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第二章:鳳凰と獅子

「これで、いいんですか?」


記憶喪失の青年が立ち去った後、誰もいないはずの空間に真津子は問い掛けた。


「ああ。そのはずだ」


部屋の奥にある戸棚がすっと音もなく横にスライドしたかと思うと、その奥からがっしりとした中年の男が現れた。


「コーヒーでも?」


真津子は男に一瞥だけくれると事務机に歩みよりながら面倒そうに尋ねる。


「いや、いい。すぐに戻らなければならないからね」


「そう、ですか」


机の前にある大きな革張りの椅子に腰掛けると、大きく溜息をつく。男のほうも側の客人用椅子を引き寄せると、どっかと座り込んだ。

歳は四十を少し越えたぐらいだろうか、浅黒い肌の精悍な顔をした男の瞳は鋭い光を放っていたが、その目の下には濃い疲労を表す隈ができている。


「それで、一体どういうことなんですの?突然電話を下さったと思ったら予約もない人と面会してくれだなんて」


真津子はその紫色の瞳に不快な色を露にして言った。


「どうやらご機嫌斜めのようだな。それはいきなり俺が現れたからなのか?それとも妙な記憶喪失者との面会のことか」


穏やかにそう言うと胸ポケットから葉巻を一本取り出して火を点ける。真津子が避難するような冷ややかな視線を向けたが、さして気に止めていない様子で一服すると、念入りに手入れされた口ひげの下から白い煙をゆっくりと吐き出した。


「叔父さまのことです。父のお葬式以来長い間連絡もしないでおいて、みんなどんなに心配していたか。人の面会を隠れてお聞きになっていらしたのも失礼でしょう?それに…」


真津子は目を細める。


「社内は全館禁煙ですわよ」


ぴしゃりと言った真津子に男はまるで喫煙が見つかって補導された少年のようにその広い肩をすくめて苦笑してみせた。

男の名前は流真司(ながれ・しんじ)。亡き流眞(まこと)の弟であり、かつて流インターナショナルの傘下にある娯楽部門を一切に任されていた男である。


その性格、風貌とも兄の眞とは正反対で、どちらかというと繊細で真面目一本やりな眞に対し、冒険家で何事も楽しまないと意味がないと思っているような人間だ。それ故に、娯楽に関しての知見はすばらしく、兄の眞が急死した時も彼が指揮する部門の成績はうなぎ登りに好調だったため、世間では弟の真司が社長の座に就くと思われていた。そんな矢先、突然のトップの失踪が会社側に大きな不安と混乱を招いたのは言うまでもない。


もちろん、それまでの真司の勝手気ままな性格を知っている人間にとっては、彼の失踪など初めてのことではなく、真津子が言うほど心配していた親族はいなかった。かえって、邪魔者がいなくなってほっとした者もいただろう。だが、父亡きあと孤立した立場にあった真津子にとって叔父の存在は大きく、それゆえに勝手にいなくなってしまった叔父が許せなくなっていた。


「やれやれ。こりゃ、早いとこ用事を済ませて退散したほうがよさそうだな」


真司はそう言って大げさにため息をつくと、真津子の目の前に茶色い業務用の封筒を差し出した。表には黒のマジックで「流真司様―重要書類在中」と書かれており、左端には病院の名前や住所、電話番号などがプリントされている。端のほうに小さな黄色いポストイットノートが貼られており、『受付の方へ:流様と至急ご連絡願います』とあった。


「これは?」


「さっきここに来た記憶喪失の男、玖澄光(くずみ・ひかる)だったか…が持っていたものだ。どうやらそれを受付で渡すように言われていたらしい」


真津子が封筒の中身を取り出すと、なにやら見覚えのある紙が出てきた。白い、一見するとなんの変哲もない紙に見えたが、光の加減で左下のほうにうっすらと金色の刻印が見える。紙の角度を調整すると見えるタイプの印刷らしい。暫くすると、丸いふちの中に背に鳥のような翼を生やしたライオンの姿が浮かびあがった。


「これは…」


真津子はすばやく文面に目を通す。角張った、特徴のある手書きの文字が並んでいる。


『真司、彼が私がお前に話していた「希望」となる者だ。いつかお前に頼んでいたものを真津子に渡してくれ。――眞』


「金の刻印にこの文字―。これは兄貴が書いたものに間違いないと俺は思っている」


手紙を見つめたままじっと動かない真津子に男はさらりと言った。


確かに、金の刻印が入った用紙は真津子の父が特別注文して使っていたものに違いなかった。妙に角張った文字も確かに見覚えがある。だが、その内容は妙としか言いようのないものだった。


「二年前、あれは兄貴が死ぬ一ヶ月ほど前だったか、兄貴がいきなり俺のところを訪ねてきたんだ。いきなり夜中にたたき起こされたかと思ったら、一生の頼みがあるとか言ってきてね。なんだか実験がうまくいったとかいかないとか、俺にはさっぱりわからないことを自分勝手にまくし立てていたんだが、その時に、この手紙にある『希望の光』がどうとか言ってたんだ。そして、いつか記憶喪失の人間が自分を訪ねてくるかもしれないとね」


「なんですって?」


真津子は目を見張った。父の眞が死ぬ一ヶ月前と言えば、ちょうど勇希たちを人里離れた診療所にかくまっていた頃のことである。やはりあの時、父の身になにかが起こっていたのだ。そして、その後なにかとんでもないことが起こると予期していたに違いない。


「それでだ、その時が来たらこれをお前に渡してほしいって頼まれていたんだ」


そう言って真司は紫色の風呂敷に包まれたものを差し出した。


「どうやら受付の人間にも前もって指示がいっていたらしくてね。万が一、社長不在のときに誰かが俺あての重要文書を持って訪ねてきたらすぐ俺に連絡を取って指示を仰げって言われていたらしい。二年以上も前の命令だというのに、ちゃんと護られたってのは、正直、驚いたよ」


真司の話を聞きながら、風呂敷を開くと中のトレーに真中が少し膨らんだ白い封筒が置かれていた。封を開けると中から古い鍵が滑り落ちた。その鍵を手にして真津子は思わず息を呑む。


その鍵に真津子は見覚えがあった。それは以前、勇希が灯台の地下にあったあの書庫を封印するのに使った鍵と瓜二つだったのだ。


「一体、どういうことなんです?どうして父がこの鍵を?」


「それがなんの鍵なのか、真津子、お前にはわかるんだな?」


身を乗り出して聞き返す真司の言葉に真津子は言葉が出なかった。確かに勇希が使ったあの時の鍵に似ていた。だが、あの鍵は、書庫を封印した時に扉と共に消滅した。それに、叔父の話によれば、この鍵は真津子たちがあの場所を封印した以前に父の手によって叔父に託されたことになる。だとすれば、形がよく似ているというだけで、同じ鍵とは限らない。いや、同じものであるはずがなかった。


「なんだ、お前にもわからないのか」


曇った真津子の顔を見て、真司はがっかりしたようにつぶやくと、その背をどさりと椅子の背に埋めた。


「叔父さまは、なにかご存知なんですか?」


真津子の紫色の瞳に見つめられて、真司は決まり悪そうに頭をがしがしと掻いた。


「さあて、詳しいことは俺にもよくわからない。あの小僧、玖澄くんだったか…。彼の入院費を払っていたなんて俺も聞いてないしな。だが、兄貴が何か大切なことをお前に伝えようとしている。そして、その何かがさっきの小僧となんらかの関係があることは間違いないだろう」


そう言うと、真司は懐から古びた真鍮製の懐中時計を取り出した。上蓋に一羽の鳳凰が掘り込まれたやつだ。真津子がまだ小さい頃、真司が大切な人からもらったものだと言っていつも破れかけたズボンのポケットから大切そうに取り出してはその彫刻を眺めていたのを思い出す。その表面は時とともに酸化して変色してはいるものの、中の機械は少しも狂うことなく今も刻一刻と時を刻んでいた。


「もうこんな時間か。真津子、悪いが俺はそろそろ失礼するよ」


昔の思い出に思いを馳せていると、真司はやおらそう言って立ち上がった。真津子も反射的に立ち上がる。


「何かわかったら知らせるから」


叔父の言葉に真津子は無言でうなずいた。一人残されたオフィスに大きな窓から真赤な夕日が差し込んで、辺りの物全てをセピア色に変えていく。真津子はとたんにこの世界でたった一人きりになってしまったような寂しさが押し寄せてくるのを感じた。一瞬頭の中に、人影がよぎってはっとする。腰まである、三つ編みに編んだ長い銀髪が眩しい長身の男の姿が、真津子の脳裏に浮かんで消えていった。


「なんで、思い出しちゃうかな」


一筋の涙が紫の瞳から流れ落ち、真っ赤な夕陽に染まっていった。

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