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第十八章:悪夢(ナイトメア) (1)

菖蒲が真司に(けしか)けられて夜の街へ飛び出したのと同じ頃、()(むら)(わたる)は高層ビルが立上る街中の高級レストランで一人きりの遅い食事を終えたところだった。黒光りするリムジンの後部座席に乗り込むと、今しがた食べつくした大量の肉とワインでぱんぱんに膨れあがった腹を窮屈な服から開放する。滑らかな総革の背もたれに太った背中をだらしなく預けるとげっぷと共に酒臭い息を吐き出した。


金に困らない生活を始めて数年がたつ。ただの雇われ科学者だった自分が突然裕福になったのは、かつての上司である流眞が持ちかけた秘密の実験のお陰だった。流はカミンというかつて王族に仕えた一人の男が神の化身かもしれないと考えており、その男のクローンを誕生させる計画を立てていた。流の話ではおおっぴらには出さなくともそういった考えを持っている者はかなりの数になるらしく、ある秘密結社のようなものまで存在すると言う。流もその組織の一員で、研究の資金はそこから出るのだと言っていた。その研究は極秘に行う必要があったため、流にはたった一人しか助手を選ぶことを許されていなかった。そこで誰が一番その役に適任か、幾重もの思案を重ねた上に白羽の矢を立てたのが当時研究員の一人として流インターナショナルで働いていた火群だった。


流がこの話を持ちかけてきた時、既にクローン技術はかなりのスピードで進化していたのだが、人間を対象にしたもので成功した例はまだなく、科学者としては大いに興味のそそられる分野であった。一介の雇われ科学者であることに不満を持ち、常に出世への野心を内に滾らせていた火群にとってこれは願ってもない幸運だった。


ただ一つ不満なのは、例えこの研究で目覚しい成果を収めても、世間に自分の実力を知らしめられないことだった。それは以前から世界(W)医科学法(MSR)で人類のクローン研究が全面的に禁止されていたからだ。この国際法の権威は絶対で、ほんの少しその法に抵触するそぶりを見せただけでも重罪に問われることになっている。つまり、この法律のお陰でこの分野は半永久的に停滞したままであったのだ。そんな危険な研究に手を染めても、少なくとも表舞台での地位向上にはつながらない。だが、研究者としては機会を逃すのも惜しかった。流はそんな火群の心中を読んだかのように、この研究に助力してくれれば、火群を当時新設予定であった病院の院長におき、また法外な報酬を一生涯に渡って提供すると持ちかけた。


「君が世間に名を馳せたいと野心を募らせているのは知っている。その足がかりにこの条件は絶対に悪くないものだと思うが…?」


「確かに。でも、決してばれないという保証はあるのですか?もし我々がそんな研究をしているということが誰かにばれれば、医師免許剥奪どころか良くて一生刑務所に投獄、運が悪ければ即刻死刑ですよ?」


狭い額に脂汗を浮かべながらそう聞く火群に流は涼しい笑みを浮かべた。


「それは君さえ黙っていれば大丈夫だ。私が所属している組織でも、これは最重要機密事項。この計画は幹部にさえほとんど知らされてはいない。だから、君が心配するように情報が流出することはないというわけだ。君が第三者に自ら口を開かない限りはね」


流は一息おくと冷たい光をその瞳に宿し、火群の小さな濁った目をまるでその心にある意思を見抜こうとするかのようにじっと見つめると、凍て付くような冷ややかな声でこう続けた。


「君ならそんなバカなことはしないだろう?もちろん、もし君がそんなバカなことをしようものなら国際法が届く前に君の命はないだろうがね」と。


その瞳から火群は自分の目をそらすことが出来ず、ただがくがくとその短い首を振りつづけた。今考えると、どうしてあの時流があんなにも恐ろしく思えたのかわからない。長年流の下で働いていた者には流が虫一匹殺せないほど気持ちの優しい男だということは明白だったからだ。だが、あの日の流はまるで何かに取り憑かれでもしたかのように邪悪な瞳をしていたのだから仕方ない。


そうしてその日から数ヵ月後、火群は流の約束通り新しく作られた緊急病院の院長に就任した。築地病院は違憲に当る研究を世間から隠すために作られたいわば隠れ蓑であったのだ。長い研究と実験の結果、二人は一体だけ、ほぼ完璧に近いと思われる試験体の作成に成功した。


その成果物に流は「玖澄光」と言う名前を与えた。火群はただの実験の産物に与える名前にしては立派過ぎるのではないかと思ったが、流はまるでそれを自分の息子とでも思っているかのように大切に扱っていた。


そうしてしばらくたった後、流は火群にくれぐれも光のことを公言することのないよう釘を刺すと、光を連れてどこかへと姿を消した。行く先はおそらく、流が関わっているという秘密結社に違いなかった。一体その秘密結社は光をどのような目的に使うつもりなのか興味がそそられないわけではなかったが、これ以上深入りすると命の保証はないということはわかりきっていたから、火群はその記憶を心の奥底に封印するためにも、毎月きちんと口座に振り込まれ続ける金を使って名声と贅沢な生活を夢中で買い続けていた。


火群の病院に意識不明の青年が運びこまれてきたのはそれからしばらくして、忙しい毎日にあの実験のことも忘れ始めようとしていた頃のことだった。その青年があの実験体だと気付くのにそう時間はかからなかった。二度と思い出すことはないと思っていた実験体をまた目の当たりにした火群はなにかよからぬことが自分の身に押し寄せてきているのを感じていた。それは意識不明の青年を診断した医師達によるものだった。病院に運ばれてきた以上、この青年を診察しないわけにはいかない。けれども精密検査をすればするほど、その検査結果に何も知らされていない医師達の疑念と好奇心は広がっていくばかりである。一体流は自分にどうしろと言うのか。全く連絡がつかなくなってしまった流に憤りを感じていた火群の耳に流の()報が入ったのはそれから数日後のことだった。


火群を乗せたリムジンがすっかり暗くなった交差点でその動きを止めた。信号待ちだろうと思っていたのだが、車は待てど暮せどその場を動こうとしない。あまりにも長い停車時間にふと窓から外を見ると、暗闇に浮かんでいるはずの赤い信号の光がどこにも見当たらないことに気がついた。


「おい、早く出さないか、いったい何をしているんだ」


ぐずぐずしている運転手に文句を言おうと手近にあったインターフォンのボタンを押して呼びかけるが、運転手からはなんの反応も帰ってこない。運転手と後部座席を区切る目隠し窓の操作スイッチもただカチカチ言うだけで、全く機能しなかった。むっとした火群は肉のついた拳で乱暴に窓を叩いてみるが、それでも窓一枚隔てた向こう側からは何の反応も聞こえない。


益々腹を立てた火群は胸ポケットの携帯に手を伸ばそうとして車が小刻みに震えているのに気がついた。地震かと首をひねっていると、ぷあーんという間の抜けた音とともに突然眩い光が暗い車内に差し込んだ。反射的にそちらを振り向いた火群の顔が一瞬にして歪んだかと思うと、毛穴という毛穴から一斉に冷や汗が吹き出してくる。その直後、黒いリムジンは大きな爆発音と共に真っ赤な炎に包まれた。暗闇の中、煌々と燃え盛る赤い炎に人影が浮かび上がった。よく手入れされた口ひげの下で薄い唇が冷たい笑みを浮かべていると二度目の爆発音が冷たい夜の闇に轟いた。その音に満足気にうなずいた男の姿はまるで陽炎のように闇へと溶けていった。

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