二回目のベルがならないうちに応答した。
「夜分遅くすみませんが車を一台回していただけますか。…ええ、はい。それじゃ、5分後に下で。よろしくお願いいたします」
すっかり酔いの覚めた声で短く用件を伝えると、一番下の引出しからハンドバックを取り出した。そのまま出ようとする真津子の視界の端に、まだ妖しく光るオリハルコンの刃が見える。しばらくじっとその輝きを見下ろしていた真津子だったが、さっとハンドバックの奥にしのばせると、タクシーの待つ階下へと降りていった。