第十八章:悪夢(ナイトメア) (3)
「な、なんだぁ。へ、部屋の中に渦が…」
「何かはレルムにもわからないにゃ。何か妖魔の類であることは間違いないんだけれど」
“Odium … mortem…desiste…memoriam…malitiam dat…tibi…”
レルムが困ったように言うと、女は低いぞっとするような声で何か言葉を紡ぎだした。
「な、なんだ?」
「ラテン語…みたいだにゃん。とぎれとぎれでよくわからないけど…」
昔師匠に叩き込まれた知識を総動員して女の口走る言葉を脳内変換させていく。出来上がった言葉はカタコトではあるもののぞっとするような内容でレルムは全身から血の気が引いていくのを感じた。その顔を見た光もただならぬ雰囲気を感じて後ずさる。
“Venis mihi, filius meuum. Desiste spem tuum, et sampiternum aevum tibi dabo. Aut, odissei fatum et interitum accipe.”
女がまた何か口走る。今度ははっきりとした言葉としてレルムにも認識できた。
「!この人…」
「レルム、お前、こいつの言葉がわかるのか?」
はっと息を呑むレルムに光は女から一時も眼をそらさずそう聞いた。
「来たれ、我が元へ。希望を代償に永遠の命を授けよう。拒むなら己が運命を呪い、破滅を受け入れるがよい」
「なんだって?!」
レルムの訳に光の顔が青褪める。暗闇の中、女の二ツの瞳が真っ赤な血の色に輝いた。
“Vide… Imus interitum et chauum mundo aferre…”
「我を求めよ…世界に破滅を、混沌の闇を…」
「確かに、只者じゃないようだな…また僕を狙って出てきた新手の刺客ってわけか」
光の頬を冷たい汗がつたった。今までに光を襲った敵もそのほとんどが普通の人間ではない。ルシファーも、リオンも、そして行方不明の菖蒲でさえもなんらかの術を持っていた。けれどこんなにおぞましい負の気を漂わせたものに光は今まで出会ったことがない。どうやってこの場を切り抜ければいいのか。その気の強さにこれまで訓練してきた自分の術ぐらいでは歯がたたないということは一戦交える前から明白だった。それにここにはレルムもいる。いくら強いと本人が自負しようとも、レルムはまだ十にも満たない子供である。なんとか自分が囮になってレルムを逃がさなければ…そう考えていた矢先、レルムがふう、と大げさにため息をつくとキッと妖魔を睨みつけた。
「しょうがない、先手必勝だにゃ」
そう言うと、ワンドを手にレルムがさっと飛び出す。
「えっ、あっ、おい!」
あわてて止めようとする光を他所に、飛び出したレルムはさっと女の頭の高さまで跳躍すると、敵の頭上に手にしたワンドの狙いを定め、そのままぶんと勢いをつけて振り下ろした。
「いっ?!」
唖然とする光を尻目にレルムはすごい勢いで相手の頭を殴りまくっている。
「な、なんてことを…」
まさかそんなことで退治できるとは思ってもみなかったのだが、どうやらレルムの攻撃は本当に効いているようで殴られるたびに黒い渦がゆがんでいびつになっていく。それからどのくらいが経ったのか、女がとうとう酷い金切り声をあげたかと思うと、まだかすかに残っていた弱い渦と共にどこかへ消えてしまった。
「いっえ〜い。びくとり〜だにゃん♪」
敵が完全に消え去ったことを確認したレルムは、指でVサインを作るとぴょんぴょん飛び跳ねながら勝利を高らかに宣言する。うれしそうにはしゃぎまわるレルムを見て光はレルムが自分自身を『世界最強』と語っていたのを思い出した。
(確かに最強かも…ちょっと違う意味で、だけど…)
「ん?なんか言ったかにゃん?」
「なっ…何も。それよりあいつ、一体何者だったんだろうな」
心の中で言ったはずなのに、まるで聞こえているかのようなレルムの反応に光は慌てて首を振る。まさか真津子のように人の心が読めるのか?もしそうなら、うっかり考え事もできやしない。とにかく、追求されては叶わないので話題を変えることにした。
「さあ…。レルム、今までいろんな魔物を見てきたけれど、ああいうのは初め…あっ!」
「ん?どうした」
何か思い当たることがあったのか、レルムは小さな叫び声をあげるとそのまま何事かを考え込んでしまう。しばらくして、その様子を伺っていた光の視線に気がつくと、ただの勘違いだと言い残してそそくさと自分の寝室に戻ってしまった。
「勘違い…にしちゃ不自然だったが…。ま、いっか」
一人になると途端に外の雨音が聞こえてくる。光は靴を履くと引き戸を開けて外に出た。もう雷雲は通り過ぎたようで、後に残った冷たい雨だけが執拗にコンクリートの地面を濡らしている。こうやって雨に濡れていると、病院に運ばれた時のことを思い出しそうになる。初めは何一つ思い出せなかったのに、最近になって断片的な映像を時折見るようになった。クローンである光に過去という過去はそうないのだから、おそらく生をうけてから病院に運び込まれるまでの短期間に起こった出来事なのだろう。そんなことを今更思い出してどうするんだという気持ちと、そんなことでも自分が生きた証として覚えておきたいという気持ちが交差する。
「これから、どうしたらいい…?一体俺は、どうしたいんだ…?」
目を閉じてそう呟く光の体に冷たい冬の雨が降りかかる。真っ暗な夜の街に今にも消えそうな灯火が頼りなく揺れていることに、まだ誰も気付いてはいなかった。
Elisa Oliveiraさんにラテン語翻訳をお願いしました。ありがとうございました(^^)