第一章:記憶のない青年(2)
「ここ、だよな?」
光は目の前に聳え立つ、全面鏡張りの近代的なビルを眩しそうに見上げた。
病院を出て真っ先に向かった先は流インターナショナルだった。
だいたいのロケーションは菖蒲が地図を手書きしてくれていたのだが、病院からI電車に乗って三駅目にある、という肝心な情報が漏れていたためにここまで辿り着くのにだいぶ時間がかかってしまった。
この町は鉄道会社の数も多く、同じ名前の駅が他に三つもある。もちろんどれも同じ地域に位置しているのだが、町の端から端に位置しているので間違った駅に降り立つと全く違った場所に出てしまうのだ。
そんなわけで、午前中に病院を出てきたというのに、街路樹の中に立つ大きな時計の針はもう既に三時近くを指していた。
いろいろ歩き回ったおかげでだいぶこの辺りの様子がわかってきたのは不幸中の幸いだった。
これだけ歩き回れば何か一つくらい記憶を取り戻せるかもしれない、と淡い期待を抱いていたのだが、それはただの空振りに終わってしまったようだった。
一度失われてしまった記憶を取り戻すのはそんなにも難しいことなのか、それともこの辺りに来るのは本当に初めてのことなのか―。
いつまでたっても答えの出ない問題が頭の中で渦巻いて光の気分を重くしていく。だが、今目の前にある、このビルの中に何か答えがあるかもしれない、そう思い直すと少しだけ元気が出たような気がした。
「よし、行くぞ」
少し不安になってきた自分に喝を入れ、ガラスで出来た自動ドアに向かおうとした時、誰かが中から出てくるのが見えた。何気なく目をやったその人影に、光は思わず立ち尽くす。ここの社員なのか、その若い女性は折れそうなほど細い腕の中に大きな書類の束を重そうに抱えていた。
光よりほんの少しだけ背の低いその女性の頬は薔薇色に染まり、栗色のショートヘアーがよく似合っている。特別美人というわけでもなかったが、ただ一つ、大きなセピア色の瞳が印象的で、光はその瞳を見たとたん、なぜか自分の胸がチクリと痛むのを感じていた。
どこかで知っている女性だろうか?
少し遅れて思考が動き出す。
「あ、あの・・・」
声をかけてみようと振り向いた時には彼女の姿はどこにもなく、妙な胸騒ぎもいつの間にか消えていた。光はそっとため息をつくと、ゆっくりと受付に向かって歩きだした。
*****
「亡くなった父に、いったいどういうご用件でしょうか」
黒縁のメガネをかけた女性の言葉に光は耳を疑った。
ここは流インターナショナルの本部にして応接室。受付で流眞に面会を求めた時に不信な顔をされたのは、自分が前もって面会の約束を取り付けていなかったせいだと思っていた。
もし面会を拒否されるようなことがあったらと、菖蒲から預かっていた封書を見せた。それを見た受付嬢の顔は心なしか蒼褪めた様子で、慌てたようにどこかへ電話をかけ始めた。しばらくしてから電話を切ると、流眞への面会には応じられないが、その娘が対応するからと言って光をこのビルの中層に位置する応接室へと通したのだった。
部屋に通されてからだいぶ待ったが誰も来る様子がなく、また日を改めたほうがいいのではないか、と思っていた矢先、黒髪の知的そうな女性が現れたかと思うと、開口一番言ったのが先程の台詞だった。
「な、亡くなられたって、流眞さんが、ですか?」
思いもよらなかった展開に光は面食らってどもりながらそう尋ねた。
「はい。もうすぐ二年になります。私は流真津子。眞の娘で今はここ流インターナショナルの社長を務めているものです」
真津子と名乗るその女性は淡々と事務的に答える。その声に刺はなかったが、特に友好的というものでもなかった。
父親の死を知らずに突然面会を申し出た光を警戒しているのかもしれない。それに光は病院から退院したその足でここに来ていた。長い病院生活で髪は伸び放題、着ているものにしてもこんな大企業に赴くには少々場違いと思われる普通の格好だった。これではこの神経質そうな女社長でなくても、警戒してしかるべきである。
だが、今の光にはそんなことに気を配るような余裕はなかった。長い間自分の入院費用を払ってくれていた恩人に礼を言って、それから自分のことを教えてもらおう、そればかり考えてここまで来たのである。ところがそんな光を待っていた現実は、唯一自分のことを知っていそうな人物がもう既にこの世にはいないという皮肉なものだった。
どうすればいい?
光は何を考えればいいかわからなくなって下唇を噛んだ。
「あの、失礼ですが、あなたと父とはどういう?」
そんな光に業を煮やしたのか、淡々としながらも、先程よりも険しい口調で真津子は訊いた。
「その、僕は・・・」
光は口篭もる。
一体何をどう言えばいいのだ?自分のことすらわかっていないのに、自分とこの女社長の父親の関係をなんと説明すればいい?
考えれば考えるほど、疑問ばかり浮かんで言うべき言葉が見つからない。光は口をつぐむと俯いた。そんな光を真津子はしばらく困ったような顔で見つめていたが、やがてそっとため息をつく。
「すみませんが、私も忙しい身なので、ご用件がないのでしたら・・・」
「流さんが・・・」
真津子が引き取り願おうと口を開いたのと光が重い口を開いたのはほぼ同時だった。
「はい?」
「あの、あなたのお父さんの流眞さんが、僕の入院費用を払ってくださっていたと、病院のほうから聞いて、それで・・・」
「あなたの入院費用を?うちの父が、ですか?」
何か知らされているかと思ったが、真津子にも初耳のようで、目を丸くしている。
「あ、はい。それで、お礼を言いたいと・・・」
「失礼ですが、うちの父とはどういう?」
真津子はまたさっきと同じ質問を繰り返した。それもそうだろう。見ず知らずの男が突然やってきて、自分の父親がその者の入院費用を払っていたと言うのだ。父とこの男の間になにかよほどの関係がないと、そんなことをするはずがない。
「それが、僕にもわからないんです」
「え?」
「二年ほど意識不明だったようで、つい一週間前に気が付いたんです。今日退院したのですが、記憶が全くなくて…」
「記憶、喪失ですか?」
おずおずと話す光を今度は心配そうに見つめながら、真津子はゆっくりと考え考え言葉を紡いだ。
「はい…。それで、病院のほうで僕の入院費を払ってくれていた流さんを頼れば何かわかるのではないかと教えられて」
「そう、ですか。失礼しました。さっきはあんな態度を取ってしまって」
真津子はさっきとはうってかわった優しい口調でそう言うと恥ずかしそうに軽く頭を下げる。
「あ、いえ、そんな。気にしないでください」
光は疲れたような笑みを浮かべた。
「あの、お名前は・・・。お名前もご存知ないのですか?」
真津子は言葉を選びながら遠慮がちに聞いた。
「光です。玖澄光。それが僕の名前だと、僕を病院に運んでくれた人が言っていたそうです」
「そうですか。素敵なお名前ですね」
そう言って、真津子は優しく笑いかけたが、その笑みはすぐに消え失せてしまう。
「でも、ごめんなさい。私ではあなたの助けには・・・。父からあなたの話を聞いたことはありませんし、誰かの入院費を払っていたというような事実も、私には知らされておりません」
真津子は本当に申し訳ないと、辛そうな表情を浮かべて俯いた。二人の間に重苦しい沈黙が流れる。光も真津子もどうすればいいのか途方にくれていたが、しばらくすると光は意を決して立ち上がった。
「お手数をおかけしました。あの、すぐにとはいきませんが、お支払いいただいた費用はいつか…」
「いいえ、それはお気になさらずに。どういう理由があったのかはわかりませんが、父がそうしたいと申し出たのでしたら私共がそのお金を返していただく理由はありません。それより、これからどうなさるおつもりですか?」
同じように真津子も立ち上がると、穏やかな声で尋ねる。
「とりあえず、病院から紹介してもらった所に行ってみるつもりです」
「そうですか。何か困ったことがありましたら、いつでも連絡してください。私にできることなら喜んでお手伝いさせていただきます」
そう言って真津子はシステム手帳から名刺を一枚取り出すと、なにやら裏に走り書きをする。
「裏に私の家の連絡先も書いておきました。落ち着いたら連絡してください。父のお知り合いが困っていたら私も気になりますから」
そう言って渡された名刺には几帳面な真津子の性格を現したような文字が並んでいた。
「どうも、ありがとう。じゃあ、僕はこれで」
名刺を手に、部屋を後にする光の背中は実際のそれよりもずっと小さく見えた。
彼が早く自分のあるべき道を見つけることができればいいのだけれど…。
とっくに閉められた扉の向こうにいるその背中を頭の中で追いながら、真津子は知らず知らずにそんなことを考えていた。