第三章:始動(1)
暗く深い闇がどこまでも続いている。一対の藍色の瞳が微かな光を求めて闇の中を彷徨う。湿り気を帯びた、見渡す限りの闇が体中にまとわりついて離れない。
自分が今どこにいるのか、どこから来て、どこへ行くのか。
あらゆる疑問が浮かんでは消えていった。
何も解らない不安に麻痺したように、頭の中に濃い霧が立ち込めていく。そうしていると自分の魂までこの深い闇に溶け込んで消えていってしまいそうな、そんな奇妙な感覚にとらわれた。
このまま俺は死ぬんだろうか?
ぼんやりと他人事のように思う。
このまま、何もわからないまま、何も達成しないまま、誰もその存在すら知らない闇の中で、俺は朽ち果てていくんだろうか?
それもいいではないか。
どこからか、自分とは別の、もう一人の自分の声がした。
何も知らないほうが、何もしないほうが誰も傷つけず、誰からも傷つけられることはない。
そう、その声は続けた。
ああ、確かにお前の言うとおりかもしれない。そう思うと、漆黒の闇の世界もそう居心地が悪いものではないように思えてきた。ここにいれば、不安や恐れ、心配など、煩わしいものから永遠に逃れていられるのだ。
「このまま、ここにいるのも悪くないのかもしれない。全てを忘れてしまえば、楽になれるのだろうか」
誰に言うでもなく、そっと声に出して呟いたその時、一瞬何かが目の前をよぎったような気がした。光ははっとして目をしばたかせる。息を殺し、しばらく闇をじっと睨んでみたが、目に飛び込んでくるものは相変わらず一点の陰りも見えない暗黒の世界だけだった。
気のせいか。この後に及んで一体俺は何を期待している?
自嘲的な笑みを浮かべたその時、一筋の光さえ存在しない闇の中、何かが確かに閃いた。それはまるで暗い海の底から浮かび上がってくるかのように、除々にその姿を現すと、今度は掻き消えることなく、そこに佇んでじっとこちらを伺っている。
それは、昼間、流インターナショナルのビルで見かけた、あの少女だった。栗色の髪が混沌とした闇のなか、まるで燃えさかる炎のような淡い光を放ち、ゆっくりと揺れている。泣いていたのだろうか、光を見つめるセピア色の瞳は涙で濡れているように見えた。
「約束、したのに…」
少女の突然の登場に驚いて声も出ない光に対し、少女は今にも消え入りそうな声でそう訴えた。
「え?」
一体何を言われたのかわからずに、唇の間から間の抜けた声が漏れた。
「必ず探しに来ると、そう約束したのに、こんなところに留まろうなんて。全てを忘れようなんて…」
少女の言葉に何か思い当たるふしがあったのか、光の胸が急速に高鳴っていく。
彼女は一体誰なのか、そして彼女が言う約束とは何なのか。
一切の記憶を失っている自分には知りようもなかった。ただ、自分は彼女をどこかで知っているということ、決して忘れてはならないはずの大切な何かを思い出せないでいる、ということだけは理解できた。そして、自分の記憶がないために、この少女が苦しんでいるということも。
思い出さなきゃいけない、忘れてしまってはいけない大切な何かを−。
焦る気持ちと比例するかのように、心臓が血を脳へとどんどん送りこんでいく。こめかみのあたりの血管が今にもちぎれてしまいそうなほど強く脈打って、胸が心臓の早鐘に張り裂けそうになるのを感じた。除々に頭痛が酷くなっていく。
やめろ、このままだと壊れてしまう!
もう一人の自分が叫んでいるのが聞こえた。
わかっている、だけど、思い出さなくては…。大切な何かを…思い出さなくてはいけないんだ!!
とうとう酷い頭痛に耐え切れなくなって叫びそうになった時、突然、全てが静寂に包まれた。今にも光を壊してしまいそうだった頭痛は嘘のように消え、体の外に飛び出しそうな勢いで脈打っていた心臓の鼓動も、突然嘘のように静かになる。
「?!」
不思議に思いながらも息をつく。一体なにがどうしたというのだ?わけがわからないままさっきの少女に視線を戻し、光はまた息をのんだ。
深く暗い闇の中、もともと色白の少女の顔が更に生気を失い青ざめているのが見える。彼女の胸あたりが真っ赤な何かに染まっている。それが彼女の血とわかるまで、そう長くはかからなかった。
「ナユル!!」
突然、光は知るはずもない少女の名前を叫んでいた。悪寒が稲妻のように体中を駆け抜ける。慌てて少女のほうへ駆け寄ろうとするが、まるで目に見えない闇の手がからまり合っているかのように自分の体を上手く動かすことができない。全身にまとわりつく闇を、半ば振り切るようにして駆け出そうとしたその時、少女の背後に突如何かが現れた。
それは白衣を着た女だった。その手には血塗られた手術用ナイフが握られ、妖しい光を放っている。見覚えのある顔に、光の足は立ちすくんで、また動けなくなっていた。
「邪魔なんかさせないわ」
菖蒲は冷ややかな瞳で少女を見つめている。
「私たちの邪魔をするものは、彼の記憶を呼び覚ますものは、みんな生かしてはおけない」
そう言うと、菖蒲はナイフを振り下ろした。
「やめろ―!!」
そう叫ぼうとしたが、声が出ない。ふと気が付くと自分自信の背中が目に入った。自分だったはずの体がゆっくりとこちらを振り向く。その顔は光自身だった。自分と瓜二つの顔が唇の片端をつりあげて、奇妙な、背筋が凍りつくような冷たい笑みを浮かべている。
その背後に少女の姿はもうなかった。ただ菖蒲が血で真っ赤に染まったナイフを愛しそうにうつろな瞳で見つめている。
「彼女を、殺したのか?」
やっとのことで声を絞り出したが、その声はかすれ、なさけなくも震えていた。
「これで、邪魔者はいなくなった。これで、私たちは幸せになれる…」
まるで催眠術にでもかかったかのようにうつろな瞳のまま、菖蒲は夢でも見ているような残酷な笑みを浮かべた。
「なんて、ひどいことを…!」
「ひどい?なにを言っているんだい?自分がやったことじゃないか」
光の非難する言葉をさえぎって、もう一人の自分がいたずらっぽく答える。
「な…んだと?」
光にはもう一人の自分が言わんとしていることがわからない。そんな光を、もう一人の自分は面白そうに眺めている。
「なんだ、わからないのか?自分の手をよおく、見てみろよ」
言われたとおりに何も見えるはずのない暗闇の中、自分の手とおぼしきものを目の前に掲げてみる。そこには菖蒲が持っていたナイフのようにねっとりとした血で覆われた自分の両手があった。
「!!」
驚きで言葉も出ない光の中に低い自分そっくりの声が響き渡る。
「そうだ、カミン。お前が、殺ったんだ。全てはお前が壊したんだよ」
「違う、僕は…俺は、うっ…うわああああああ――――」
光の叫びが混沌とした闇に響き渡っていった。