第九章:悪夢の始まり(1)
この街のシンボルである灯台はいつもと変わらず、果てしない海を一望できる見晴らしのいい場所に、時におだやかに、そして時に寂しそうにたたずんでいる。対して穏やかな海面には活き活きとした水鳥たちの群れが見えた。
ある日偶然この場所を見つけてから、光はほぼ毎日のようにこの場所に来て、じっと海を眺めていた。潮の香りと穏やかな波の音が心地よく、ここにくれば全ての不安がかき消されて幸せになれるような、そんな気がした。
数日前に出会った勇希とも、よくここで会って話しをするようになった。
特にここで会おうと約束をしたことは一度もなかった。ただ、光が何か得体の知れない不安な影に気が滅入ってどうしようもなくなった時は、必ずと言っていいほど、勇希もこの場所に来ていた。だから今日も勇希に会えるのではないかと思っていた光だったが、今日は自分以外、誰もいなかった。
少しがっかりしたような、それでいて安心したような心持で光はふう、と大きなため息をつくと、足元に広がる青い海を見下ろした。瞬間、何か黒いものが背後をよぎったような気がして、はっとする。と突然、足元がぐらりと大きく揺れた。
「地震か?!」
ひどい揺れに半ばひっくりかえりそうになるのを、灯台の長年の潮風で錆びた鉄柵に掴まってなんとかこらえて立っていると、傍の地面に亀裂が入っていくのが見えた。亀裂はみるみるうちに、長く深くなっていく。しばらくして、揺れが収まると、目の前に大きな地割れができていた。
「かなり、大きかったな…」
光は大きく息をついた。完全に揺れが止まったのを確かめると、灯台から降りてみることにした。灯台はよほど頑丈に作られていたのだろう、地割れができるほどの地震にもびくともしなかった。これが倒壊していたら、今頃光は生きてはいなかっただろう。光は自分の悪運の強さにふっと自嘲的な笑みを浮かべた。
外に出てみると、地面にぽっかりと大きな穴が開いているのが見えた。足元に気をつけながらそっと下を覗いてみると、真っ暗な地下空間がどこまでも続いている。さっきまであんなに晴れていた空には黒雲がたちこめ始め、どこかで雷鳴がとどろくのが聞こえた。
「まずい、嵐になりそうだ」
風がひどくなり始め、水鳥たちがいっせいに飛び去っていった。ふと波の向こうを見ると、白い小さな橋があり、その上には誰か人が立っていて、じっとこちらを伺っている。その人は、自分のいる場所があと少しで荒れ狂う波に飲み込まれようとしているにもかかわらず、一向に動こうとする気配がない。
「危ない、逃げろ!」
この位置からでは聞こえるはずもないが、光はそう叫ぶと橋のほうへ向かって走り出した。橋まであと数メートルというところで、高波があがって橋の上に襲い掛かる。その波はあっという間にその人もろとも橋を一瞬にして飲み込んでしまった。
光はちっと舌打ちするとそのまま海に飛び込んだ。なんとか助けられないかと潜ったりあがってきたりしてはその人影を探してみるが、探している者はどこにも見当たらない。そうする間にも嵐はだんだんひどくなり、とうとう自分の体を支えて泳ぐことさえままならなくなってきた。そのまま水に飲み込まれるが、不思議と息苦しさは感じない。遠のく意識の中、水の中でなにやら赤いものがちらつくのが見えた。なんだろうと手を伸ばそうとした瞬間、何かの力で引き戻される感覚に襲われて光ははっと目を見開いた。
ふと気が付いてあたりを見渡すと、荒れ狂う海はどこにも見当たらない。暗い部屋はいつもの見慣れた自分の部屋だった。蛍光色の時計の針が暗闇の中にぼんやりと浮かんで、もうすぐ三時を指そうとしているところだった。
「なんだ、夢か…」
光はふうとため息をつく。その額には冷たい汗が光っていた。
意識を取り戻してから、ほとんど毎日のように夢を見る。それも大概は現実だったのではないかというぐらい生生しい感覚のある夢だ。いつもなら隣の部屋で寝ている満が光の悲鳴に飛び込んでくるのだが、今日はどこかへ出かけていて、家にいるのは光一人だった。
もう一度ベッドに潜りこもうとしたが、気が高ぶって眠れそうにもない。仕方がないので汗で湿ったシーツの中から抜け出すと、何か飲み物を探しにキッチンへと移動した。
キッチンは小窓から差し込めた月の光でどこか神秘的にさえ見える。暗いキッチンで冷蔵庫から取り出したスポーツ飲料を飲んでいると、壁にかかった電話がけたたましく鳴り響いた。
「誰だ、こんな時間に?」
時間はとうに午前三時を回っている。こんな時間に電話をかけてくる人がいるとすれば変質者か何かよくない緊急の知らせかのどちらかだ。急患ということもあり得るが、かかってきた電話は自宅専用のものである。めずらしく外泊している満になにかあったのか?自然と浮かんできた悪い考えを振り払うように頭を振ると甲高い音で鳴り響く受話器に手をかけた。
「もしもし?」
警戒した口調で出るが、受話器からは何も聞こえる様子がない。
「もしもし?どちらさまですか?」
もう一度、今度は少し大きなはっきりとした声で聞いてみるが、聞こえてくるのは沈黙のみ。そしてその中に、かすかだが誰かの息遣いが聞こえてくる。やはり変質者かと思い電話を切ろうとしたその時、受話器の向こうから何か思いつめたようなくぐもった男の声が聞こえてきた。
「切らないで、大事な話があるんだ」
そうしてまた黙ってしまう。どこかで聞いたような声だと思ったが、どこでだか思い出せないでいた。しばらく待っていたが、何を躊躇っているのかやはり相手は何も話しそうにない。光は相手に聞こえない程度に小さなため息をついた。
「あの、どういうご用件ですか?話す気がないのでしたら…」
切りますよ、と言おうとした時、受話器の向こうの声が光のそれを遮った。
「玖澄…光君、だね?」
「そうですけど、あなたは…」
「流真司。流インターナショナル社長の…真津子の叔父だ」




