第六章:出会い(2)
「カミン…」
勇希は呟いた。目の前に現れたその人は優しく勇希を見つめ返している。自分が目にしているものが信じられず、勇希は言葉を失った。潮の音が二人の空間を埋めるかのように、静かにゆっくりと流れていく。
最初に口を開いたのはカミンだった。
「ここってきれいな所だね」
勇希は何も言わずにカミンの隣に立つと、目の前に広がる黄金の絨毯を眺めた。あれはやはり夢ではなかった。カミンはずっとここで自分のことを待っていてくれたのだ。そう思うと、急に胸がいっぱいになって何も答えられなかった。
「君も、ここにはよく来るの?」
カミンは黄金の絨毯に目を戻すと言った。
「以前は、よく来ていたわ」
少し落ち着きを取り戻した勇希は、静かに答えた。
「そうなんだ?僕はつい最近、ここのことを知ったんだ。それから時々。考え事をするには、すごくいい場所だから…」
淡々と話すカミンは昔となんら変わっていなかった。二人はそれからしばらく無言のまま、陽が沈むのを眺めていた。
「そういえば、自己紹介がまだだったね」
勇希のほうを振り向くとカミンは唐突にそう言った。
「え?」
「僕は玖澄光。君は?」
何を言われたのかと驚く勇希を他所にカミンは、いや、カミンだと思っていた男はそう名乗った。
「く…ずみ…くん?」
勇希は驚いた。目の前にいたのは敬介が言っていた、カミンにそっくりだという玖澄光だったのだ。光は他人の空似とは思えないほど、カミンによく似ていた。勇希や敬介が見間違えるのも当然である。
「私は…勇希。奈波、勇希です」
勇希はかすれた声で答えた。あまりのショックで口の中がからからに渇いている。
「え、じゃあ君が…」
光は何か思い出したようで勇希に向き直る。
「確か、電話をくれた人だよね?友達か誰かを探してるとか?」
「えっ、ええ」
「そうか。あの時はごめん。なんだか急に気を失ったみたいでさ、気が付いたら病院だったんだ」
「知ってるわ。病院まで行ったから」
「え?そうなの?まさか、僕のために?」
「ええ、でも…」
勇希は光の病室の前であった女性の言葉を思い出す。あの時、二度と近づかないように言われたことがショックで、ただ黙って帰ってきてしまったことを、ずっと後悔していた。そんなこととは知らない光は、なおも親しげに話しかけてきた。
「そうか・・・。わざわざ、来てくれたんだ。ありがとう。でも顔を出してくれればよかったのに」
「え、でも、あの人が…」
「え?」
「付き添いの人に、ちょうどあなたが眠ったところだって言われて…」
聞き返されて、勇希は言葉を濁した。あの女性に病院で言われたことは、どうしても光に言ってはならない気がしたからだ。
「付き添いの人?ああ、もしかして篠山さん?」
しばらく顎に人差し指を立てて考えていた光は、突然理解したというように大声をあげた。
「そう、言うんですか?あの人?」
「うん、篠山菖蒲。僕が以前入院していた時に世話してくれた看護婦さんなんだ。いい人なんだけど、すごく心配性だから…」
「入院?」
「あ、うん。そうなんだ」
「どこか悪いんですか?」
「いや、僕もなんだかよくわからないんだけど、二年ほどずっと意識不明だったらしい。なんとか退院はしたんだけど、記憶が全くなくてね。いろいろ試してはいるんだけど、何にも思い出せないんだ」
「記憶、喪失…」
その四文字が勇希の胸にずっしりと響く。まるで希望と絶望の両方を一度に得た感覚だった。記憶がないということは、光がカミンと何の関わりもないという保証もない。けれど、それは逆に、光が記憶を取り戻さない以上、光自身が誰なのか知る余地もない、ということだ。
そう思い始めたとき、ふとあの看護婦の顔が脳裏に浮かんだ。彼女は光の彼女だと言っていた。それなら光本人は知らなくても、彼女に聞けばわかることではないか。
「菖蒲さんは…彼女は何か知らないんですか?」
「え?」
「恋人なんでしょう?」
「え?誰が?」
「その、彼女があなたの…。違うの?」
「へっ?あっ、ははは・・・」
突然大声で笑い出す光に勇希は困惑した。よほど可笑しかったのか、笑いすぎて光の目にはうっすらと涙さえ浮かんでいた。
「あっ…あのう…?」
「違う、違う。なんでそうなるのかなあ」
光は目尻に溜まった涙を手の甲で拭いながらそう言った。
「だってずっと付き添っていたって…」
「ああ。うん。いい人だよ。僕が退院してからも、いろいろと世話を焼いてくれて。けど恋人なんかじゃ…」
光の言葉は突然閃いた何かの光に遮られた。勇希がはっと顔をあげると、光の体からほんの少し離れた場所で、その光はまるで何か見えない壁にでも跳ね返されたかのように、四方に分散して消えていく。
「なんだ?」
光も驚いた様子で辺りを見回すと、海面から数メートルのところになにか浮かんでいるのが見えた。あれだけ眩しかった夕陽はもうだいぶ海の向こうに消えかけている。薄暗い空中に浮かんだそれは、まるで自らが光の球かなにかのように、ぼんやりとした光を放っていた。
じっと様子を伺っていると、しばらくして、細長いシルエットが暗い海面に浮かび上がった。つやのない長い髪が細い背中で力なく揺れている。その暗い瞳と目があった瞬間、勇希は恐怖で体の芯が凍り付いていくような感覚にとらわれた。