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第五章:記憶の欠片(1)

眩しい陽射しの中、菖蒲は一人、駅前の店通りを歩いていた。


夜勤明けの日は家に帰る前にお洒落な喫茶店でゆっくりモーニングを食べるのが菖蒲のささやかな楽しみだった。いつもなら病院近くの茶店に寄るのだが、最近はある理由があって、電車に乗って二つ目の駅からすぐ傍にある、古びた小さな店に通っている。大型書店を通り過ぎ、小さな小物がたくさん並んでいる雑貨屋の隣に菖蒲の目当ての店はあった。今時珍しい木製のドアには、素人が作ったとしか思えない不恰好な木彫りの『Welcome』のサインが細い皮紐でつり下げられている。その表面は長年の埃と排気ガスによって真黒く変色していた。ドアを手前に引くと、上部に取り付けられた小さなベルの軽やかな音色が店内に響き渡った。


「いらっしゃいませー!」


聞き覚えのある、さわやかな声が菖蒲を出迎えた。水曜日のまだ早い時間帯にもかかわらず、狭い店内はやけにお洒落をした女性客で混んでいる。しばらくすると、店の奥から背の高い、紺碧の髪のウェイターが出てきて菖蒲を笑顔で迎えた。


「また来たよ」


菖蒲は小さく手を振りながら声をかける。


「いらっしゃい。今帰り?」


光は優しく微笑みながら答える。病院を退院してしばらくたった後、光がこの喫茶店でバイトすることになったことを聞いてから、菖蒲は時間が許す限りここへ訪れることにしていた。伸び放題だった光の紺碧の髪は、今は短く切りそろえられている。


「そうなのよ。今日は仕事がちょっと長引いちゃってね。疲れた〜」


「お疲れさまです。婦長さんたちも、みなさんお元気ですか?」


他愛のない話をしながら一番奥の小さなテーブルに通される。菖蒲はふと、店内にいた女性客全ての視線が自分に注がれていることに気が付いた。なんだかその視線がいちいち棘を持っているかのようにちくちく痛い。まるで無数の敵に囲まれているような、針の筵に立たされているような、そんな気分だった。


「篠山さん、どうかしましたか?」


ふと光に呼ばれてはっと我に返る。あまりにも周りの視線が気になって、光の言葉が耳に入っていなかったのだ。


「あ、何でも。それにしても混んでるねえ。こんな時間だってのに」


「そりゃ光のお陰だな」


水を持ってきた茶髪のウェイターが話に割り込んできた。


「え?ってもしかして…」


「玖澄!電話だ」


菖蒲が何か言おうとした時、奥から店長らしき人が出てくると光に不機嫌そうな顔を向けてそう言った。


「はい、今行きます。ヨウジさんすみません、あと、お願いします。」


光は茶髪の同僚に挨拶すると菖蒲に軽く会釈して奥にある電話に向かった。その後ろ姿を見送りながら店長は小声で何やらぶつぶつ言っている。


「また店長、愚痴ってるよ」


ふいにヨウジが菖蒲の耳元に囁きかけてきた。


「え?」


「ほら、光ってあの容姿だろ。あいつがここに来てからやつ目当ての客が増えてさ。商売繁盛でいいってのに、店長ったらあいつばっかモテるもんだから時々愚痴っぽくなってんだよな」


苦笑するヨウジに気づいて店長がギロリと睨む。


「なにか、言ったか?」


「いんや、別に」


しらを切り通そうとするが、店長はまだ怖い顔でこっちを睨んでいる。ヨウジは肩を竦めると、はあ〜と大げさにため息をついた。


「お客が増えたんだからいいじゃないっすか」


「いや、しかし仕事中に私用の電話とは…」


また愚痴を始めた店長が急に青ざめた顔をすると、言いかけていた言葉を飲み込んだ。気が付くと、店内の女性客みんなの冷たい視線が店長を射抜いている。


「と、とにかく仕事だ。お前もさっさと注文取ったらどうだ」


さすがに店にいる女性客全員を敵に回すのは得策ではないと考えた店長は、そう言うと早々に奥へと引っ込んでいった。



****



一人テーブルに残された菖蒲はぐったりとその背を椅子にうずめた。店内には、オーナーの趣味だろうか、軽快なリズムのジャズが流れている。小さな店内に広がる新鮮なコーヒーの匂いが菖蒲の鼻をくすぐった。


外では陽気な初夏の陽射しが眩しい時間だが、一番奥のこのテーブルに外の光は届かない。薄暗い照明とかすかな音楽の音色に菖蒲は思わずうとうとしそうになって、あわてて背を起こした。


隣の席では二人組みの女性客が他愛もないことをしゃべっている。どうやらこの二人も光目当てで通っているようだった。


やっぱ人気あるんだなあ、と心の中でつぶやく。


光が退院して随分経つが、礼儀正しい光はまだ自分のことを篠山さんと呼んでいる。何度普通に話すように頼んでも丁寧な言葉遣いは変わらなかった。確かに自分のほうが年上(記憶喪失の光には自分の年齢や誕生日すらわからないから、定かではないのだが)だし、意識不明の時からずっと面倒を見てきたのだから、光が敬意を払うのは当然のことなのかもしれない。けれど、菖蒲はそのことを少し寂しく感じていた。それにヨウジに言われるまでもなく、光の容姿がたくさんの女性の目を惹きつけているのは事実だ。今は特に誰かとつきあっているわけではなさそうだが、これだけたくさんの取り巻きがいるのでは、そのうち誰かが恋人として立候補しても不思議ではない。その時、光はどうするだろうか。やはり、光にとって自分はただの親切な看護士さん、としか映っていないんだろうか?そう考えると少し哀しくなった。


ふと奥のほうを見ると、光はまださっきの電話に対応しているようだった。


(一体、何の電話なんだろ?表情が見えないや…)


そんなことを考えながら、さっきヨウジが持ってきてくれた水のはいったグラスに目を落とす。時間を持て余してメニューをぱらぱらめくっていると、突然どさりと大きな音がした。同時に女性客の間に黄色い悲鳴があがる。はっとして顔をあげると、今まで電話に出ていた光が倒れているのが目にはいった。


「菖蒲ちゃん、光が!」


ヨウジが叫び終わる前に菖蒲は走りだしていた。

電話の相手は誰だったのでしょう。答えは次のページで!

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