第三章:始動(2)
「本当に一人で大丈夫なんだな?」
玄関を出ようとしていた光に背後から誰かが声をかけた。振り向くと、くたびれたシャツを着た巨漢の男が心配そうに自分を見下ろしている。
「大丈夫ですよ、子供じゃないんですから。それに加瀬さんだって仕事があるでしょう?」
光はにっこりと微笑んだ。
菖蒲の病院が暫くの寝床にと紹介してくれたのは、加瀬満という町医者が一人で経営する小さな診療所だった。以前は真津子の父親の下で働いていたらしいが、数年前のある事件をきっかけに退職、今は小さな物件を買って、この診療所を切り盛りしているそうだ。
初めて会って話をした時は、あまりの偶然にびっくりしたものだ。まさか自分がお世話になる人があの流眞の元部下で、しかもその娘の真津子と知り合いだとは思ってもみなかったからだ。このことは、世話をしてくれた菖蒲も知らなかったようで、光の話にとても驚いていた様子だった。
満は口数の多いほうではなかったが、記憶のない光に気を使ってか、いろいろと親切にしてくれた。流クリニックを辞めた理由は教えてくれなかったが、機会を見て、一度、真津子とも話をしてくれると言っていたから、おそらく仲違いしたわけではないのだろう。今の生活は、流のところで働いていた時に比べると随分と苦しいらしいが、元々困っている人のための医者になるつもりだった満は自分の選択を悔やんではいない、と話してくれた。
満の診療所は奥が自宅になっていた。そのうちの一部屋を借りるようになって、そろそろ一週間。いつまでもただでお世話になっているわけにもいかないので、職探しすることにしたのだった。
もちろん、満の診療所で事務などの雑用を手伝ってはいたのだが、たいして大きくない診療所でやることは限られていたし、それでは外の世界と接する機会がほとんどない。記憶を取り戻すには、いろんな人と接したほうがいいのではないか、というのが満の考えだった。
ただそうは言っても、記憶のない光が就職できる場所などそうそうあるはずもない。そこで満の知り合いが経営する喫茶店で働かせてもらえるよう話をつけてもらったのだ。今日はその一日目。飲食店なので、とりあえず散髪してから行こうと、満に前借した金を手に早めに診療所を出ようとしていた矢先、満が声をかけてきたのだった。
「そうか?でも始めは俺がついていったほうが…。迷ったりしてもいけないし」
まるで小さな子供に始めてのおつかいをさせる親のように、心配そうな顔を見せる満に光は肩をすくめた。
「ほんと、心配性だなあ。大丈夫。ちゃんと地図も持ったし、迷ったら誰かに聞けばいいだけだから」
「だが、昨日もよく眠れなかったようじゃないか?」
「え?」
「また、うなされていたようだったが…」
ここに来てから一週間、隣の部屋で眠る光が毎日のようにうなされているのに満は気付いていた。本人は夢の内容をよく覚えていないと言って誤魔化していたが、どうやら言いたくなくて嘘を言っているようなのは、その態度から明白だった。
「やはり一度、きちんと検査をしてもらったほうがいいんじゃないか?俺が診察してやってもいいんだが、以前の状態をよく知っている医者のほうがいいかもしれないし…」
満がまだ何か言いかけたちょうどその時、玄関脇にある電話がけたたましい音をたてた。
「もしもし」
満は電話に出ながら、手で光にそのまま待てという仕草をした。電話口からは少し興奮した様子の甲高い女の声が聞こえてくる。
「真津子、ちょっと待ってくれ。一体何を言っているのか…。頼むから、落ち着いて話してくれないか」
電話に向かって満は言う。
「そんな、まさか…」
悪い知らせだったのか、しばらく相手の話に冷静に耳を傾けていた満の顔に一筋の汗が流れた。まもなく電話を切ってからも満は呆然と受話器を見つめて何事か考えていたが、ふと気がついたようにあたりを見回す。だが、光の姿はもうどこにもなかった。




