五話:灰色の涙
学徒動員の少年たちに混じって点呼を受けた匡史は、受け持ちの旋盤に油を差し始める。いつもならこの時間、すでに旋盤は金屑を撒き散らしているはずなのだが、小一時間ほど前に発令された空襲警報のために、作業開始が遅れていたのだ。工場の屋根はすでに真夏の陽射しに灼かれ、少し動いただけで、汗がにじみ出る。
「今日も暑うなりそうなねぇ」
線材の入った重そうな箱を抱えた男が、そう匡史に声をかけてきた。まだ幼さを残した顔つきのその男は、川谷。徴兵猶予を受けている師範学校の学生だ。そんな彼らも、まず文系学生が戦地に送られ、残った理系の学生たちも、こうして学徒動員として働かされていた。
「口じゃなしに、手ぇ動かせ。終わらんじゃろうが」
「そがぁなんいうても、ゆうべも空襲警報が出て、寝ちょらんのんじゃけぇ。眠とうてやれんわぁ」
「そがぁなん、誰でも同じじゃろうが。ええけぇ、働け」
相手をするのが面倒になって、匡史は再び機械に向き直る。しかし川谷はまだ話し足りないのか、線材を作業台の上に移しながら続ける。
「そりゃあ、加藤さんはええよ。帰りゃあ嫁さんがおるんじゃけぇ、そりゃ早う帰りたいじゃろ。ほいじゃけど、わしらぁ寮に帰るだけじゃし。どうせいつか、赤紙がくるんじゃし。ああ、わしも足が悪けりゃぁの」
「なにが言いたいんな」
匡史は一度回し始めた機械を止めた。一歩、川谷に歩み寄る。寝不足と暑さは、出口の見えない戦況に対する不安と苛立ちに、油を注いでいた。
「わしもびっこじゃったら、兵隊に取られんとすむし、嫁さんもろうてやり放題じゃもんな」
「わりゃあ、もういっぺん言うてみい!」
「こらあっ。貴様ら、なにをしとるかっ!」
怒声が聞こえ、事務所のほうから軍服を着た男が二人を指差し、早足で近づいてきた。川谷はちっと舌打ちをする。匡史もびんたを覚悟して、そちらに向き直った。そのとき――
開け放した窓の外が、白い光で埋め尽くされた。
――何だ?
その思いは言葉にはならず、ただ驚愕を表情に貼り付けて、皆が一斉に窓を振り向く。その瞬間、耳を聾する爆音とともに、工場が揺れた。窓の周りの壁が内側へと膨れ上がり、屋根がめくれ上がる。皆はそれぞれ頭を抱え、地面に伏せる。天井が崩れ落ち、もうもうと立つほこりが、すべての視界を覆いつくした。
「加藤さんっ! しっかりせえ!」
「くっ。なんが……」
匡史は男に助けられて、瓦礫の下から這い出した。まだ塵埃が舞う中、肩を支えられて外へと向かう。なにが起こったのかわからない。ただ男が導くままに、足を引きずりながら進む。灰色の視界の中、男の顔だけが、赤い。
「か、川谷……」
その声にはこたえず、頭の傷口からだらだらと血を流しながら、川谷は匡史を運ぶ。
匡史は辺りを見回した。ついさっきまで皆が働いていた工場は、見る影もなかった。上を見上げれば天井はすべて落ち、青い空がほこりの向こうに透けて見える。
「も、もう大丈夫じゃ。なにがあった?」
空襲か。しかし警報は鳴らなかった。事故か。燃料庫か弾薬庫が爆発したのか。だが川谷は答えない。しかし突然、足を止める。
「もうええ。歩ける」
匡史は川谷を振り払った。だが、彼はそれにも気づかない様子で、呆然と空を見ていた。
「川谷?」
「加藤さん……あれ」
ガラガラとしゃがれた声で、川谷は空を指差す。なんなぁ、そう口を開きかけた匡史は、その方を見上げて絶句する。みたことのない形の雲が、もくもくと天を目指してせりあがっていた。まだ低い太陽に照らされたそれは白と灰色をぐるぐると入れ替えながら、徐々に大きく、そして、高く上っていく。
「ア、アメリカの――新型爆弾じゃ」
ポツリと聞こえたその声に、匡史は我に返る。そして辺りを見回して、息を呑んだ。何もかもが――
崩壊していた。
「なんじゃこりゃあ」
「加藤さん。あんた、家ぇ帰れ」
うめくような川谷の声が聞こえる。いや、うめいているのは川谷ではない。そこここに転がり、血まみれになったたくさんの人。彼らが上げる声だった。
「川谷、お前は」
「わしは、みんなを助ける」
「なら、わしも――」
「加藤さん、しっかりせぇ。ありゃあ、どっちのほうな!」
川谷は再び雲を指差した。それは、間違いなく広島市街の中心部。匡史の帰るべき家のある方角だった。
「紗枝っ」
周りの音が、徐々にうめき声から、助けを求める声、互いの無事を確かめようとする声に変わる。工場の中からよろめきながら、傷ついた人々が歩み出てくる。
「さっきはすまんかった。昨日、兄ちゃんが帰ってきて、わしもいつか兵隊に取られて、あんなこまぁ箱に詰められるんか思うたら、ろくに女も抱かんまんま死ぬんか思うたら、急に怖あなって。ほいで、あんたの顔を見たら、急に妬ましゅうなって――」
「川谷――」
「ええけぇ、行けぇ。どうせ、あんたみたいなびっこがおっても、足手まといになるだけじゃ」
そういい捨てると、川谷はすぐそこにうずくまっている人影に走りよった。大丈夫か、しっかりせぇ。そう声をかけながら助け起こす。
「すまんっ!」
匡史は彼らに背を向け、曲がらない右足が許す限り走り始めた。
町中に広がる炎が雨を呼んだのか。肩を打つ煤を含んだ黒い雨が、匡史の顔を斑に染めていた。灰色に染まる世界の中、匡史はただ立ち尽くしていた。
「ここは……どこなぁ」
黒く焼け焦げた瓦礫だけが、あたり一面を覆っていた。鉄筋コンクリートのビルディングだけが、雷に撃たれて焼け朽ちた大木のような姿をあちらこちらに晒していた。向こうには、丸い屋根の産業奨励館が、くすぶっている。
「紗枝……紗枝――――っ!」
匡史の叫ぶ声が、無音の世界に吸い込まれる。この場にたどり着くまでに通り過ぎた地獄のような景色は、ここにはなかった。うめき、水を求め、一歩ごとに倒れゆく、幽鬼の群れ。ガラスの細かい破片を半面にくまなく突き立てられながら、それでもひいひいと泣く赤子。それを守るように抱きしめたまま、息絶える母親。服も、その下の皮膚さえも剥ぎ取られ、明らかに息をしていない赤子をさしあげながら、助けを求め続ける母親。道端に座り込み、何一ついつもと変わらない様子で、黒焦げになった赤子に乳を含ませている母親。その誰もが、紗枝ではなかった。
そして、ここにあるのは、匡史の守るべき、小さなしあわせを築いていくはずだったこの場所にあるのは、ただの静寂だった。
雨が落ちる音さえも、聞こえない――
瓦礫の様子から、パン屋があった場所の当たりをつけて、手当たり次第に掘り返す。融けて形の変わった瓦。へしゃげた鍋。そして……
「うおっ」
周辺よりも少し盛り上がって積みあがった瓦礫が、匡史に降りかかってきた。避けきれずに下半身をうずめた匡史がもがき出る。何か、レンガで積み上げたものが、そこに顔を覗かせていた。
「これは――」
あわてて掘り出して、黒くすすけた表面を撫でる。雨に濡れていても、まだほんのりと熱い。くんくんと鼻を鳴らす。瓦礫と肉の焼ける臭いに混じって、かすかに漂う香ばしい香り。それは、元治が何よりも大事にしていた、パン焼き窯だった。無我夢中になって、さらに瓦礫を掘り返す。ガラスやトタンが、顔を、腕を、手のひらを切り裂く。
「大丈夫、大丈夫よな。お前はここにはおらん。とうにどっかに逃げて、無事でおる。ほうよ。こんな――こんなところにおるはずが――」
だが、匡史は急に手を止め、中腰のまま立ち尽くした。一瞬というには長い時間、あるべき景色が彼の目の前に広がる。
朝日が半ばまで差し込むほの明るい店内、首にかけた手ぬぐいで汗を拭いながら、窯の火の様子を見る匡史。少し離れた場所で、腕に抱いた赤ん坊に、ええにおいがしてきたねぇと、笑いながら語りかける紗枝。上がり框に腰をかけて、煙草を喫う元治。しかし、そんな幸せな日々はゆっくりと、ゆっくりと、光に包まれて――
「さえぇぇぇっ」
下半身をまだ瓦礫にうずめたまま、頭を匡史に向けて横たわる炭くれ。
その両腕に小さな塊を抱いて。
「あ……ぁぁ」
匡史はその横にしりもちをつくように座ると、手を伸ばして大きな方の塊を――変わり果てた妻の頭を――そっと撫でた。滑らかな黒髪の手触りの代わりに、ざりっとした感触。構わずに、そのまま体の線に手を這わせる。それの下に腕を差し入れ、座ったまま抱き上げる。ぽろぽろと、表面が剥がれ落ちる。だけどそれはしっかりと、小さな塊を離そうとしない。匡史はそのふたつの塊を――妻と、息子を、抱きしめ、顔をうずめた。
その肩を絶え間なく雨が打つ。空がもう洗い流されたのか、激しくなるにつれ透き通ってきたその雨が、大地をくまなく叩く。それでも消えきらずにくすぶる煙が、廃墟をぼんやりと霞ませる。
「なんでよ」
顔を伏せたまま、くぐもった匡史の声が、低く響く。
「わしゃあ、なんもしとらん。紗枝。わしはお前を守るゆうて誓うた。お前のために戦うゆうて……。それなのに、わしゃあ、なんもできんかった。お前は、お前はちゃんと赤ん坊を守ろうとしとったのに」
柔らかな産毛に覆われているはずの、触れば最高の白パンよりもやわらかいはずの、小さな黒い塊を、汚れた手で包み込む。それを硬く抱きしめたまま、決して離そうとしない紗枝の、細い腕。
「なあ、わしはずっと思うとったんよ。いつか戦争が終わって、またパンを焼けるようになったら、お前と子供に、腹いっぱい食わしたろうゆうて。戦場に行けんわしが戦えるんは、それくらいしかないのにな。それなのに――」
匡史は顔を上げた。心の痛みにゆがめ、天を見上げる。
「なんで、なんでそれくらいのことをやらせてくれんっ!」
そのとき、つかの間雨が上がった。わずかに光が差し込む。だけど。
二人の家族の欠片で黒く汚れた彼の顔を、涙がずっと、洗い続けた。あごから、ポツリ、ポツリと滴り落ちる、灰色の涙。
「カーット」
静かだったスタジオに監督のビルの声が響いた。臨場感を出すために実際に降らされていた雨が止められる。
「これで、広島チームの撮影は、すべて完了しました。お疲れ様です」
ビルの横で、通訳の男が声を張り上げる。スタッフがいっせいに叩く、拍手の嵐。
叶人はぼんやりと周りを見回した。実際に掘り返すために作られた周囲の瓦礫以外は、あとでC.Gと合成するためのブルーバックスクリーンで囲まれている。大またで歩いてきたビルが、笑いながら肩を叩き、まだ座ったままの叶人を引っ張りあげた。道具方が一斉にセットの撤収を始める。まだ若いスタッフの一人が、叶人が抱えたままだった黒焦げの人形を受け取ろうと、手を伸ばす。
「あ――」
叶人は一瞬それに抗いかけて、ビルに腕を掴まれる。
「イットワズオーレディオゥヴァ、ユゥノゥ」
もう終わったんだ。そう言って叶人の背中を強く叩くと、また大またでビルは歩き去る。
「お疲れさまぁ。――ん? どうしたの、かあくん。ぼんやりしちゃって」
「今日は飲むぞ、付き合え」
叶人はその声に振り向いた。前日すでにすべての撮りを終えている二人の共演者が、そこに立っていた。もちろん、メイクも衣装もつけていない。ジーンズに思い思いのティーシャツを着た、さっきまで家族だったふたり。
「あ、……いや」
止まっていた涙が、決して芝居ではなかったそれが、再びあふれ出した。涙の向こうに立つふたりに、紗枝と元治の姿が重なった。
――夢を、見ていた。荒田さん――座長。俺は、確かに夢の中で生きてたよ。
叶人は黒インクを薄く混ぜた雨にぬれたままの袖で涙をぬぐい、ふたりに笑いかける。
「なんでもない。すぐに着替えてくるから」