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第十一章:真実と罠(1)

どこをどう走ったのか覚えていない。ただ、あの場から逃れたくて、足の向くままに走った。


こんなに走ったのは久しぶりだ。いや、もし菖蒲の言っていたことが本当なら、「走る」という行為自体が始めての経験だろう。病院で目覚めてから、今日まで走る必要などただの一度もなかったのだから。それでも久しぶりだと感じるのはカミンの潜在意識が遺伝子に残っているからか。


真津子の叔父だという人物から、失われた記憶を教えると指示された場所があの病院だった。地下で待っていると言った男は結局現れず、その代わりに見つけたのは勇希たちに真相を話す菖蒲の姿だった。


「これはそう、そのカミン、とか言う人のクローンよ」


「これはどれも失敗作らしいけれど…たった一体だけ成功したのが…」


頭の中にリプレイされる菖蒲の声から逃げるように、ただやみくもに走った。それでも、菖蒲の声は一向に止まらない。何度も何度も光の頭に呼びかける。お前は人間(ヒト)ではないのだと。その声に時折夢で見る映像が重なった。暗い部屋、いくつもの実験道具、そして緑色の液体の中にただようもう一人の自分…。


「そうだ、お前が殺ったんだ。全てはお前が壊したんだよ」


水槽の中の自分はにやりと残酷な笑みを浮かべると、地に這うような低い声でそう囁いた。


「やめろ!違う…僕は…俺は!」


光は声にならない叫びをあげた。喩えようもない恐怖が光の心を蝕んでいく。その恐怖から逃れようと、ただ、ただ走り続けるしかなかった。




どれくらい走ったのだろう、とうとう息が苦しくなった光はその場にへなへなとへたりこんだ。しばらくして、ふつうに息ができるようになった光の耳に聞こえてきたのは穏やかな潮騒の音だった。いつの間にか、あの灯台の側まで来ていたようだ。今日の空はどんよりと曇っていて、いつものこの時分なら黄金に輝いているはずのその海は暗く、ひどく淋しげに見える。まるで自分の心を映し出しているかのような海の色に、光はふっと自嘲的な笑みを浮かべた。


光はゆっくり立ち上がると灯台の中へと歩を進めた。もう何度となく訪れているので薄暗くても上の展望台へと上る階段の位置はわかっている。ざらついた手すりを繰りながらあがっていくと鉄板が靴の下でかんかんとよく響く硬い音を立てた。外に出ると錆びた鉄柵にもたれかかる。空には暗い雲が幾重にも垂れ込めていつも飛んでいる海鳥の姿さえ見えなかった。


鉄柵に両腕を重ねるとその上に頭をうずめて深いため息をつく。手摺の錆びた鉄と潮の匂いが鼻をついた。錆が袖口を茶色く染めていたが、そんなことは些細なことにすぎなかった。


あんなに知りたかったはずの記憶は光に闇と絶望しか与えてはくれなかった。ここで初めて勇希と出会ったあの日、光はどんな過去でも受け入れる、後悔しないと確かに誓った。それは自分に過去があると信じていたからだ。どんな人にも過去はある。自分の過去さえ取り戻せば、迷子のような状況から開放されると思っていた。

自分がどこの誰なのかさえわかれば、この例えようもない孤独から逃れられる、と。


「くそ…」


光は小さく舌打ちした。リーディングをした真津子が浮かない顔をしていたはずだ。あの時、真津子には何も見えていなかったのである。なぜなら、光の過去は、いや光自身が存在してはいなかったのだから。おそらく真津子は光の気持ちを傷つけまいと、分析に時間がかかる、なんて嘘を言ったのだろう。


眼下には灰色にも見える暗い海が広がっている。いつも自分を元気付けてくれる海ですら、今日は不安な影しか見せてはくれなかった。これから自分はどうすればいいのか。自分自身に問いかけてみるが、その答えを光は持ち合わせてはいなかった。


「僕は…」


小さく呟いた時、何かキラリと光るものが藍色の瞳から流れて下に広がる海へと零れ落ちた。すると、まるで光の涙に誘われるかのように深く暗い海の中、小さな白い何かが閃いた。果てしない海の中、簡単に見逃してしまいそうな小さなものにも関わらず、なぜかそれがはっきりと光の目に捉えられた。


「なんだ…?」


濡れた瞳をじっと凝らすと、赤い何かが、まるで自分を誘っているかのように揺れていた。



***


「一体どこに…」


長年の雨風にさらされて真っ黒になった公園のベンチに、勇希はスカートが汚れるのも気にせずへたり込んでいた。病院を飛び出した光を追ってあちこち捜し回ったが、それらしい姿はどこにも見当たらず、最後にたどりついたのがこの灯台だった。


普段なら、必ず誰かが辺りを散歩していたりするのだが、今日は曇り空が災いしてか、通行人すら見当たらない。もう他の場所へ移動してしまったのだろうか?もっと早くここに来るべきだったのではないか、勇希は今更になって後悔した。


光を追って病院を出た時、真っ先に思いついたのはこの灯台だったからだ。いつも何かあるたびに光と出会った場所なのだから、当然といえば当然か。けれど、この日は光と出会って初めてここに向かうのをためらった。ここが光とだけの想い出の場所なら、そんなことはなかっただろう。勇希がためらったのは、ここには他にもたくさんの苦い想い出がつまっていたからだ。勇希は怖かった。カミンを奪ったこの場所が、今度は光まで奪ってしまいそうで、怖かったのだ。


もしかしたら、ここには来なかったのかもしれない。もうだいぶ日も暮れている。既に家に帰っている可能性もある。他の誰でもない自分自身に言い訳するように勇希は悪い考えを頭の中から振り落とした。


一度電話をして様子を伺ったほうがいいかもしれない。そう考えをめぐらせていると、灯台の上で何かが動いたように見えた。はっとしてそちらを見ると、誰かが手すりに身を持たせかかっているのが見える。


「あれは、もしかして…」


悪寒が全身を走り抜ける。勇希は急いで灯台の入り口のほうに走り出した。その人影は、手すりからゆっくりと身を乗り出したかと思うとそのまま海へと飲み込まれていった。



***


さっきまで遠くで揺れていた赤いものが今、はっきりと目の前に現れた。ふわふわと揺れ動くそれは、小さな白い紙に書かれた文字だった。暗い海に赤い文字が血のように鮮明に浮かび上がる。


”You are the guiding star of his existence”…と。


その文字へと光は無意識に手を伸ばした。すぐそこにあるはずのその紙は、まるで意志のある小魚のようにすっと光の指から逃れると、どんどんと奥深くへと沈んでいく。光には、その言葉の意味がよくわからなかった。それでも、どうしても、その紙片を掴みたくて身を乗り出した。


あと少し、もうちょっと…。


そう思ったとき、自分を呼ぶ声が聞こえたよ、な気がした。


誰?僕を呼ぶのは…?君はいったい?


姿の見えない声の主に尋ねる。そして全てが闇に包まれた。



***


広い広い海の向こうに白く、長いアーチ型の橋が見える。橋の上には一人の女性がこちらを見つめてたたずんでいた。派手な顔立ちの女性は菖蒲にそっくりである。


彼女は自分に何か伝えようとしているらしく、遠目から口を動かすのが見えるが、荒れ狂う波の音に掻き消されて何を言っているのか聞くことはできない。そうしている間にも、波はどんどん高くなり、今にも橋を飲み込む勢いである。


そこにいたら危険だ、早く安全な場所に非難するようにと叫ぶが、光の叫びは橋の上の菖蒲に一向届く様子がない。波はみるみるうちに高くなり、橋もろとも菖蒲を飲み込もうと襲い掛かった。


「ダメだ、やめろー!!」


叫んだところで目が覚めた。あんなに深かった雲はいつの間にかすっかりその姿を消して、沈みかかった夕陽が海面を金色に染めていた。自分の身に何が起こったのかわからず、しばらく呆然としていると、小さな怯えるような声が自分の名前を呼ぶのが聞こえた。ふと声がしたほうを見ると体中ぐっしょり濡れた勇希が心配そうに自分を見つめているのに気がついた。


「勇希ちゃん…?」


「良かった。生きてた…」


勇希は安堵の声をもらすと光に抱きついた。


「あ、あの…」


「死んじゃったかと思ったんだから…よかった。本当に…」


驚いて離れようとする光にしがみついたまま、勇希が湿った声で呟いた。


「え?僕は…」


何が起こったのか尋ねようとして自分も勇希と同様、ずぶ濡れなのに気付く。


ああ、そうか。僕は灯台の上から海に落ちたんだ。


光はまるで人事のように暢気にそう思った。飛び込むつもりではなかった。絶望していたのは事実だが、死のうとしたわけではない。ただ、あの暗い海の中を漂う紙片がどうしても気になって、気がついたら手を伸ばしていただけなのだ。側にいた勇希も自分と同じように頭から爪の先までぐっしょりと濡れている。栗色の前髪が勇希の広い額にぺったりと張り付いていた。


「もしかして、君が助けてくれたの?」


「私、泳ぎは得意だから」


両手で涙を拭うと勇希は照れたように笑って言った。


「なんで…」


「え?」


「なんで僕なんか助けたんだ」


***


「あんたにはもう少し話を聞かせてもらうよ」


飛び出した光の後を追おうとした菖蒲の前につくもが立ちはだかっていた。他の三人もぐるっと菖蒲を取り囲むようにして立っている。まさか光がこの場にいて自分の話を聞いているとは思ってもみなかった。光がショックを受けないようにと今まで黙っていたのにこれでは全くの逆効果である。


早く追いかけて事情を説明しなければ−。そう気は焦るものの、こう周りをしっかりと取り囲まれてしまっては身動きすらできやしない。

どうしたらいいの?歯噛みした時突然病院内の警報装置が鳴り始めた。


「なんだ?」


耳をつんざくような音に敬介たちが辺りを見回した時、ふと誰かが菖蒲の腕を掴んだ。


「火事だ!」


菖蒲の腕を掴んだ男はそう短く叫んだかと思うと菖蒲の手を引いて走り出した。


「え?あ、こら、待ちやがれ!」


一瞬ひるんだ敬介が少し遅れて追ってくるが、天井から降り注ぐスプリンクラーの水で視界が遮られ、うまく進めないでいる。


「ほら、早くここから逃げろ」


浅黒い肌の男はどこへ続くとも知れない暗い通路を指差すと菖蒲を促した。

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