第七章:扉の向こう側(2)
「ここは一体?」
菖蒲がいつものように仕事を終えて帰ろうとロビーに向かっていると、ふと誰かに呼ばれた気がした。声のするほうに足を向けてみると、普段通行止めになっている地下への階段が目に入った。近づいてみると、小さな男の子が階段の中ほどで手招きしているのが見える。歳は5-6才ぐらいだろうか、やわらかな白い着物を着た男の子は長い銀髪を後ろで三つ編みに束ねている。尖った両耳の先端がまるで動物のそれのようにピンと上を向いて立っていた。
誘われるままに降りていくと、他の階と変わらない真っ白な廊下にはいくつものドアが両手に連なっていた。男の子を捜してキョロキョロ辺りを見回していると、そのうちの一つのドアが少し開いているのが見える。きっとこの部屋に隠れたんだろう。そう考え部屋を覗いたときに出たのがさっきの台詞というわけだった。
菖蒲は辺りを見回した。部屋の白色灯は消えたままだったが、あちこちに置かれた大仰な機器から発せられる機械光のお陰で部屋の様子はうっすらとだが見ることができる。部屋の中はいかにも妖しげな研究が行なわれていますと言わんばかりの有様で、部屋の中央にしつらえられた水道つきのテーブルには、ビーカーやフラスコなどいろいろな実験の道具や薬品の入った瓶がところ狭しと置かれていた。
「まるで『ジキルとハイド』に出てくる実験室ね」
地下室の独特な湿気の匂いに様々な薬品の匂いが入り混じって、菖蒲は頭の芯がくらくらするのを感じた。一体誰が何のためにこの部屋を使っているのか?不思議に思いながら部屋の奥へと歩を進めていくと、視線の先にある物を捕らえて立ち尽くした。
その瞳は大きく見開かれ、驚きに口をぽかんと空けた格好のまま、しばらく息を吸うことすら忘れて目の前の情景に魅入っていた。菖蒲の視線の先にあるもの、それは約十数もの巨大な試験管だった。中はどれも緑色の液体で満たされており、薄暗がりのなか、まるで蛍光塗料か何かのようにぼんやりと淡い光を放っている。どれも全く同じもののように見えたが、ただ違っていたのは、その液体の中に収められていた中身だった。どうやら試験管に見えたものは大型のタンクのようで、その一つ一つには奇妙な形の肉の塊が浮かんでいた。
『中には緑色の液体が入っていて、なんだか肉の塊みたいな妙な形をしたものが浮かんでいるんだ』
以前、光が言っていた夢の話を思い出す。ここの状況はまるでその通りではないか。もしかして、光はこの部屋に来たことがあるのか?それでそんな奇妙な夢を見たのだろうか?
あの時、光は水槽の中のものを見ようとしたが目に見えない壁に阻まれて、浮いているものがなんなのか確認できなかったと言っていた。だが、今の菖蒲は違う。光が見られなかったものとは一体何なのか―。菖蒲は、恐る恐るそのうちの一つに近づいてみた。よく見ると、肉の塊のように見えたものは酷く捻じ曲がったヒトの体の一部のようだった。
「これって、奇形児をフォルマリン漬けにしたものなのかしら?」
口に出して言ってみたものの、どうにも納得いかなかった。奇形児のものにしては大きすぎたのだ。菖蒲は不信に思いながら、その他のフォルマリン漬けの中身に目を走らせる。その中に人間の顔形らしく見えるものを見つけると、その傍まで寄っていった。
「な!」
その顔を見たとたん、菖蒲は驚いて思わず後ずさった。と同時に背後に置かれていた小さな台にぶつかって、上に載っていたビーカーが倒れ、床の上で粉々に砕け散った。その破片が菖蒲の左足首あたりに跳ねて、真っ赤な血が病院規定の白いソックスを染めていたが、菖蒲はおかまいなしだった。菖蒲の瞳は、ただ目の前にいるそのものたちを捕らえていた。
それは確かに人間の断片に違いなかった。どれもひどい奇形で完全なヒトの形をしたものはほとんど見当たらない。だが、それでもいくつかはヒトの顔らしい断片をもっており、中にはまつげや髪の毛まできちんと生えそろっているものもいた。どうやら、ここにあるのは皆、人間の男の体の一部で、どれもどこかしこに似た特徴を持っているようだった。その紺碧の髪が、緑色の液体の中で海草のようにしなやかに揺れている。綺麗な長い睫が端整な顔に妖しいまでに美しい影を落としていた。生気のない、大きく見開かれた藍色の瞳が菖蒲の驚いた顔をじっと凝視している。
『なかには人の姿をしたものもあって…。周りを見ているうちに、その水槽の中に入っているのが僕自身だって』
光の言葉が頭をよぎった。
「そんな、これって、まさか、クローンなの?」
菖蒲がふとつぶやいた時、外から誰かがやってくる音がした。その音を聞いた菖蒲ははっと我に帰ると、急いで物陰に隠れた。しばらく息を殺してじっと様子を伺っていると、白衣を着た誰かが部屋に入ってくるのが見えた。どうやら中肉中背の男のようだが、このうす暗がりでは男の顔を確かめることはできない。男は、菖蒲が隠れているところとちょうど反対側へと消えていった。
あの男が誰なのか、いったいこんなところで何をしているのか興味がないわけではなかったが、こんなところに隠れていることがばれたら病院をクビになるかもしれない。いや、クビになるくらいならまだましだ。こんな得体のしれない実験室に入ってくるような人間がまともなはずはない。へたをすれば、命が危ないかもしれない。菖蒲はそう判断すると、そっと物音をたてないように気をつけながら部屋を出ると、できるだけ早足で上の病棟へと戻っていった。
暗がりから出てきた中肉中背の男は数十もの巨大タンクが並んでいる前で立ち止まると、まるで美しい彫像でも見るかのようなうっとりした目付きで中の奇形体に魅入っていた。
「もうすぐだ。歯車がとうとう動き出した。もうすぐ、私の世界が―」
興奮した声でぶつぶつ呟きながらゆっくりと体を動かすと足元で何かが割れる音がした。ゆっくりと、虚ろな目で見下ろすと、見事なまでに砕け散ったビーカーの破片が足元に散らばっているのが見える。男は特に表情を変えることもなく、ただぼんやりと辺りを見回した。その時、男から少し離れた床の上で、タンクから発せられる緑色の光に何かがきらめくのが見える。男はゆっくりと歩いていくと、中腰になってその小さな物体を拾って目の前に掲げた。それは古い髪留めに使われるピンだった。銅製のピンにはクローバーの飾りがほどこされており、その葉の上で二匹の蛇が絡まりあっている。
「ほう?」
無表情だった男の顔には、いやらしい、にやけた笑いが浮かんでいた。
「どうやらネズミ退治が必要らしい」
男はそのピンを白衣のポケットに滑り込ませると、愉快そうに笑いながら、その部屋を後にした。
こんにちは、みやびです。いつも読んでいただいてありがとうございます。みやびのおっちょこちょいのせいで、未完のものを完結と間違って設定していました(汗)。読者の皆様には混乱させてしまってすみませんでした。これからもまだまだ続きますので、これに懲りず、よろしくお願いいたします。