第十六章:風の知将(8)
そう言う満に光は何か言いかけて、そして俯いた。別に満を信頼していないわけではない。ただ、力を失った今の満ではとうてい太刀打ちできるはずがないと思ったのだ。それなら、今ここで自分が犠牲になればいい。造り物の自分よりも満の命のほうが重要なのだから。けれど、満はそんな光の思いを見透かしたかのように続けた。
「いいか、忘れるな。勇希だけじゃない、オレや真津子にとっても、お前は仲間なんだ」
満の灰色の瞳に困惑する光の顔が映っている。満の真剣な瞳がその気持ちに偽りがないことを語っている。その気持ちが光の心に痛かった。皆が自分のことを気にかけてくれていることは光にもわかっている。わかっているから尚のこと、自分のために皆を傷つけることだけは避けねばならないのだ。
「だけど…」
まだ反論しようとした光の肩にそっと満がその大きな掌を乗せる。
「それに、真津子の前でぐらい、オレにもかっこつけさせてくれ」
そういうと、懐から掌ほどの長さの棒を取り出した。ぱっと見、樫か何かだろうか、白木でできた小型の擂り粉木のようにも見える。満がそれをさっと振ったかと思うと、驚いたことにただの棒だと思っていたそれは突然、両手をいっぱいに開いたほどの長さにまで伸びていた。
「昔ちょっと杖術をかじっていたんだ」
光が驚いて目を丸くしていると、満はまるでいたずらを思いついた子供のように得意気な顔をして、両目をつぶってみせる。どうも本人はウインクのつもりのようだが、片目だけでなく両目をつぶってしまうところが満らしい。どうやらこの伸縮自在な杖を使ってこの場をなんとかしようと考えているらしかった。光には満が言う杖術というものが、実際どんなものなのか見当もつかない。おそらくはすごい武術に違いないのだろう。けれど、相手にするのはただの武道家というわけではない。はたしてそんなものでうまくいくのだろうか。そう考えていた時、ズボンのポケットからうっすらと青白い光が漏れていることに気が付いた。
何か入れていただろうかとポケットの中を探ってみると、小さな冷たい何かが指先に触れる。取り出してみると、それは岬に渡されたあのピアスで、それがひとりでにぴかぴかとまるでクリスマスライトのように青白い光を点滅させているのだった。
(一つだけ、方法がある)
その時光の脳裏にどこかで聞き覚えのある声が閃いた。どうやらその声は光に直接語りかけているようで、急に黙りこくった光を満が怪訝そうに伺っている。その視線に気が付いた光は持っていたピアスを左の耳につけると、「俺が援護する」と短く答えた。その瞳には、溢れんばかりの自信が漲っていて、それは遠い昔、満がカミンの瞳に見たものと同じものだった。
「へえ、まだ歯向かう気力が残っているとはね。なら、そろそろ終わりにしてあげないとな」
悠然と立ち上がった光と長杖を手にした満を見たリオンがそう言った。薄暗い洞窟の中で光の藍色の瞳がその濃さを増したことを知る者はいない。口ではそろそろ終わらせる、と宣言したにもかかわらず、リオンは未だ何もせず、傍らにまだ人形のように立つ真津子の美しい黒髪を撫でながら、余裕の表情で二人を見つめている。おそらく、哀れで無力な二人のあがきを楽しむつもりなのに違いなかった。
「チャンスは一度だけ。俺が援護できるほんの少しの間だけだ。その間に真津子を助けろ、いいな?」
光が満の持つ杖に触れると、白木の杖が淡い光を放ち始めた。その光は満の手を通して体中を包みこんでいく。
「これで、あいつの攻撃がお前の身体に触れることはないはずだ」
満の身体が完全に光に包まれたのを確認すると、光は淡々とした声でそう言った。左耳に垂れ下がった青い石が淡く青白い光を放っている。満は光が突然「俺」と言う一人称を使っていること、そしてその口調が突然堂々としていることに気がついたが、今はそんなことを気にしている場合ではないと自分に言い聞かせ、ただ黙って頷くと、杖を手にリオンを睨みつけた。
「そんなもので、ボクを倒せると思っているのかい?」
「その通りだ。真津子は返してもらうぞ」
せせら笑うリオンにそう言うと、満は一気に駆け出した。リオンの手から風刀が繰り出されるのを巧みに避けて間合いを詰める。真津子が同時に炎をしかけるが、光の言葉通り、その攻撃が満の身体に届くことはなかった。
「リオン!!」
満が気合と共にリオンの細い体へと杖を振り下ろす。リオンはそれを新たに具現化させた風刀で受け止めた。満は杖を回転させて今度はリオンのわき腹を狙うが、それもリオンは軽く交わしてしまう。辺りにはしばらく武器のぶつかる堅い音が響いていた。
「くそっ!」
リオンの風刀が満の頬を掠める。満は舌を鳴らして後ろへと飛びのいた。一筋の鮮血が満の陽に焼けた頬を流れていく。本来の力を奪われているせいもあって、満の動きはいつもより鈍かった。このままだと、時間がたつにつれ、形勢が不利になることは目に見えている。
(どうすれば、こいつを倒すことができるんだ?)
そう満が歯噛みした時、光の周りに青い気が立ち昇り始めた。ゆっくりとその気は輝度を増していったかと思うと、光球になったそれが突然リオンの目前へと迫る。それまで面白そうに唇の端を歪めて満の相手をしていたリオンが始めて緊張の色をその顔に浮かべたのもつかの間、光球はリオンの鼻先で霧のように拡散した。
てっきり何かの衝撃が来るものと防御体制を取っていたリオンはしばし呆気にとられたように目を瞬かせる。が、図らずも失敗した敵の攻撃に気が付くと、突然弾かれたように笑い出した。
「なんだい、それ?ボクに届かないんじゃ、話にならないじゃないか」
そう言って笑うリオンに光は冷ややかな哀れみの眼差しを向ける。リオンの周りに青白い光の粒が再び集束し始めたのは、ほどなくして、光がまったく動揺していないことにリオンが疑問を感じ始めた時だった。
「なんだ、これは?」
異常を感じてその場から逃れようとするも、もう遅い。幾千幾万もの光の粒子はリオンの体にとりつくと、取り付かれたものの動きを封じ込めてしまった。リオンの体がまるで光の彫刻のように松明の紅い炎の影を受けて静かに煌いている。その姿にしばらく我を忘れて魅入っていた満だったが、ふと為すべきことを思い出し、助け出さねばならないその者の元へと急ぎ駆け寄った。
「真津子!」
満が名を呼ぶが、真津子は何の反応も示さない。一対の紫の瞳はまるで硝子ででもできているかのように冷たい光を湛えたままだった。満がその肩に触れようとしたその時、真津子の肩がびくんと震えたかと思うと、今まで明後日のほうを見ていた瞳が満のほうを見上げる。反応に喜んだのも束の間、人形のような瞳の中に真津子の意識はなかった。
「真津子!正気に戻るんだ!俺たちの元に返って来い!」
満は真津子の肩を強く握ると激しく揺さぶってみるが、真津子が正気を取り戻す気配は一向にない。リオンの動きが封じ込められたと同時に真津子も全く動かなくなってしまったのだ。やはりリオンを完全に倒さないと真津子の呪縛は溶けないのか?しかし、どうやって?何一つ良案は思いつかない。そうしている間にも、リオンの動きを封じていた光の粒子が少しずつ解け始めているのが見えた。
一か八かリオンを叩いてみるしかない、そう思ってリオンのほうへ足を向けた時、真津子の白い顔にぞっとするほど残酷な笑みが浮かんだ。
「満さん!危ない!!」
真津子の変化に気がついた光が大声をあげた。はっとして振り向いた満の懐に、今までただ棒切れのように突っ立っていた真津子が飛び込んでくる。
「満!!」
暗い洞窟に光の悲鳴が甲高く響き渡った。