第十一章:真実と罠(2)
「なんで僕なんか助けたんだ」
光は自分でも驚くほど冷たい声で聞いた。もちろん、はっきり死のうと考えていたわけではない。海に落ちたのは、ただあの紙片にどうしようもない興味を抱いたからだった。実際、びしょぬれになったまま自分のことを心配そうに見つめる勇希の姿を見るまで、自分が落ちたことさえ気付いていなかった。けれど、今になって思う。自分はあのまま死んでしまったほうが良かったのではないのか、と。
だいたい、あの荒れた海のなか、自分の身の危険も顧みず、たかがクローンのために飛び込むなんて馬鹿げている。仮に勇希が泳ぎの達人だったとしても、ただの女の子に違いはない。あの荒れた海の中を男の光を抱えて泳ぐなど、無謀以外に何と呼べばいいのだ。勇希はれっきとした人間で、家族や大切に思ってくれる仲間もいる。そんな彼女の命は誰かのコピーとして生まれた自分の命などと、比べ物にならないほど尊いものなのだ。自分の代わりに勇希がもし死ぬようなことがあったら…光はそう考えると、震えが止まらなかった。
「なんでって、当たり前じゃない」
だが、光の考えを知らない勇希は怒ったような声を出した。自分に向けられた悲しそうな視線に、光は思わず目を伏せた。
「僕は、君が探していた彼じゃないし、それに…」
ヒトですらないじゃないか、と言おうとして光は唇を噛んだ。口に出して言うには辛すぎるその言葉を頭に浮かべるだけで目の前が揺らぎそうになる。
「カミンはね…」
そんな光を勇希は黙って見つめていたが、しばらくするとぽつりと呟いた。
「え?」
「カミンは、私の…正確に言えば私の前世での、恋人…だったの」
勇希の言葉に光は眉を顰めた。
「前…世?」
「そう。信じてくれないかもしれないけれど、私は昔、紅劉国っていう国の皇女で、カミンは私と国を護るために雇われた五大戦士の一人だったの」
勇希は光から目の前に広がる海に目線を移す。穏やかな金色の海がどこまでも続いている。カミンと別れたあの日も今と同じように静かな潮騒の音が聞こえていた。
一番好きだった風景は、いまやつらい別れの日を思い出させるものへと変わっていた。じっと見つめていると涙がこぼれそうになって勇希は顔を上に向け、気分が落ち着くのを待つと話し出した。その昔、誰もがユートピアと信じて疑わなかった紅劉国のこと、カミンやつくも達と自分との関係、そして数年前に起こった事件のことを―。普通なら馬鹿げた作り話だと一笑されてもおかしくない話を、光は勇希の話が終わるまでじっと真剣な眼差しで聞いていた。
「それじゃあ、君が探していた友人と言うのは…」
勇希が話終えた時、初めて光が口を開いた。その問いに勇希はこくんとうなずく。
「そうか…」
光は長いため息をついた。
「僕は一体何なんだろう?君の恋人のクローンとして作られた、と篠山さんは言っていた。けれど、一体なんのために?僕はどうして生まれてきたのか、何のために生きているのか、それが、わからないんだ」
今隣にいる光はあの人の分身だった。あまりにもそっくりな容姿に、何か関係があるのではないかとは考えていたが、まさかクローンだとは夢にも思わなかった。自分がナユルの生まれ変わりではなく、誰かに造られた生態コピーだと言われたら、確かに何をどう考えていいのかわからなくなるだろう。死にたいと思うのも、当然と言えば当然なのかもしれない。
けれど、だからと言って死なせるわけにはいかない。カミンの生まれ変わりではないとしても、勇希は玖澄光という一人の人間の存在を知ってしまったのだ。その出生が自然であろうとなかろうと、光が今、ここに存在していることに変わりはない。
「あなたは、私達と何も変わらない人間なのよ」
勇希は、つらそうに呟く光の腕にそっと自分の手を置いて言った。
「ショックなのは、わかるわ。私も、菖蒲さんの話を聞いた時は驚いた。クローン技術が発達しているのは知っていたけれど、実際に人を造ることができるなんて、そんなことがあるはずないって、そう思ってた。あなたが混乱するのは当たり前よね。もし、私があなたと同じ立場なら、きっと怖くて怖くて堪らなくって、どこかにいなくなってしまいたいって思うかもしれない」
勇希は光の藍色の瞳を覗き込んだ。潤んだ瞳は、苦悩に翳りはあるものの、まるで今生まれてきた赤ん坊のように澄んでいる。
「だけどね、あなたは今、ここにいる。確かに、存在しているのよ。カミンが精神体として私の中に存在していたように、あなたは玖澄光としてここにいる。あなたがカミンのクローンだろうが、そんなこと私は気にしない。ううん、私だけじゃない。敬介や、つくも、みんなが…そして、きっと菖蒲さんも同じ気持ちだと思う」
「篠山さんが?」
勇希の言葉に光は不思議そうに聞き返した。それもそうだろう。自分が普通の人間ではないと勇希たちに宣言したのは菖蒲なのだ。どうでもよいと思っているのなら、わざわざ勇希たちに光の出生の秘密を話す必要がどこにあるだろうか?
だけど、勇希は菖蒲の気持ちを知っている。光本人は気付いていないようだが、菖蒲が光のことを特別に思っているのは確かだ。だから、光が記憶喪失に悩んでいることを知っていながら今まで黙っていたのだろう。
きっと光にはこのことを知られたくないと思っていたに違いない。真津子が調べてもわからなかった光の出生の秘密を、一介の看護師である菖蒲がどうして知り得たのかはわからない。プロジェクトに関わる誰かから聞かされたのか、もしかするとあの実験室を偶然発見し、自分なりに調べたのかもしれない。それでつくもにカミンのことを調べてくれるよう頼んだのだとすれば、全て辻褄が合う。
つくもはまだ菖蒲にカミンについての報告書を渡していないと言っていたから、恐らくカミンが何者なのか、勇希たちとどんな関係があるのかは分っていないはずだ。
それを知ってどうしようと思ったのか、そこまでは勇希にもわからない。けれど、きっと、できれば一生光には言わないつもりでいたのではないだろうか。だから、光に似た知り合いがいると言う勇希たちが菖蒲には脅威だったのだ。
勇希たちが光に関われば、いつかその出生の秘密が、光本人に知れてしまうかもしれない。そうなった時、光が壊れてしまうかもしれないことを恐れていたのだろう。だからこそ、あんなにやっきになって勇希たちを光から遠ざけようとしていたのだ。きっと、光がカミンの生まれ変わりではないと分れば勇希たちが光と関わることはなくなる、そう考えたに違いない。
「うん。だから彼女はあなたをあんなに一生懸命看病したんだよ。あなたは彼女にとって大切な人だから−。あなたは確かにカミンにそっくりだけど、あなたは操り人形なんかじゃない。だって、あなたは自分の意思で行動してるじゃない?あなたは光自身として生きればいい。きっと菖蒲さんもそう思ってると、私は思う」
自分自身として生きろという勇希の言葉に、光ははっと目を見開いた。そんなことが、できるんだろうか?過去も何もない自分が本当に自分の意思で自分らしく生きていけるのか?それはとても魅力的で、だが同時に絶望的なことに思えた。
しばらく考え込んでいた光が何か言おうと口を開きかけたその時、辺りが急に真っ暗な闇に覆われた。暖かかった夕焼けはあっと言う間に消え去り、冷たい風が低く垂れ込めたねずみ色の雲の下を駆け回っている。荒れ狂う波が岸に打ち寄せては白い泡を撒き散らした。その泡は奇妙な形に集まったかと思うと、その首がゆっくりと宙に浮かび上がり、次第にその全貌を顕にしていく。驚きで目を丸くしている二人の目の前に現れたのは一匹の白龍だった。その龍の頭上に、器用に立つ人影が見え、見知った顔に二人ともはっと息を呑んだ。
「菖蒲さん!」
勇希の声に白龍の上の菖蒲は、あからさまに顔をしかめた。
「また、あなたなの」
菖蒲はきっと勇希を睨みつけて言った。
「私の警告は効かなかったようね。玖澄光にはあれほど関わるなと言っておいたのに」
「警告?僕に関わるなって、篠山さん…いったいこれはどういうことなんだ?」
光の問いに菖蒲はしまった、という顔をしたがもう遅い。光がいつになく厳しい目で自分を見つめているのに気がついた。
「あなたが悪いのよ」
菖蒲はばつが悪そうに光から目を逸らすと、光の問いを無視して勇希を睨みつけた。
「あなたが、この世界に現れなかったら、こんなことにはならなかった。あのまま私の警告を聞いてくれていたら、光君が苦しむことだってなかったのに…」
いつの間にか菖蒲は涙声になっていた。ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちる。その雫が白龍の体に落ちる度に龍はその太くて長い体をくねらせ、地面を揺らすような低い声で鳴いた。
「篠山さん、私…」
「許さない」
勇希の言葉を遮って続ける。
「あなただけは絶対に、許さないから」
そう叫んだかと思うが早いか、白龍の太い腕が突然勇希目掛けて降りてきた。
「危ない!」
光は咄嗟に勇希の前に飛び出すと、勇希を抱えて横に跳び退いた。少しだけ早かった白龍の鋭い爪が光の脇腹を抉って、真っ赤な鮮血が飛び散った。
「グッ」
食いしばった歯の下から低い呻き声が漏れる。光はそのまま勇希を自分の背後にかばう形で立つと、白龍に乗った菖蒲のほうを見上げた。
「やめてくれ!いったいどうしちまったっていうんだ?頼むから、その龍から降りてくれ!そいつは危険なんだ!」
いったいどうして菖蒲が白龍などを操っているのかわからない。いや、もともと想像上、伝説上にしか存在しないはずの龍がただの海の泡から生まれたということすら理解できることではないのだ。けれど、この龍の側にいたらいけない。それだけはわかる。あの悪夢のように、菖蒲が波に飲み込まれてしまう所を想像して光はぶるっと身震いした。
それだけは絶対回避しなければ…。光は必死に菖蒲に呼びかけるが、聞こえていないのか、菖蒲が反応する様子は全くない。白龍はその大きな口を開けると白い何かをこちらへ向けて吐き出した。
ヒトの防衛本能が働いたのか、光は咄嗟に両腕で自分の頭をかばうと目を閉じた。しばらくそうして来るべき衝撃を待っていたが、何も起こる様子がない。恐る恐る目を開けると、白いぬるぬるとしたものが目の前に現れた青白い光の壁をつたって流れ落ちるのが見えた。それは重力にしたがってゆっくり地面へ落ちると、シューという嫌な音とかすかな煙を立てて地面に小さな穴を開けた。
「外したか」
それを見た菖蒲が小さく舌打ちした。
「光君、逃げて。彼女、正気じゃないわ」
背後で勇希が言った。
「わかっている、だけど…」
だけど、このまま逃げることはできない、そう思った。この白龍から逃げるのだって簡単なことではないだろう。だが、それで躊躇しているわけではなかった。ここにいるのは自分だけではない。背後に庇う勇希を安全なところまで連れて行く必要がある。ルシファーにしろ、この白龍にしろ、なぜ自分を襲ってくるのかわからないが、関係のない勇希を巻き込むわけにはいかない。それに、菖蒲のこともある。今まで自分にあんなに良くしてくれていた菖蒲が、どうして今、自分を襲おうとしているのかわからない。けれど、だからと言って菖蒲をそのままここに残していくことも出来るはずがなかった。なんとかして菖蒲を龍から降ろせないか、そう考えを巡らせていると、不意に目の前が揺らぎだした。
「光くん?」
光の様子がおかしいことに気付いた勇希が声をかける。大丈夫だ、と言おうとして口がまわらないことに気がついた。いや、それだけじゃない。体全体が麻痺したかのように言うことをきかなくなっている。はっとして目だけで菖蒲を見ると、ぞっとするような冷笑をその唇に浮かべこちらを見下ろしているのが見えた。
「かかったな」
菖蒲の口から菖蒲とは違う低い声が発せられた。まるで何かに取り憑れたかのように、恐ろしい憎悪の色を湛えた瞳がこちらを睨みつけている。体の自由が利かなくなったことで、光の周りに出来ていた青白い光の壁も次第に薄くなっていく。その光が完全に消えたところで白龍が動いた。その太い腕が動けない光の後ろにいた勇希に目掛けて襲い掛かった。
やめろ、彼女は関係ない!そう心で叫ぶが体が言うことを利いてくれない。白龍はあっと言う間に勇希の体を掴むと頭上にいた菖蒲もろとも、そのまま泡になって消えていく。
「菖蒲、勇希!」
呪縛から逃れた光は大声で叫んだが、二人の姿はもうどこにも見えなかった。