第五章:記憶の欠片(2)
「少々お待ちください」
電話の相手はそう言うと、静かなオルゴールの音色が受話器から流れる。数日前、勇希は敬介から街でカミンにそっくりの男を助けたことを聞かされた。それは、勇希が街でカミンそっくりの人間を見かけたのと同じ日で、ちょうど勇希とつくもが何か異変を感じたのとほぼ同時刻だった。
あの日、ルシファーが立ち去った後、しばらくしてカミンにそっくりな男は意識を取り戻した。男は敬介にまったく見覚えがないようで、手を貸そうと言う敬介に、助けてくれた礼を他人行儀に述べると心配ないからと言って去っていった。敬介が兄のヨウジから、新しいバイト生のことを聞かされたのはそれから数日後のことだった。兄の話からそのバイト生があの時出会った光だと気がついた敬介は、勇希に確かめさせることにした。自分より勇希のほうが適任だろうと考えたからだ。
話を聞いた勇希は今、光が働いていると聞く喫茶店へ電話をかけている。最初に電話に出たのは中年の男の声だった。男はどうやらこの店の店長のようで、確かに玖澄光という男が数ヶ月前からそこで働いていると言う。今ちょうど勤務中ということで、呼び出してもらうことになったのだ。
胸が緊張でどきどきする。何も考えずに電話をかけてしまったが、実は何を話せばいいのか、何を言いたいのか、自分でもはっきりわかってはいなかった。
どうしよう…。一度、電話を切ってきちんと言いたいことを考えてから、またかけ直したほうがいいんじゃないか、そう思い始めた頃、ふいにオルゴールの音がやんだ。
「もしもし、お待たせしました。玖澄です」
受話器から穏やかな、なつかしい声が聞こえてはっとする。その声は勇希のよく知っている声だった。
勇希の思考が一時停止する。代わりに心臓の鼓動が激しくなった。カミンにそっくりだとは聞いていたが、声までそっくりだとは思ってもみなかった。本当に別人なのだろうか?勇希の脳裏に懐かしいカミンの姿が浮かんでくる。
「あの、もしもし?」
電話の相手はもう一度繰り返す。このまま黙っていたのではいたずらだと思ってきられてしまうかもしれない。勇希は意を決すると、おずおずと話し出した。
「あの、光君、ですか?」
「はい、そうですが」
「あの、私、奈波勇希といいます。友人が…立花敬介というんですが、以前あなたを街で助けたと…」
「えっ?僕を…?ああ、もしかしてオレンジ色の髪の人ですか?」
「あっ、はい。はい、そうです」
「ああ、やっぱり…あの、あの時は僕、気が動転してしまって…。たいしたお礼も言わずに立ち去ったこと、ずっと気になっていたんです。けど、名前すら聞いていなくって…」
電話の向こうの光は終始丁寧な口調で返答している。その口調が無言でカミンとは別人であることを主張しているようで、勇希は胸の奥がズキンと小さくうずくのを感じた。
「あ、いえ、そんな、気にしないでください。敬介は、そんなこと気にするような子じゃないですから。それより、あの、実はですね、今日お電話差し上げたのは敬介が、その、あなたが私たちの知人によく似ていると…」
自然と勇希の口調も職場で使うような堅いものになっていた。
「え?そうなんですか?」
「はい。それで、あの、あなたさえご迷惑でなければ一度会っていただけないかと…」
「え…僕にですか?」
「お願いします。とっても大切なことなんです」
勇希は電話の前で頭をさげた。
しばらくの沈黙が二人の間に流れる。受話器の向こうで光のためらう様子が無言のうちに伝わってきた。突然、見ず知らずの他人に電話でこんなことを言われても、戸惑うのは当然のことだろう。
やはりムリな相談なのだろうか。いきなり光の職場に訪ねていったほうがよかったのではないのか?喫茶店ならば、ただの客を装って様子を見ることもできる。敬介もそれを進めていたし、勇希にしてもその線を考えなかったわけではない。ただ、そうする勇気が勇希にはなかった。もし光が敬介の言うとおり、カミンにそっくりだとしたら、勇希は自分の感情を抑える自信がなかった。仮に抑えられたとして、拒絶されたら?お前など知らないと面と向かって言われて、自分は平静でいられるだろうか?そう考えると怖くてたまらなかった。
「やはり、ムリな相談ですよ…ね?」
しばらくの沈黙に半ばあきらめかけたその時、光の柔らかな声が聞こえてきた。
「いえ、そういうわけでは…。けど、その知人の方って誰なんですか?」
「私の…私たちの大切な人なんです。名前はカミン…」
カミンの名を口にした瞬間、勇希は何か周りの空気が真っ白になったような、奇妙な感覚にとらわれた。しばしの沈黙が流れる。しばらくして、我に帰った勇希は言いかけていた言葉を続けようとして、向こうからの反応が何もないことに気が付いた。かわりに突然、どさりと何かが倒れる鈍い音と共に悲鳴のような声が聞こえてきた。
「もしもし、どうかしたんですか?もしもし?」
なにが起こったのかと、懸命に呼びかけてみるが、光からの反応は何もなかった。何かただならぬことがあったらしく、たくさんの人の金切り声や叫び声が聞こえていたが、しばらくすると電話は切れてしまった。プープーという虚しい音だけが受話器から流れてくる。いてもたってもいられなくなった勇希は、かばんを掴むと玄関へと急いだ。
やっと勇希との接点まできました。1ページがあまり長くならないように分けて掲載していますが、読みづらいなどありましたら教えてください。