第十三章:涙石(3)
当時、普通のOLだった岬は小さな古い安アパートの1階に住んでいた。その日は夕方から降り始めたひどい雨のせいで街の交通機関が一時的にストップ。やっと帰路につけたのはもう夜もだいぶ更けた11時頃のことだった。
先ほどよりは大分ましになったものの、雨はなおも降り続け、傘をさしていたにもかかわらず、駅からアパートまでの十分足らずの間に全身ずぶ濡れになったのを覚えている。
「早く帰ってシャワーでも浴びないと、これじゃ風邪ひいちゃうわよ」
ぶつぶつ独り言を言いながら、なんとか自分の部屋の前までたどりついた時、ドアの前に小さな影があるのに気が付いた。切れかけた街灯から差し込む弱弱しい光の下ではその姿をよく見ることはできないが、鉄製の玄関の前でうずくまっているのはまだ子供のようだった。眠っているのか、その肩が規則的に上下しているのがわかった。
「あ、あの、君?」
恐る恐る声を掛けてみるも反応がない。その肩にそっと触れると少年はびくんと大きく身震いをした。
「ごめん、驚かせるつもりじゃなかったの」
岬ははっと身構えた子供に優しく声をかける。見上げたその顔は薄暗がりでもはっきりとわかるほどのりりしい顔をした、しかしまだどこかあどけなさの残る少年だった。大きな二つの藍色の瞳がじっと自分の顔をうかがっている。怯えているのかとも思ったが、自分が信用に足る人間かを見極めようとしている、そんな気がしてならなかった。
「どうしたの?こんなところで?」
怯えさせないように優しい声で問いかけてみたが、少年はただじっと自分の顔を凝視しているだけで何も答えない。どうしようかと困っていると突然雷鳴が轟き、暗い空に眩いばかりの稲妻が走った。
すると突然、どこからか赤ん坊の泣き声が響き渡る。誰か通りかかったのかと後ろを振り向いた時、岬の背後で少年が慌てた声であやす声が聞こえた。
「ほら、怖くない、怖くないよ。俺がここにいるだろう?」
振り返ると、少年の腕にはいつからいたのか小さな、色の白い女の赤ん坊が抱かれていた。少年の声は、声変わり前の澄んだ明らかにあどけない子供の声なのに、その奥には、どこか全ての不安を包み込んでしまうような、大人びた響きがあった。
そのせいか、あれだけ火がついたように泣き叫んでいた赤ん坊が、一瞬のうちにぴたりと泣きやんでいる。大きなセピア色の瞳に涙を溜めたまま、しばらく少年を不思議そうに見つめていたが、やがて、安心しきったようにまたすやすやと眠ってしまった。
不思議な子−。
そうするうちに、また雨がひどくなって、風も出てきたようで、岬は寒さに濡れた身体をぶるっと震わせた。
「とにかく、中に入って。こんなところにいつまでもいたら風邪をひいてしまうわ」
鍵を開けて入るように促すが、少年は戸惑った顔のまま動こうとしない。まだなにか警戒している。ここに来る前によほど怖い目にでもあったのかもしれない。けれど、少年が動くまで待っていたら、自分まで風邪をひいてしまう。
「ほら、早くしないと、その赤ちゃんまで病気になったらどうするの?」
岬がそう言うと、少年ははっと息を呑んで大切そうに抱いている赤ん坊の顔を覗き込んだ。腕の中では、少し頬を赤く染めた赤ん坊が安らかな表情で眠っている。少年はほっとしたようにため息をつくと、何も言わずに岬の指示に従った。
部屋に入ると、電気をつけて少年と赤ん坊に向き直る。電灯の明かりにさらされた少年は、見たこともないような奇妙な服を着ていた。赤ん坊のほうは、きれいな白にピンクの縁取りのある、けれどこれも普段見かけないようなドレスを身に纏っており、硬く握られた右手に何か小さなものが見える。初めは子供用のおもちゃか何かと思っていたのだが、よく見ると細かな彫刻が施された古びた鍵のようだった。
二人とも、雨が降る前に来たのか、それとも時間とともに乾いてしまったのか、服は濡れていないようだった。どこから来たのか、少年の服はあちこち破れていて、その下にはいくつか切り傷のようなものも見える。まだかわいいあどけない顔をしているにもかかわらず、二つの大きな藍色の瞳だけが、その年齢にはそぐわない、やけに厳しい光を湛えていた。
「あなた、怪我してるの?ちょっと見せてごらん?」
消毒液ぐらいはあったはず、と考えを巡らせながら少年の腕をとろうとしたが、少年はするりと岬の手をすり抜けると、また少し警戒したように岬から離れていった。
「大丈夫。痛くないから」
怖がっているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。少年は大きくかぶりを振ると、「たいしたことない。ただのかすり傷だ」と大人びた口調で言った。
岬はふう、と大きなため息をつくとプラスチックケースから、一番大きくて分厚いタオルを取り出して少年に手渡した。どうやら意味がわからないようで片手に赤ん坊を抱いたまま、ぼんやりと手渡されたタオルを見つめている。
「ほら、お風呂、入ってきなさい」
「俺は、いい」
「よくない。ほら、赤ちゃんは私が見ていてあげるから。いくら濡れてないって言っても、冷え切ったままじゃ風邪ひいちゃうでしょ」
そう言って赤ん坊に手を伸ばした時、少年の身体がまるで中空に映し出された映像が乱れたように揺らぎ始めた。それと同時に、異変に気付いた赤ん坊がまた火がついたように泣き始める。
「な、なに?」
岬がたじろいでいる前で、少年の顔がみるみる苦痛にゆがみはじめた。
「あなたは、敵じゃないんだな?」
少年は岬の質問を無視して全く違うことを口にした。
「え?」
「あなたを信用して…お願いがある」
なおも苦痛に顔をゆがめながら少年は顔を真っ赤にして泣き叫ぶ赤ん坊を岬のほうへ突き出した。意味も分らず受け取った赤ん坊は見知らぬ他人の腕に、今までよりも更に大きな声で泣き始める。慌ててなだめようと揺らしていると、少年が何か呟いた。
「その子を…護ってやってほしい」
そう言った少年の姿は、まるで薄靄のように透き通っていた。
「あなた、その身体は…!」
「もう、時間がない…。ここに俺が留まることは…。頼む。その子を…」
少年の声は、そこで途切れてしまった。岬の目の前で、今までそこにいたはずの少年の姿はうそのように掻き消え、跡には岬が渡した大判のタオルがぽつりと残されていた―。