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第一章:記憶のない青年(1)

玖澄(くずみ)くん、最後の検診ですよ〜」


若い看護士が元気よくそう声をかけながら病室の中へ入っていくと、真っ白な室内の奥にある小さな窓の側に薄青色のパジャマを着た長身の青年が立っているのが見えた。紺碧の長髪が朝の陽の光に照らされて、黒から薄青色へとその色彩を変えていく。無機質な病室が、その青年の周りだけ柔らかな光に包まれており、まるでそこだけ全く別の空間のように見えた。


「玖澄くん?」


看護士は窓の外を伺ったまま、いつまでもこちらに気付く様子のない青年の名を、壊れ物を扱うかのようにそっと呼んだ。


「あ、はい」


青年は振り向くと優しい笑みを浮かべる。看護士はその吸い込まれてしまいそうな藍色の瞳に思わず息を呑んだ。



*****



「は〜い。よろしい」


簡単な検診が終わると、先程の看護士がおおげさにはしゃいだ声を出した。看護士の名は篠山菖蒲(しのやまあやめ)。この病院で働くようになってから、もうすぐ5年のキャリア組みである。


長い間看てきた患者が退院するのは医療に携わる者にとって、このうえもなくうれしいことだ。それは菖蒲にも例外ではない。だが同時に、いつも見ていた顔が見られなくなる寂しさで菖蒲はいつも胸がいっぱいになってしまう。そんな気持ちをごまかすために、担当の患者が退院する時はおおげさにはしゃいでみせるのが、この看護士のくせだった。


目の前にいる若者も、今日退院することになっているのだが、今までの誰よりも会えなくなることに一層の寂しさを感じてしまうのはどうしてだろう。出会いが特別だったからなのか、それとも…。


あれは二年前のあるひどい嵐の晩のことだった。普段穏やかな気候を誇るこの地方にしては珍しく、その日は朝早くから空には暗く深い雲が垂れこみ、ひどい嵐に見舞われていた。そんな時、傘もささず、頭から爪の先まで全身ずぶ濡れになった中年男性が、突然この病院を訪れた。


大声で助けを呼ぶ男の声に何事かと駆け寄ると、背に一人の若者をおぶっているのが見えた。若者は意識がなく、ぐったりとした様子で男の背にもたれかかっていた。ぐっしょり濡れた紺碧の髪が色を失った頬に張付いて、その美しさにはっとさせられたことを菖蒲は今でもはっきりと覚えている。


その日から、青年は一度も意識を取り戻すことなく、ずっとこの病院に寝かされていた。各分野に精通する名医たちの必死の努力にもかかわらず、意識不明に陥った原因すら分からず、ただ時だけが、いたずらにゆっくりと過ぎていった。一年を過ぎた頃には、もう何をしても無駄なんじゃないかという絶望の気持ちが医師たちの間で静かに湧き上がっていた。


その間、菖蒲は青年の傍でじっと辛抱強く看病した。誰かに頼まれたわけではない。ただ、彼の傍にいてやりたかった。もしかしたら、誰も身寄りのないこの青年に幼くして両親に先立たれ、ずっと一人ぼっちだった自分を重ねているのかもしれない。


菖蒲には青年が孤独な身の上だということに気付いていた。なぜなら、青年には誰一人として見舞いに来る者はいなかったからだ。そう、誰一人、青年を必至の形相でここへ運んだあの中年の男さえ、あの日を最後に一度も病院に顔を見せることはなかった。


この人はどんな声をしているんだろう?どんな瞳をしているんだろう?そして、どんな風に笑うんだろう?


そんなことを考えながら、来る日も来る日も菖蒲は自分の時間が許す限りこの不思議な青年のもとを訪れた。


菖蒲は父がつけてくれたという、自分の名前が大好きだった。そこには「信じるものの幸福」という意味が込められていた。両親を失った時、菖蒲はまだ幼すぎて、ただ泣きじゃくるだけで何もできなかった。けれど今なら違う。自分が本当に心の底から信じていれば、奇跡さえ起こせるかもしれない。菖蒲はそんなことを考えながらじっと青年を見守っていた。


菖蒲以外の誰もがもうダメだろうと思いはじめていた頃、青年は突然目を覚ました。それは今から一週間ほど前のことだった。皆、まるで幽霊でもみたかというほど驚いた。じっと奇跡を信じて待っていた菖蒲でさえも。


それから一週間、医者たちは青年にいろいろな検査を行ったが、どこも悪いところや変わった様子は見つからず、今日晴れて退院という予定になっていた。


「ありがとう、ございました」


上着のボタンをぎこちない手つきではめながら、青年はそっと、消え入るような声で礼を言った。長い間太陽の光から遮断されていた青年の顔は、青白く、はかなげにさえ見える。


「う〜ん?どうした?元気ないぞ、玖澄くん。今日は晴れて退院だっていうのに!」


若い看護士はまるで弟をしかりつけるように明るく答える。


「そう、ですね。でも僕、これからどうしていいのか…」


青年はふっと寂しそうな微笑を浮かべ、自信なさげに答えた。その言葉に看護士はハッとなる。


記憶喪失―そんな言葉が看護士の脳裏に浮かんでいた。


この一週間の検査で、青年は体こそ元気であるが、どうやら記憶を一切なくしているらしいということがわかっていた。彼女は青年が目覚めてからというもの、毎日何度となく時間を見つけては話かけて、何か断片でも思いださないかと試みてみたのだが、青年は自分の名前すら覚えていない有様であった。


それでもこの看護士が、この青年の名前を知っていたのは、彼を病院に運んできたあの中年男が、彼の名前を告げていったからだった。病院に運ばれてきた時、青年は所持品らしいものを何も持っていなかった。病院側でもいろいろ調べてはみたのだが、彼に関する情報は何一つ得られずにいた。


看護士はそっとベッドの端に座ると青年の顔を凝視して言う。


「前にも言ったけど、あなたの名前は、玖澄光(くずみひかる)。それ以外は私にはわからないけれど、大丈夫。きっといつか思い出す時が来るから」


光と呼ばれた青年は困惑した顔で看護士を見る。その顔にはまだ不安な影が宿って、綺麗な藍色の瞳にも陰りが見えた。


「僕の名は・・・玖澄・・・光・・・」


噛みしめるように、自分の名前を呼ぶ。


「ええ、とにかく、あなたがここにいた間の費用を払ってくださっていた、流眞(ながれまこと)さんに会ってみればいいわ」


看護士は続ける。


「流・・・眞?」


光はまたも繰り返す。


「そう、流インターナショナルっていう大企業の社長さんよ。あの方が、あなたがここにいる間の費用を一切、払ってくださっていたの。そこまでするからには、きっと何かあなたのことを知っているはずでしょ。きっと彼に会えば、何かわかる。まずは、そこから始めなさい」


その言葉を聞いて少しは元気が出たようで、青年は少し微笑んで見せた。


「ありがとう。看護士さん」


「菖蒲よ。篠山菖蒲。ああ、それから、病院長のお知り合いの加瀬(かせ)さんっていう人がお部屋を貸してくださるそうだから、しばらくそこに厄介になるといいわ。これがその人の住所」


菖蒲はそう言うとスカートのポケットから一枚の紙を取り出して、光に渡した。


「どうも」


光はぼそりと礼を言う。


「それから、私の携帯の番号も書いておいたから、落ち着いたら連絡してちょうだい」


菖蒲はそう言いながら自分の顔を光の顔のすぐ側まで寄せるとじっと光の綺麗な藍色の瞳を覗き込んだ。菖蒲の瞳が意味ありげに妖しく光る。


「あ、あの・・・?」


菖蒲のシャンプーの匂いが光の鼻先をくすぐる。驚いて顔を真っ赤にさせながら、光は思わず後ろへ退いた。


「照れちゃってかわいい〜」


ぱっと表情を変えると菖蒲はケラケラと悪戯っぽく笑ってベッドから離れる。


「じゃ、そこに着替えとか置いてあるから。用意が出来たら必ず受付に寄ってね。私に内緒で出てったら承知しないわよ。じゃあ、あとでね〜」


まだどぎまぎして顔を紅くしている光を尻目に、言いたいことだけさっさと言うと菖蒲は病室を後にした。



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