第十四章:妖精の唄(2)
「勇希!無事だったのか?」
敬介が点検するように勇希の体を見た。
「あ、うん。平気。それより、光くんが…」
「彼なら大丈夫。怪我をしていたけれど、満の処置が早かったから、大事には至らなかったわ」
という真津子の言葉に勇希はほっと胸を撫で下ろす。
「それにしても、なんでこんなところにいるんだ?今までどこに行っていた?菖蒲は?光があいつも一緒だとか言っていたが…」
矢継ぎ早に質問する敬介を遮ったのはリオンだった。
「マホーニー!」
リオンは突然、そう叫ぶと、真津子に抱きついたのだ。
「な?!」
その態度に敬介は初めて幼い子供の存在に気がついたようで目を白黒させている。突然抱きつかれた真津子も同様で目を丸くして困っていた。
「な、なんだ、こいつ…」
驚く敬介に勇希はリオンが不思議な力で自分を助けてここまで連れてきてくれたことを説明した。
「リオン…ですって?」
まだ少年に抱きつかれたままの真津子が強張った声で聞き返した。その声に何か感じたのか、少年がふと真津子の顔を見上げる。澄んだ水色の瞳が真津子の紫色のそれを捕らえた。
「そうか、この姿じゃわからない、よね」
そう言ったが早いか、リオンの小さな体が急成長し始める。驚いて声も出ない勇希たちの目の前に長身の青年が現れた。
「どう?これでボクのこと、思い出してくれた?」
さっきとはうってかわった大人っぽい口調で真津子に問いかける。
「リオン…あなた、リオンなの?」
真津子ははっと目を見開くと半信半疑で呟いた。
「そうだよ。ボクのマホーニー」
リオンはにっこりと笑いかけた。
***
「てや〜っ!」
凛とした空気に気合の入った声がこだまして、ぶんと空気を切り裂く鋭い音が続いた。広い道場にただ一人で木刀を振るっている者がいた。まるで、そこには目に見えない敵が本当にいるかのように、中空のあちこちを斬り付けていく。
イメージトレーニングは、つくものいつもの日課だった。普段の練習の後、数時間一人で誰もいない道場に籠もって基本を繰り返すのだ。
その姿を影からそっと見つめる二つの目があった。つくもの祖父でこの道場の師範である安東灑蔵である。
今年の冬で九十になる。小柄な身体に乗った柔和な顔は皺くちゃで皮膚がひどく垂れ下がっている。どこから見ても虫も殺さないような温和な風体の老人だが、剣の腕はまだまだ現役で、彼の右に出るものはただ一人を除いていないとまで言われていた。そう、たった一人を除いては―。
それまで穏やかに若者の一人稽古を見ていた灑蔵の目に、突然はっきりとした危機感が表れた。その姿からは想像できないほどの素早さで、今いた場所から後ろへ飛退く。直後、灑蔵が身を隠していた大きな柱に鋭く光る三本の針が突き刺さっていた。
「まったく…。肉親にも手加減なしか」
灑蔵は口に出た文句とは裏腹にうれしそうな表情で柱の影から若者のほうに進み出た。
「あれ、おじいちゃんだったの?」
その姿を見たつくもは驚いたような声をあげた。
「相手も知らんとお前は針を投げつけるのか」
そう言って灑蔵はさもおかしそうに笑った。つくもの実力なら、自分を射抜くことなど造作もないことだ。いかに灑蔵がその場から飛び退いたとしても、一本ぐらいはかすっていてもおかしくない。だが、針は三本とも、柱の中心につき刺さっていた。
「ごめんね、おじいちゃん。当らないように投げたんだけど…」
つくもは慌てて走ってくると灑蔵の顔をすまなそうに覗き込んだ。やはり、つくもは見えない相手を威嚇するために少し照準をずらして針を放ったのだ。自分の実孫であり一番の愛弟子の上達に、灑蔵の頬も自然と緩くなる。
「いいや。まだ、あんな攻撃を受けるほど老いぼれてはおらぬわ」
灑蔵は自分よりも背の高い孫娘を見上げると、勝ち誇ったようににやりと笑った。
「いつもの一人稽古か?」
「うん、まあ、ね」
「それにしてはいつもと違うようだったが…。何かあるのか?」
灑蔵は相変わらず穏やかな、だが隠しても全て見透かしていると言わんばかりの凛とした声で訊いた。こころなしか、普段は垂れた上瞼でよく見えない小さな瞳にも鋭い光がやどっているような気がする。つくもは大げさにため息をつくと、静かにうなずいた。