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灰色の涙  作者: 弥招 栄
3/6

三話:父親



『はい、近藤です』

「ああ、俺やけど」

『おお――』

 電波越しに聞こえる、のどに絡んだ痰を切る音。

『どしたんな』

 叶人は、携帯を持ち直した。最後に父親の声を聞いたのは、いつだっただろうか。正月にも、その前の盆にも電話一本しなかった。強烈な印象として残っているのは、大学をやめて役者になるという決意を伝えたときの、最後には怒りと失望を押し殺した、諦めの声。それから十年、幾度か会いもしたし、その倍は電話越しに話した。細切れにされているからこそわかる、時間の流れ。――老けたな。声を聞くたびに感じる思いを振り切る。

「ん、ちょっと聞きたいことがあってな。今ええか?」

『なんなぁ……ちょっと待て』

 ごとごとと、何かを引きずるような音が聞こえる。そして、何かがきしむ音。ああ――ふっと脳裏に、台所に置かれていた椅子が浮かぶ。だけど、そのぎしりという音は、叶人の記憶にあるものよりもずいぶん弱い気がした。――痩せたのか。受話器の向こうで繰り返される、湿った咳の声。そのたびにきしむ、椅子。

「大丈夫か? 風邪か? 気ぃつけな」

『ワレに心配されるようなこたぁ、なぁわ』

 その頑なな声にイラつく。完全に暮れてしまった目の前の道路を、なんだか楽しそうに笑いさざめきながら通り過ぎる少女たち。叶人は軽く目を閉じて、息を吐く。

「なあ、俺は今まで一回も聞いたことなかったけど、たぶん、あんまり思い出しとうないことやとも思うけど……」

『なにごちゃごちゃ言いよんな』

「……おやじが、原爆に遭うたときのことを教えてくれんか」

 ふ、と電波に空白が混じった。ひゅう、ひゅう、という喉の鳴る声。それが、街のざわめきを圧倒する。

『なんで、そがあなことを聞くんな……今頃』

 叶人は少しだけ震えた。その声は、年老いた父親のものではないような気がした。

「俺、今度な、映画に出ることになったんよ。ウィリアム・マニーって知らんか?」

『知らん』

 そっけない否定の言葉。だけど、NHKの連続テレビ小説だけが楽しみな彼なら、知らなくても仕方がない。叶人は構わずに続ける。

「アメリカのハリウッドの、すごい監督なんだけどな、その人が今度撮る映画で、俺、けっこうええ役をもろうて」

 叶人は大きく息を吸った。それを一瞬止めて、一気に吐き出す。理由はわからない。だけど、大学を辞めた、そう伝えたときよりも、それは大きな決心を必要とした。

「原爆で、家族をみんな失くしてしまう男の役なんだ」

 それだけ言って、受話器の向こうに耳をすます。静寂を圧倒する、街のざわめき。

「今度の映画、俺にとってすごい大きいチャンスなんよ。ハリウッドの監督が全編日本語の映画を撮るのなんか初めてのことじゃけ、絶対に日本で話題になる。そこで俺の演技が認められたら――」

『ワリャア、河原乞食になって恥を晒すだけじゃ飽きたらんと、ピカのことまで晒しもんにする気か』

 突然の父親の怒声が、叶人の耳を撃った。それほど大きな声だったわけではない。しかし、叶人の頭に、カッと血が上る。

「そうじゃないっ!」

 ざわめきに負けないように、声を高める。強く握り締めた携帯が、みしりと音を立てた。

「こないだ、劇団を放り出された。だからといって、諦めるつもりはない。どんなに小さいプロに入っても、役者は続ける」

 そう、自分に言い聞かせるように叶人は続ける。荒田の思いは理解できても、どこにも所属していない、帰るところがない、そんな宙ぶらりんな状況には、慣れていない。マネジメントは、映画の撮りが終わるまではしてくれるとはいえ、いや、だからこそ、自分がもう新劇座の人間ではないと思い知らされる。

「でも、こんな機会は、もう二度とない。じゃけ――」

『なにが言いたいんな。はっきりせぇや』

「監督は、俺が広島で生まれた二世じゃいうことを知っとる。じゃけ、俺はこの役に選ばれたんじゃ思うとる。でも、俺には、あのころのことはわからん。でも、おやじなら……」

『ピカを落としたアメリカの映画が、何をやるゆうんな。ワレは母さんがなんで死んだか、忘れたんか』

「忘れとらんっ! アメリカもなんも関係ない。るんは俺や」

 興味深そうに覗き込んでくるビルの青い瞳。心の中で、それを睨み返す。

「監督がどんな映画にしよう思うとるんか、俺のシーンをどうしよう思うとるんか、まだぜんぜん知らん。じゃけど、俺は、他のもんじゃない広島の人間として、被爆二世として、……おやじとおふくろの子供として、りたいんじゃ!」

 自分でも思いもよらない言葉に、叶人は戸惑った。だけど、それが自分の本心だというのはわかった。帰る場所、頼るもの、それらを無くした今、拠って立つのは己のルーツしかない。だから叶人は言葉を続けた。

「でも、今のまんまじゃ、俺は何も持ってない。原爆がどんなもんか、あの日広島がどうなったか、それは知っとる。でもそれは知っとるだけなんよ。俺はあの日を感じたい。おやじが見たあの日を俺も見たい。怖いだけじゃない、残酷なだけじゃない、そんな景色を俺も見たい。なあ、それで俺は初めて俺の芝居が出来る――」

 叶人は、ツ――と回線の切れた音だけを漏らしている携帯をたたんだ。受話器をフックに叩きつける音が、いつまでも耳の中に反響する。いつの間にか前のめりになっていた身体を再びビルの壁に預けて、軽く目を閉じる。冷たい風。暗い空を照らす街の明かり。道行く人々のざわめき。そこには灰の混じった熱い風も、太陽を隠す黒いキノコ雲も、焼け爛れた人々のうめきも、何一つ無かった。あるのは、相変わらずの現実。平和な、日本。叶人は少しだけ肩を落として、その中に歩いていった。


 次の日から、叶人は資料を読みふけった。父親に話を聞けないのなら、自分であの日にたどり着くしかない。原爆だけではない、あの時代の資料に手当たり次第に当たった。人々は何を考えて暮らしていたのか、なにを夢見て生きていたのか。それらを無味乾燥なデータから、体験者の残した言葉から、少しずつ拾い集めていく。

 東京で活動している語り部の存在も知った。被爆した自らの体験を後世に残すため、それを語ることを決意した人たち。早速会う約束を取り付け、話を聞いた。体験者の口から直接聴く言葉は、紙に書かれた体験談よりも強く心に響いたが、語りなれた口調と時折混じる政治的な主張が、感情に水をかけて現実へと連れ戻す。知識だけが膨らんで、ただ澱のように叶人の心に降り積もる。

 広島に行くかぁ。ぼろアパートの床に図書館で借りた資料を枕にして寝転んで、叶人はつぶやいた。バイト代が振り込まれたばかりのはずの口座を思い浮かべ、ため息を吐く。だけど、平和公園の記念資料館には、もう一度行っておきたい。幼いころは目を逸らすのが精一杯だった遺産たちと、今度はちゃんと向き合って。出来たら長崎にも……。金を貸してくれそうな友人の顔を、一人ずつ思い浮かべる。出世は確実だぜ。ある時払いの催促無し……

 そのままぼんやりと眠りに滑り落ちながら、もう帰る場所ではなくなった広島の町を歩く。本通り商店街を抜けて原爆ドームを右手に見ながら、元安橋を渡る。周りの大人たちの顔がずいぶん高いところにある(わしが、ガキのときか)。とても懐かしい、暖かく柔らかな手に引かれて(母さん?)折鶴を掲げた原爆の子の像を通り過ぎ、平和の火を横目に見ながら、記念資料館前の広場へ。石畳のそこを埋め尽くす、平和の象徴たる鳩の群れが絨毯のようにうごめく(ほうよ、昔ゃあ、広島中鳩で一杯じゃった)。つないでいた手が渡してくれた袋に小さな手を突っ込んで、エイッと、餌をまく。津波のように押し寄せ、餌を奪い合う鳩たちに半ば恐れながらも、キャッキャと歓声を上げる。だけどそのとき、鳩たちはざんっと一斉に飛び立って――

 薄汚れた天井を見上げながら、叶人は眠りから醒めた。時計に目をやる。いくらも時間はたっていない。そのとき、ごそっという音が、玄関の扉から聞こえた。郵便受けから差し込まれた茶封筒が、自らの重みでずれおち、そして、床にあたって音を立てた。

 なんだ? 叶人は立ち上がってそれを拾う。汚い字で書かれたあて先は、近藤叶人。間違っていない。裏返して差出人を確認する。

 近藤 六郎。

 おやじ? 叶人はあわてて封を破る。中には、鉛筆でびっしりと埋められた幾枚もの便箋。何度も書いては、消したあと。

 あの日、起きたこと。あの日、見たこと。あの日、感じたこと。焼けた街。落ちた橋。死にゆく人。生きていた自分。とつとつと、記される記憶。

 被爆者に対する偏見。原爆症の恐怖。身体に残る被爆の痕。妻になる女性との出会い。子を持つことに対する恐れ。そして喜び。名に込めた祈り。再び訪れた失う悲しみ。不器用につづられる想い。

 その夜、叶人は何度も何度もそれを読み返した。そして、少しだけ眠った。

 夢の中で、叶人はスクリーンを見つめていた。その中で、やはり叶人が家族と暮らしていた。そこで、叶人は加藤匡史という名前だった。そして愛する妻、紗枝。義父、元治。原爆によっていずれ失われることが決まっている、幸せな風景。いつしかスクリーンは消え、そして、叶人と匡史は重なるようにひとつになった。

――これで、俺は演じられる。

 朝が来たとき、広島を訪ねようとは、もう思わなかった。

 

 


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