第五章:記憶の欠片(3)
消毒液の匂いが漂う真っ白な病室で菖蒲は一人、身じろぎもせずただじっと座っていた。目の前のベッドでは、光が穏やかな寝息をたてて眠っている。突然倒れた光を救急車で病院まで運んでからもう既に三時間。光はまだ目を覚まさない。
医者は急激な血圧の低下と異常に高い心拍数が見られることから、何か強いストレスを受けたことが原因ではないかと診断した。しばらくすれば気が付くだろうと言っていたが、目の前に横たわる血の気の失せた青白い顔を見ていると、またこのままいつまでも目覚めないのではないかという恐怖が菖蒲の心を支配して離さなかった。
ふとベッドの傍のサイドテーブルに目をやると、小さな小瓶が見えた。少し前に医者が届けに来たものだ。中にはこれから一生常備薬として光が摂取しなければならない魔法の液体が入っている。一見みると透明な液体は、光の加減で七色に変化した。医者の話だと最新技術で作られたものらしいのだが、こんな薬を見るのは初めてのことだった。
菖蒲がその小瓶を手に取ってよく見ようとしたその時、光が低く唸るのが聞こえた。
「光君?気がついた?」
菖蒲は急いで光の顔を覗き込む。綺麗な藍色の瞳が菖蒲のそれを見つめ返した。
「あれ、篠山さん…。僕、なんで…?」
ふいに起き上がろうとした光は眩暈を覚えてそのままぱたりとベッドへ倒れる。
「急に起きちゃだめよ。喫茶店で倒れたんだから」
そう言いながら、菖蒲は光を元の場所に寝かせた。
「そう…なのか。じゃあ、あれは夢だったんだ…」
光はほっとしたように呟いた。
「夢?」
「ああ。なんだか暗い、実験室のような場所で、周りに大きなタンク…とでも言うのかな、水槽みたいなのがいくつもあった。その中には緑色の液体が入っていて、なんだか肉の塊みたいな妙な形をしたものが浮かんでいるんだ。なかには人の姿をしたものもあって…。それがなんなのか確かめようとするんだけど、何か、見えない壁みたいなものに阻まれて体が全く動かないんだ。一体何がどうなったのか辺りを探っているうちに、その水槽の中にいるのは僕自身だってことに気が付いて…」
夢の中の恐怖を思い出したのか、光はぶるっと身震いをした。
「なあに、それ?TVでホラー映画かなんか見たんじゃないの?」
菖蒲は元気づけるように明るい声で答えた。
「え?ああ…そうか。そう、そうかもしれない」
菖蒲の答えに納得したのか、光はまだ青白い顔にやわらかな笑みを浮かべてそういった。その顔には少し赤味が戻ってきたようにも見えて、菖蒲はほっと胸を撫で下ろす。もうしばらくゆっくり休ませたほうがいいと思った菖蒲は、少しの間光を一人にすることにした。
菖蒲が病室から出ると、不安そうな顔をした男女がこちらに足早に近づいてくるのが見えた。女は菖蒲より少し背が高く、セピア色の大きな瞳が印象的な、おとなしそうな感じの少女だった。その隣にいる男のほうは派手なオレンジ色の髪が真っ白な病院の中で馬鹿馬鹿しいほどに目立っている。菖蒲が胡散臭そうに二人を見ていると、男のほうから声をかけてきた。
「あの、すみません、406号室は…」
二人が向かっていたのはどうやら今光が眠っている部屋のようだった。
「ここですけど、何か?」
「受付で、玖澄光さんの部屋だと聞いたんですけど…」
今度は女のほうが答えた。どうやら光の知り合いのようだ。最近知り合ったのだろうか?それとも…。菖蒲は妙な不安を感じていた。
「そうですが、ちょうど今、眠ったところですので、面会は…」
「あ、そうなんですか。あの、喫茶店のオーナーから急に倒れたと…。もう、大丈夫なんでしょうか?」
「ええ。長い間意識不明でどうなることかと心配しましたが、なんとか…」
菖蒲の返答に二人は顔を見合わせる。緊張の糸がほどけたのか、女のセピア色の瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。
「あの、失礼ですが、玖澄君とはどういう…?」
菖蒲の問いに女は簡単にいきさつを説明した。名前は奈波勇希と立花敬介。二人には行方不明の友人がおり、その友人に光がそっくりだという。光がその友人なのではないかと思った二人はそれを確かめに光に電話をかけたのだが、話の最中に光が倒れてしまったらしい。途中で切れた電話に不安を感じた二人は喫茶店で、オーナーから光が倒れたこと、そしてこの病院に搬送されたことを聞き、ここまでやってきたという。
勇希の様子から、その友人というのは彼女にとってただの友達ではない、もっと特別な関係にあるということに菖蒲は気が付いていた。
まさか、その行方不明の友人というのが本当に光なのではないか。そう思った時、あれほど光が記憶を取り戻すことを願っていた気持ちは跡形もなく消え、この二人が自分の知らない光を知っているのかもしれないという強い嫉妬だけが芽生えはじめていた。
「あなたたちは人違いをしているんだわ。光君は…彼からあなたたちのことを聞いたことはありません」
この二人に会ったら光は自分の知らない、どこか遠いところへ行ってしまうのではないか?そんな不安にかられた菖蒲は咄嗟にそんなことを言っていた。
「聞いたことないって…あんた、あいつの親かなんかのつもりか?あいつに聞いてみないとそんなことわからないじゃないか」
菖蒲の淡々とした態度に、敬介はけんか腰になる。その態度に菖蒲も益々ムキになって答えた。
「親じゃないけど…私、恋人ですから」
こうなるともう売り言葉に買い言葉である。恋人という言葉に、二人はさも驚いたようにまじまじと菖蒲の顔を見つめている。このまま見られていると自分の嘘が見透かされてしまいそうで菖蒲は怖くなってあわてて目を逸らした。
「と、とにかく、彼には二度と近づかないで。やっと元気になってきたところだっていうのに、変なことを吹き込まれちゃたまらないわ。いいわね」
念を押した菖蒲はさっさとその場を離れた。背中に注がれた二人の視線が痛かった。