第六章:出会い(1)
海に面して聳え立つ、古い灯台。
静かな波の音と潮のにおいのするこの場所が、勇希は昔大好きだった。いつも何か考え事がしたくなると、勇希は決まってこの灯台に来ては、ただじっと、陽が暮れていくのを眺めていた。
陽が堕ち始める夕方には、真っ青だった海面が、眩いばかりの金色の絨毯に変わっていく。その光景が、勇希はまた好きだった。いつまでも、いつまでも陽が落ちず、この光が永遠に続けばいい、勇希はそう願っていた。
けれど、昇らない日がないように、沈まない陽もない。それが自然の理だった。そして勇希の灯台にも、闇は例外なく訪れた。勇希がここを最後に訪れてから、もう二年。灯台は勇希の気持ちを知ることもなく、ただ、静かにこの場所に佇んでいた。
ふと見上げると、灯台のてっぺんの、ちょうど見晴台のところに人影が見えた。紺碧の髪が潮風に揺れている。その人は、誰かが来るのをじっと待っているかのようだった。勇希のいる場所からはそれが誰なのかわからなかったが、彼女の直感は、その人影の正体を見抜いていた。そして、その人が誰を待っているのかも。
勇希はそっと近づいていった。本当は全速力で走っていきたかった。大きな声でその人の名前を呼びたかった。けれど、何かがその衝動を抑えていた。それは怯えだった。また大切なものを失いたくないという怯えが、勇希を必要以上に慎重にさせていた。しばらくして、勇希の気配に気づいた人影が、ゆっくりとこちらを振り向いた。藍色の瞳がやさしく微笑んでいた――。
「ん…」
気がつくと、そこはいつもの自分の部屋だった。ここしばらく、眠れない夜が続いていたので、つい転寝をしていたらしい。そのついでに夢も見ていたらしかった。今はもう使われていない古い灯台。二年前のあの事件以来、勇希があの灯台に通うことはなくなった。大好きだったあの場所は、大好きだった人を失った忌まわしい場所に変わってしまったのだから。
そしてあの日以来、勇希がカミンの夢を見ることもなかった。そう、今までは・・・。
ところが今になって、突然あの灯台と、そこで自分を待つカミンの夢を見た。カミンにそっくりな人を街で見かけたこと。そしてカミンにそっくりの声を持つ玖澄光。敬介が助けたというその男は、カミンと同じ蒼いオーラを体から発していたという。それはただの偶然なのか、それとも…。
ただの偶然。そんな言葉ですませられるはずがなかった。病院で篠山菖蒲という女性に牽制を受けてから、光のことは忘れてしまおうと何度も自分に言い聞かせてきた。けれど、忘れようとすればするほど、勇希の心の中は見ず知らずの光のことで一杯になっていく。そんな時に見たのがカミンの夢だった。妙な胸騒ぎがした。指先がじりじりと焼かれるように痛い。このまま何もしないでいると気が狂ってしまいそうだ。そんな気がした勇希は、意を決すると脇目も振らず、飛び出した。
久しぶりに見る灯台は、夢の中のそれのように、昔のまま変わらずそこに立っていた。夕暮れの海は暖かく穏やかで、久しぶりに嗅ぐ潮の匂いが心地よい。うす暗い灯台の中に、見晴台へと向かう階段がぼんやりと見えた。近づくと、埃と錆た鉄の匂いがした。以前に勇希が閉じ込められた書庫に通じる階段は、やはりどこにも見当たらなかった。
しばらく辺りの様子を伺っていると、上のほうで、何かの影が動いたような気がした。勇希の心臓が大きく高鳴る。見晴台へ通じる階段を、一段一段注意深くのぼっていくと、一人の男が手すりにもたれかかって目の前に広がる海を、ただじっと眺めているのが見えた。その人は、夢の中の人影と同じように、突然ふっとこちらを振り向いた。勇希の心臓がまたどくん、と大きな音をたてる。目の前に立っていたのは、紛れもないカミンその人だった。
***
「もしもし、真津子か?俺だ。久しぶり」
満は例の小瓶を握りしめたまま電話に向かっていた。ここ数日、光が処方された薬の成分をずっと調べてきたのだが、まだはっきりしたことは何もわからないでいた。個人の調査で限界を感じた満は、やむを得ず真津子の力を借りることにしたのだ。手短に事の次第を伝えると、真津子は意外にもあっさりと満の依頼を引き受けた。
真津子が社長を務める流インターナショナルはいろんな分野に傘下を持っている。医療や医薬品の研究もそのうちの一つだった。一週間もあれば調査結果が来るだろうと言った真津子の声は、こころなしか沈んでいた。
「そう言えば、あれからどうだ?」
会話が途切れそうになった頃、満は唐突に切り出した。
「え?」
「この間電話で言っていた―リオンだったか」
「ああ、うん」
真津子はうかない声で答えた。
「その様子だと、まだ、見るのか?」
「ええ。時々ね…」
光が始めてバイトに出かけた日にかかってきた電話は真津子からだった。いつも冷静な真津子がめずらしく取り乱していたことがずっと気になっていたのだが、光のことや診療所のことがあって、今日まで、そのままになっていた。
「玖澄光が尋ねてきてからだと言っていたな?何か光と関係があるのか?」
「そんなことは…ない、と思う。リオンに光君との接点なんて…」
「そうか…あまり、気にしないほうがいい。きっと疲れているんだ。親父さんが亡くなってからずっと一人でがんばってきたからな」
「そうかな」
「俺が助けになってやれればよかったんだが…すまん」
満は電話口で頭を下げた。
「そんな、満が気にすることじゃないわ。でも、ありがとう。心配してくれて…それじゃ、私、仕事があるから」
そんな満に気を遣ってか、真津子は少しだけ元気よくそう言った。
「ああ。それと、さっきのこと…」
「わかってる。後で受付の秘書に渡しておいてちょうだい。結果が出たらすぐに連絡するわ」