第7話 私が人を殺す理由
お父さんはお家に帰ることが少なくなった。ぼくが夜にトイレに行くときにたまにいたけれど、むずかしい顔で大きな本を読んでいたりして話せなかった。
お母さんは逆に明るくなった。変な服を着て外にでかけるようになって、たばこを吸うようになった。苦いけむりが苦しかった。
お母さんは男の人をお家によぶようになった。
男の人は怖い顔の人で、ぼくのことをけったりした。お母さんはそんなぼくを見て笑ってた。痛くて痛くて苦しかったけど、ぼくが悪い子だからお母さんはぼくを殴るんだと思った。
お母さんは色んな男の人達と遊んでいた。優しい人もいたけど、ほとんどはぼくを虐める人だった。おなかがすいてもご飯は作ってもらえなかったし、じゃまだって言われて外で遊ぶことが多くなった。
ぼくが八さいのおたんじょうびの日、お父さんが早く帰って来た。そして外で泣いているぼくと、家の中にいたお母さんと男の人を見つけてしまった。
お父さんは怒ってたけど、お母さんも怒ってた。男の人もお父さんに怒って、お父さんのほっぺを殴った。ぼくは泣いた。
お父さんとお母さんはそれから毎日けんかしてたけど、そのうちお父さんが大きなカバンを持ってお出かけに行ったっきり帰って来なかった。
お出かけのとき、ぼくの頭を撫でて「ごめんね」って言っていた。
お母さんはずっと男の人達と遊んで、ぼくはずっと外の公園で遊んでた。
お母さんはぼくのことが嫌いになったんだろうけど、ぼくはそれでもお母さんのことが大好きだった。一年生のころの仲よしだった家族を思い出して、少し泣いた。男の人達がぼくを殴った体のきずよりも、お母さんがぼくを無視することの方が、ずっとずっと悲しかった。
お父さんとお母さんが喧嘩してから二年、お父さんが帰って来なくなって一年。僕が三年生のころだった。
一人の男の人と一緒に、お母さんは外へ遊びに行こうとした。ぼくはさびしくてお母さんの後ろをおっかけたけど、男の人に蹴られた。それでもおいかけた。
青信号が黄色になって、赤になった。ぼくは学校で『赤信号で渡ってはいけません』って教わったから、待っていた。二人はそんなぼくを笑って、赤信号を歩き出した。「危ないよ」って言っても無視をされた。
その時、二人に向かってトラックが突っ込んで来た。
二人が空を飛んで、そのまま落ちた。ぐしゃって変な音がして、ピンク色のぶよぶよした物とか赤い血とかが辺りに飛んだ。静かだった周りの人達が一斉にうるさく叫んだ。だけどうるさかったのは一瞬で、すぐに何も聞こえなくなった。
ぐちゃぐちゃになったお母さんに近付いた。うでも足もぐにゃぐにゃに曲がって、長い髪で顔を隠していた。男の人は同じくらいぐちゃぐちゃだったから何となく踏んでみた。靴の裏が血で滑った。
「お母さん」って呼んだ。怒られなかった。殴られなかった蹴られなかった。
ふと足元を見ると、小さな目が落ちていた。お母さんのだった。血で少し赤く染まっているその目は、じっとぼくを見つめていた。
「……っあ」
嬉しかった。
お母さんがぼくを見てくれている。目玉だけだったとしても、じっとぼくを見てくれている。無視なんかされていない。
動かないお母さんに抱き付いた。ぬるぬるするし、ぶよぶよした物もあったけど、どれもが『お母さん』だった。ぼくは泣いた。泣いて泣いて泣いて。だけど、それは悲しいからじゃなく、嬉しいからだった。
「お母さん……だぁい好き」
お母さんは何も反応しなかった。近くの大人がぼくを抱き上げて、目を手でおおい隠した。音が元通りになって、またうるさくなった。皆がキャーキャーわめいていて、怒ったり吐いたり叫んだり忙しそうだった。そんな中で、
『僕』は笑っていた。
藍川の後を付いて行き、何分か経った頃だ。そこはアパートやマンションが立ち並ぶ住宅街で、そのうち一つのマンションへと藍川は向かって行く。
十数階はありそうなマンションで、豪華でもなさそうだし極端に古そうでもない。真っ白な壁の至って無難なマンションだ。
「五階の一室、借りてるんだ」
ホールを突っ切り、エレベーターが降りてくるのを待っている最中、藍川が言った。
「お金とかどうしてるの?」
「遠い所に住んでるお爺ちゃん達が出してくれてる。でもまあ、たまにアルバイトとかしなきゃ駄目だけどね」
「ふーん、大変だね」
ようやく降りて来たエレベーターに乗り込み、エレベーターは上昇する。
エレベーターの中ではお互いに無言で過ごし五階で降りて、黒に近い赤色の絨毯の上を歩く。靴の上からでも分かるふさふさ感。
この絨毯の色酸化した血液と似てるなーなんて思っていたら、藍川が五二九号室の前で立ち止まり、危うくぶつかるところだった。
藍川が銀色の小さな鍵をポケットから取り出し、扉の鍵穴に挿して回して引き抜いて。扉は問題無く開き、藍川が入っていく。
「おじゃましまーす」
私も挨拶をしてから室内へと足を踏み入れた。
廊下を少し進み、藍川が一つの扉を開ける。扉の向こうは広い空間に繋がっていた。ソファーやテレビ、大きいテーブルなどがあることから、ここはリビングなのだろう。
鞄を床のカーペットの上に置いた藍川。私もソファーの近くに鞄を置いた。
「座って座って! コーヒー淹れてくるけど、凪ちゃんコーヒー好き?」
「うん、好き」
待っててねー、と言い残してキッチンに消えた藍川を見ながら、私は大きな黒いソファーに腰掛ける。
待っている間部屋の中を見渡す。
そこそこ広いリビングにある物は、広い部屋に反して少ない。整った綺麗な部屋と言えばそれまでだが、生活観があまり感じられないような部屋だとも言える。
生まれて初めて男子の家に来たというのに、緊張も興奮もしないのはそのせいでもあるんだろうか。……いや、それ以前に外での出来事もあったしな。というかあの男の死体はそろそろ発見されたんだろうか。
不意に、テーブルの端に置いてある写真立てが目に入った。木で出来たシックな写真立てに飾られた写真には、二人の男女と一人の子供が写っていた。
女性は長い黒髪の美しい妙齢の女性で、綺麗な顔立ちをしていた。男性は真面目そうな女性と近そうな年齢の人で、笑っている。子供はまだ七歳だろうか、二人に手を繋がれて心の底から嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「…………」
男女が藍川の両親で、子供が昔の藍川だということは、一目で分かった。
「お待たせ。砂糖は何個?」
「あー、二つで」
藍川が持って来てくれたコーヒーに砂糖を入れ、口を付ける。……うん、甘苦くて美味しい。
藍川も自分のコーヒーを一口飲み、私に笑いかける。
「――で、本題に入ろうか」
その言葉で少し気が引き締まる。この為に来たんだっけか。
「凪ちゃんさあ、あれでしょ? 連続殺人事件の犯人の刺殺犯。さっきも言ったけど」
「うん。藍川は撲殺犯でしょ? あの金鎚で何人もドッカーンと」
「そうだよ」
二人とも相手の質問に否定せず、素直に肯定する。
「高校入学して出来た友達が、まさかそんな人だとは思わなかったよ」
「私だって。かなり吃驚した」
コーヒーに口を付けて、藍川は言う。
「凪ちゃんは……何で人を殺してるの?」
そう尋ねてくる藍川は口元だけで微笑んだ状態で、両の目で私の目をしっかりと見つめて来た。まるで、私の心を揺さ振ろうとしているかのように。
「…………そうだね、『正義』に憧れていたから、かなあ?」
藍川は少し首を傾げ、理解不能という意思を示した。
私は一度目を逸らし、目を閉じて考えてから藍川の目を睨むように見つめ返した。
「小さい頃から私ね、テレビのスーパーヒーローとかに憧れてたの。悪い怪物を華麗にやっつけて戦うヒーローに。私もこんな風になりたい! 悪い人をやっつける、格好良い人になりたい! ……って」
女の子なら、もっとヒロイン物とかに憧れるのが普通だけどね。そう言って苦笑して、続ける。
「小学校になってもそれは変わらなかった。でも行動に移す機会なんて殆ど無いし、あったとしてもいじめっ子の男子を注意するとかだけでさ。中学校に入って親が海外出張に行ってからもそれは変わらなかった。……でも、中二の時だったかなあ。クラスでちょっとした事件があってね。――その『ちょっとしたこと』で、私は……」
記憶の回想。
笑いと我慢、作り笑いと苦笑い、クラスメートと落書き、机と画鋲、笑う『あいつ』と泣く『あの子』、屋上と上履き、私と包丁、血と私。
「……結局私は、ヒーローなんかじゃなくて悪人なんかになっちゃったんだけどね」
自身を嘲笑している私の顔は、どんなことになっているんだろうか。
私の夢は叶わなかった。大好きなヒーローにはなれなかった。大嫌いな悪い人間になってしまった。
――今の私を見て、幼い頃の私はどんなことを思うんだろうか。
知らず知らずのうちに、コーヒーカップを持つ手に力が籠もった。
「……………………藍川は、何で?」
うだうだと続く思考を断ち切るように、残っていたコーヒーを一気に飲み干して話を振る。
私の行動に目立った反応を見せなかった藍川は、その言葉に目を細めた。
「次は僕の番ね。うん、分かった」
藍川もコーヒーを飲み干して、言葉を吐く。
「子供ってさ、よく虫を殺したりするでしょ?」
「? ……うん」
藍川は無表情で続ける。
「例えば蟻を踏み潰したり、カブト虫の足を取ったり、蝶に熱湯をかけたり色々。それは酷く残酷なことだけど、子供はそれが残酷なことだと知らないし、楽しいから続ける。とても無邪気で純粋な悪意だ」
そしてニッコリ。
「僕はそんな、純粋な悪意を持ったまま成長してしまみたいなものなんだ」
今度は私が首を傾げる番だった。さっぱり意味が分からない。
藍川がそんな私を見てクスクスと笑い、言う。
「子供が虫を殺す理由が、楽しいから、たったそれだけのように……僕が人を殺すこともまた、楽しいからという理由だけなんだ」
「…………」
「…………」
「……それだけ?」
「それだけ」
本当に軽い理由だった。
「でも流石に殺す人間は選んでるよ。凪ちゃんもそうでしょ?」
「ああ……うん、まあね」
私達は人を殺す。だけどその被害者は無差別に選ばれ、殺されたわけではない。
麻薬の密売者やら闇金融の人間やら性根が腐っている政治家。そんな周りから嫌われていたり憎まれている人間しか私達は殺さない。だから犯人を恨む人間は意外にも少なく、正体の知れない犯人に感謝の意を抱く人もいる。勿論私達が手を出したら、逆に返り討ちに遭うような、ヤクザなどには手を出すことは無い。
この街は良い人間も多いが、悪い人間も多いんだ。だから、私はその『悪い人間』を無くすだけ。
そんな気持ちで私は人を殺す。
歪んだ正義心で人を殺す。
「それにしても凪ちゃん、案外僕を信用してるみたいだね」
唐突にそんなことを言われ、目を丸くする。
「え? 何が?」
「何って……そのコーヒー」
藍川は、私がコーヒーを飲み干したカップを指差す。
「一応、殺人鬼の出したコーヒーなんだよ? 毒とか入っていてもおかしくはない」
「……あ、そっか」
「『そっか』って……気づいてなかったの?」
悲しきかな、全然。全く。そう言うと藍川は苦笑いを返してきた。
そっかー、毒か。そう言えば毒殺犯もいたっけな。藍川が撲殺以外の用法で人を殺していてもおかしくないし、軽々しく信用した私が馬鹿だったんだろうか。――まあでも、
「入ってるなんて疑うわけないでしょ」
「何で?」
「だって……藍川は殺人鬼以前に、私の友達なんだから」
きょとんとした顔をしていた藍川だったが、すぐに子供のように顔をくしゃっとしながら笑った。