プロローグ
「先生、どうして人を殺しちゃいけないんですか?」
小学校三年生のある日、クラスの男子がそう尋ねた。
当時の担任だった若い女の先生は少し苦笑して、何かを諭すかのように、
「それは駄目なことなのよ」
と言って微笑んだ。
朝にテレビでやっていた遠い地域で起こった殺人事件のニュース。それについて先生が『殺人はいけないことだ』、と話していた朝の会。突如立ち上がってそう尋ねた男子。周りの女子も男子も、くすくす笑ったり談笑したり。
先生に答えを聞いた男子は、それでも納得できない様子で首を傾げていた。
「何で駄目なんですか? じゃあテレビの人は何でそんなことするんですか? どうしてですか?」
畳みかけるように言った言葉に、数人の男子も同意し、教室が騒がしくなる。
先生は困ったような笑みを浮かべていた。今思えばそれは、『バナナはおやつに入るんですか?』という質問と同レベルの質問に対し、どう答えれば納得して貰えるのか、と考えていただけだったのだろう。
「人を殺すということはね、人として一番やってはいけない事なの」
生徒の目が先生に集まる。先生は続ける。
「その人がこれから経験する、楽しみや、喜びや、幸せを奪ってしまうから」そして「君は誰かに殺されたくないでしょう?」
男子が頷く。先生が笑う。
「つまりはそういうことなのよ」
人が人を殺してはいけない理由なんて、いくらでもある。
けれど百人中百人の人が納得出来る答えなんて、絶対に存在しないだろう。
一人一人、考えがあり、思考し、自分なりの答えを探す。そのほとんどの結果が『人を殺してはいけない』という不明瞭なものであるだけ。
だけど、中にはその結果に至らない場合もある。
「…………」
手に握るそれはドロドロと汚れていて。
私の周りは噎せかえるような鉄分の匂いが溢れていて。
服を見下ろせば所々がべったりと汚れていた。
「……洗濯面倒だなあ」
洗濯しても落ちにくいし、これではもう捨てるしかないかもしれない。ちょっと気に入ってたんだけどな。
空は厚く暗い雲が覆い、土砂降りの雨が降っている。
降り続く雨は近くの下水道へ流れて行く。ほんの少し、濁った赤色となって。
『先生、どうして人を殺しちゃいけないんですか?』
不意に、昔のクラスメートの言葉を思い出す。
『それは駄目なことなのよ』
という先生の答えも。
あの時の先生に、今の私も尋ねたい。
「先生、人を殺してしまったらどうすればいいんですか?」
雨降りの中、答えは返ってはこなかった。