第七章:扉の向こう側(3)
リーディングを終えた真津子はただ一人、自宅の寝室で頭を抱えていた。リーディングの内容を整理するために、少し時間が必要だと言って勇希たちを返した真津子だったが、実際、リーディングは失敗に終わっていた。あれだけ時間をかけて、根気よくやってみたにもかかわらず、光の心の中に、記憶らしい記憶は何一つ、小さな断片さえも見当たらなかったのだ。そのことが一体何を意味しているのか。今の真津子にはわからなかった。いや、一つだけ、考えられることがある。けれど、その仮説はあまりにも非現実的で、不可解なものだった。
光のリーディングについて何の進展もないまま数週間が過ぎたある日の午後、満に頼まれた例の薬の調査結果が真津子の手に届いた。真っ白な、飾り気のない便箋に、これまた面白みのない文字が並んでいた。素人目にはなにやらちんぷんかんぷんな文字だったが、真津子は仕事柄、こういう報告書を読むのには慣れていた。ざっと中ほどまで目を通したところ、真津子の目はある一点に釘付けになる。
「そんな、まさか…」
思わず口から漏れたその声はかすかに震えていた。今までにいろんな報告書を見てきたが、こんな報告結果は初めてだった。真津子の研究所は世界でも随一の技術と人材を備えており、真津子自身、その研究結果に未だ疑問を持ったことはない。けれど、今回の結果は信用するにはあまりにも無理があるものだった。だが、それは同時に、真津子が抱いていた懸念を裏付けするものでもあった。
真津子はその報告書を手に、慌てて父の書斎に駆け込んだ。劉翔学院大学ほどではないが、父の眞もかなりの蔵書を自宅の書斎に所有していた。そのほとんどはかなり読み込まれたものらしく、気をつけて扱わないとページがばらばらになってしまいそうなものや、手垢でタイトルすら読み取れないほど真っ黒になっているものすらあった。顔を近づけて関係のありそうな書籍を物色していると、黴と埃の匂いが鼻をついて、真津子は思わず顔をしかめた。
どのくらいたっただろうか。とうとう一番上の書棚で目当ての書物を見つけた。その場でぱらぱらと中を見ていると、なにか倒れるような音がかすかに聞こえた。辺りを見回すが、何も倒れている様子はない。気のせいかと開いたままの本をとじ、はしごを降りようとしたとき、今までこの本がしまってあったその空間の奥に、何かつぎはぎでもしたような、妙な切れ目があることに気が付いた。
「何かしら?」
よく注意して見てみると、それは何か小さな扉のようで、中央に小さな丸い穴が開いトいる。
「もしかして、鍵穴?」
真津子はそうつぶやいて、ふと叔父の真司から預かった例の鍵のことを思い出した。急いで自分の部屋に取りに戻ると、そっとその鍵を穴の中に差し込んでみた。鍵はぴったり穴の中に納まった。真津子の心臓がトクントクンと大きな音をたてている。ゆっくり鍵をまわしていくと、しばらくしてカチッという錠が外れる音がした。そのまま手前にゆっくり引くと、扉の向こうに小さな空間が現れた。さっき鍵と一緒に持ってきた小型の懐中電灯を照らしてみると、古びた小さな木箱と分厚いほこりの下で虹色に輝く四角いものが目に入った。
「まさか、これは…」
触ると砂ぼこりでざらざらしている。真津子は壊れ物を扱うかのように中のものをそっと取り出すと扉をもとに戻して鍵を引き抜いた。そのままはしごから降りて窓際の父がいつも使っていた大きな古ぼけた机に移動する。ティッシュを数枚取ってそれぞれのほこりを拭き取ると、それまで真っ白だったティッシュはたちまち真っ黒に染まってしまった。ふと自分の手を見ると、まるで炭鉱か何かで働いてきたかのような汚れように真津子はまた顔をしかめた。几帳面な真津子には汚れた手でそのままいるなど、とうてい耐えられることではない。真津子は部屋に隣接されている洗面所に行くと、石鹸で念入りに手を洗った。
しばらくして洗面所から戻ってきた真津子は、父の座っていた皮ばりの大きな椅子に浅く腰をかけると、じっくりと目の前に置かれたものに注意を向けた。一つは、なんの細工もない、のっぺらとした木の箱で、そしてもう一つは見覚えのある日記帳だった。
「やっぱり、これって勇希が灯台で見つけたっていう日記帳じゃないの」
それは、二年前、今は閉鎖になった流クリニックの外で倒れていた奈波勇希が持っていたものだった。例の事件が起こった、あの灯台の地下に出現した書庫で見つけたものである。それは、もともとは勇希の前世であるナユルの日記帳だった。不思議な日記帳で、いつでも中の記述が読めるとは限らなかった。普段はどこを開いても、真っ白なページが続いているだけである。だが、何か特別な時だけ、まるで日記帳が勇希たちに語りかけるかのように、その内容を読むことができた。それは、時にはナユルの手記であったり、彼女の記憶にある映像であったり…。そして、あの事件のあと、この日記帳はやはり突然、勇希たちの前から姿を消してしまった。勇希がしまっていたはずの場所から、忽然と消えていたのだ。そう。今までは―。
また、何かが動き出している。今はまだ、真津子たちへの直接の被害はない。けれど、真津子の父がなんらかの理由で面倒を見ていた玖澄光はもう何度もルシファーに遭遇、命を狙われている。そんな時に忽然と現れたナユルの日記…。これは自分たちにまた、何かを伝えようとしているに違いない。真津子はそう思った。
そっとその表紙に触れてみる。少し薄暗くなってきた書斎で、その表面だけがきらきらと輝いている。真津子は深く息を吸うと、意を決して適当なページを開いた。
『私は今日、玖澄光を安全な場所へ移すことを決めた』
角張った字が真津子の目に飛び込んでくる。それは見覚えのある文字だった。
「これは…何?父さん…?」
その字は光が持っていた父、眞の手紙の字にそっくりだった。その記述はこう語る。
『ダコスは、どうやら自分の娘を取り戻すためには、この世界まで犠牲にしても構わないと考えている。このままでは、娘の真津子も危ない。テトラスコープに紅劉国の重要な秘密を封印した。これは誰にも知られてはならないことである。もし、この情報が封印から解けるようなことがあれば、玖澄光を利用しても世界の崩壊を止められないかもしれない。だが、今光を失ってしまえばその可能性は確実にゼロになってしまう。それだけは絶対に許してはならない。満が一の時は、真司に例の鍵を真津子に渡すように頼んでおいた。この鍵さえあれば…』
そこで記述はとぎれている。インクが切れたのか、何者かの手で消されたのか、肝心な部分が読めないようになっていた。
「テトラスコープ…」
真津子はそうつぶやいて、ふと日記帳と一緒に出てきた古ぼけた箱を思い出した。その箱を自分のほうに引き寄せようとした時、真津子の手から握り締めていた鍵が日記帳の上に落ちる。その瞬間、日記帳のページが眩しく輝きだした。
「な?」
真津子は思わず目を瞬かせた。突然、眩い光の中、黄金の二枚扉が目の前に現れたのだ。しばらく呆然と立ち尽くしていると、その扉はひとりでにゆっくりと開き始める。扉の奥は、その眩い黄金の扉とは対照的な混沌の闇が広がっていた。しばらく様子を伺っていると、闇の中、一人佇む男の姿が見える。男はゆっくりとこちらに歩いてくると真津子のほうへ手を差し伸べた。その手をとるべきかどうか迷っていると、さきほど書庫の奥から見つけた、あの古ぼけた箱が、やはりひとりでに開いた。中には金の胴体全体に彫刻が施された、万華鏡のようなものが収められている。それは真津子の目の前で、ゆっくり宙へと浮かびあがると、やがて闇に佇む男の手の中に収まった。
一体目の前で何が起こっているのか理解できない真津子の耳に聞きなれた声が聞こえてくる。はっとしてもう一度男の顔をよく見ると、それは真津子の良く知った人間だった。
「父…さん?」
「真津子…」
男はにっこりと微笑んだ。