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フォー・アイデンティティ 後編

六、男がさんにん



 部屋に戻った所までは、記憶が確かだった。


 楓は、起きてから必ず、それから眠りにつく前に、自分が、羽賀楓だという確認のために、名前を唱えた。

 疲労感が強くて、睡眠薬に頼らずとも眠気を覚えた。明日、できれば早いうちにここを去りたい。レイを連れて。いつも通りベッドに体を横たえる。そういえば、自分が寝床を占領しているために、レイは、畳の上で、ブランケット一枚だった。ちゃんといまだに、言いつけ通りに境界線の中にいる。それを確かめて、意識を手放した。



 苦しい。

 何かが上に乗っていて、息苦しい。

 少しずつ意識が覚醒する。


 楓が目を覚ますと、レイが目の前にいた。

 馬乗りになっていて、楓の首を絞めている。



「‼︎」



「くそ、この」


 楓は上体を起こして、レイの腕を解こうとした。だが、自分と同じ程度の体格の男だけはあって、寝起きの楓では上手くいかなかった。手っ取り早く、レイの頬を強かに殴りつけた。


「うっ」


 どさ、とレイが横に倒れる。

 さほど強く叩いたつもりはなかったが、レイがそのまま起きない。


「レイ……? おい……」


 様子を伺う。意識がない。

 一体、何だったのか。いつものレイの顔を思い出す。自身なさげで、おどおどしていて……。しかし、先ほどのレイはあまりに違っていた。まるで別人のようだった。


 まるで、もうひとつ人格があるかのように。


 楓はしばらく畳の上のレイを観察した。眠れなかった。

 レイの抱える問題を軽視していたことに、楓は後から気がつくことになる。



——————


 

 窓から光が差し込むと、レイはゆっくりと覚醒した。


「!」


 がば、と起き上がる。

 まずい。眠ってしまった。夜に、眠ってしまった。部屋を見回す。もうすっかり見慣れた、大金の入った大きなバッグはベッドの横に置いてある。それから荷物。しかし、楓がいない。

 昨夜のことを思い出す。楓の誘いに、有頂天だった。ついに、この時が来たのかと。なのに今は、朝日すら憎い。

「うっ」

 にぶく、頬がいたむのを感じた。口の中が切れている味がする。なんとなく、顔の側面が腫れているのもわかった。

「楓っ……」

 レイは楓を探した。廊下へ出て、台所を見る。いない。物置きになっている部屋。いない。建て付けの悪い引き戸を思い切り開けると、洗面台の前に楓がいた。

「レイ……」

「あっ……」

 楓は首の辺りをタオルで冷やしていた。レイは一瞬で事態を飲み込んだ。……自分がやった、と。

「レイ……」

「……俺、あ……俺……」

 楓が近寄る。

「レイ、昨夜……」

「ご、ごめんなさい。俺……」

 楓が手を差し伸べようとした。

「レイ、俺の話を……」

「ごめんなさい!」

 楓の手を振り払って、レイはその場でしゃがみ込む。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「レイ、昨夜、お前に首絞められたんだぞ。何なんだ。どういうことだ」

 楓もしゃがんで、レイの肩に触れた。話し方や言葉尻は優しくて、責めてもいなければ怒ってもいないことはわかっていた。それでも……。

 足元のすっかり艶を無くしたフローリングに、涙が落ちるのがわかった。楓もそれに気がついたはず。楓はもう一度、レイと呼んだ。レイは無反応だった。

 その後も、部屋でブランケットをすっぽりかぶって動かなくなってしまって、対話を拒否した。こうなったらしばらく放って置くしかない。少なくとも今日出発する案は消えた。楓は下にいる、とレイに声をかけて、バーへ向かった。


「……」

 換気のために窓を開け、照明をつけて、ざっとバーを見回す。昨夜の騒動で、すっかり荒れ果てた店内を片付ける。気分転換になればいい。自分も考えを整理したい。

 昨夜を回想する。ふたりで川沿いの遊歩道で話した所までは良かった。その後、部屋に戻って眠って、気がついたらレイが、自分の上に乗っていた。その表情は、あまりにも普段のレイのものとは違う、冷酷で恐ろしげなものだった。

 ゴム手袋を見つけた。テーブルや椅子を端に寄せて、割れたグラスやら皿やらを片付ける。

 あれは、レイじゃなかった。

 鋭いガラスの破片に、昨夜のレイの瞳を思い出した。貫かれるような視線。

 レイにも問題があるとは思っていた。それが、あれなのか。一体あれは何なのか。レイの本来の姿か、それとも……。

「あらら、大変だこりゃ」

「!」

 気がつくと、ひとがいる。……レイになりきって対応しよう、と考えた。

「……おはようございます」

 前にも話しかけてきた老婆が、バーの前にいた。レイに聞いたら、隣の旅館の女将だという。

「レイちゃん、あのねぇ、ここのねぇ、路地にね、ゴミ置かれると困るのよ」

「……」

 少し身を乗り出して、女将が指を指す方の、路地を見る。楓が、レイと出会ったあの場所だ。ゴミとは、落ちているペットボトルのことだろうか。もちろん、レイや楓のものではない。

「すみません。片付けます」

「髪切った? お父さんに似てきたねぇ」

「……どうも」

「悪いとこまで真似しちゃだめよ」

 女将は旅館の入り口へ消えて行った。

 女将はすっかり、楓をレイと混同している。自分はそんなに、レイに似ているだろうか。

 ……もし、自分がレイだったら、どんな人生だったろう。

 バーにゴミ袋を取りにいく。カウンターに入ると、整理整頓されていて、サイズの違うポリ袋などがどこにあるかが明確だった。そのあたりにキーボックスがある。中を覗くと、バーのスペアキーの他に、もうひとつ。手に取ると、バイクのキーだった。自分は免許がない。レイもペーパードライバーだと言っていた。使えればよかったのにと思った。女将の言いつけはしっかりと守った。


「……レイ」

 ひととおりの掃除を終えて、再び部屋へ戻った。気を利かせて、今日は臨時休業と張り紙もしてきた。外からでも店内の様子がわかるので、店内の様子を見れば誰もが納得するだろう。

 レイは畳の上でおとなしくしている。

 いつも通り、楓が傷つけた線の内側にいる。

「レイ。話そう」

「……」

「レイ」

「……話したくない」

「……」

 ある程度予測していた答えだったので、楓は明日からも、レイに変わってこまごましたことをしなくてはならないと考えた。まずは食料調達のためにコンビニに行かなくてはならない。ここは、酒と、乾き物しかない。

「コンビニに行ってくる。何かいるか」

「……いらない」

 こんなやり取りを、前にもした気がする。立場は逆だったが。

「……出て行くの」

 ドアを開けて、閉める寸前に、消え入るような小さな呟きが聞こえた。

 楓はしっかりと立ち止まって、振り向いて、答えた。

「置いていったりしない」

 それは、自分に言い聞かせている言葉でもあった。だがそれが何のためか、まだ、わからなかった。だが、そう、言うしかなかった。ばかな決断に思えた。自分は手配中の殺人の容疑者で、先日警察に顔を見られたばかりで、今だって安全ではない。それでも、リスクを取って、残ると決めた。レイを見捨てないと、決めた。外へ出て、ふと思った。

 レイも、自分をここに置いておくと決めた時にこんな気持ちだったのだろうか。


 さて翌日からは、楓はレイになりきって雑用をこなした。怪しまれないように毎日のルーティンをこなす。掃除、洗濯。家屋もバーも現状維持をしようとすると大変で、レイがいかに普段から綺麗好きだったかが身に染みた。手を動かしていると考えも冴えたが、結局、現状の打破の妙案が浮かばずに、出ていくのを数日先延ばしにするしかない。

 レイは畳の上でぐったりとしていて、話しかけると反応はするが、気分が良くないようでそれ以外の外出を拒否するので、楓が雑用目的で外へ赴いた。少し前は、自分がレイに、食料を買ってきてもらっていた。今は逆だ……しかし、悪い気分ではなかった。

 相変わらず、隣の旅館の女将は自分をレイだと思い込んでいる。なんなら、他にも、自分をレイだと勘違いした数名に声をかけられた。町内会長だという老人は、夏ごろにある飲み歩きイベントについての話をしてきた。適当に濁して、話を合わせた。歯医者だという男は、月極の駐車場を使わないかと提案してきた。開きが出たらしい。車がないと行ったら、息子がディーラーで、カタログを届けるとまで言われた。いつのまにか家の前に野菜が置かれていた。レイに聞くと近所のひとがくれるのだという。バーに酒の配達に来た男も、楓をレイだと思って話しかけてきた。

 楓は数日、レイになりきった。まるで違う人生を体験しているかのようだった。レイは今の生活をひどく嫌っているが、暴力に苛まれてきた楓からすれば、天国のようだった。

 春の終わりの風がそう感じさせたのかもしれない。夏の訪れが、そう感じさせたのかもしれない。バーの中のものの位置を勝手に、自分の使いやすいように動かしてみた。箒がすり減っていたので、買い替えた。店の前で深呼吸をするのが好きになった。

 まるで、自分の生活のようだった。

 このまま……このまま。

 このまま、レイとここで暮らせないか。

 そんな、倒錯をした。

 自分は、何がしたいのか。

 自分はレイになりたいのか。

 いや、俺は、羽賀楓だ。自問自答を繰り返した。


 レイにはひとりで考える時間が必要かと判断して、楓は日中を外やバーで過ごした。暗くなる前に部屋に戻った。相変わらずレイは畳の上でぐったりとしていた。


「レイ、明日、バー開けろって隣の女将が言ってきた。どうする」

「……」

 ここ数日、店内の改装という名目で臨時閉店をしていたが、女将の旅館に団体客が入り、二次会をするのに、一部は旅館の外に行きたいと言っているらしく、その話がレイ……になりきっている楓に回ってきた。

「……」

 レイはのそりと、上体を起こした。頬と、腕に畳の跡がついている。少し面白いと感じた。楓はコンビニで買った食料を袋ごとレイに渡した。ゼリー飲料や、ビタミン剤。楓なりに、レイの体調を気遣って選んだ。

「俺、働ける気分じゃない……」

「知ってる」

 ろくに食べていないのも知っていたが、水分は摂っているようなので、安心した。ペットボトルがどれも中途半端に残って、散乱している。綺麗好きのレイには珍しいことだ。

「……出てくんでしょ、ここ。なら、もう、ご近所さんとの関係とか、どうでもいいよ」

「今すぐに出ていけるならな」

「……」

 そう、今すぐにでもふたりで白夜行、ならともかく、今のレイの問題を解決するする術がなく、どうしようもない。というか、レイが、現状をなんとかしようという気を失っている。なので、しばらくここにいるのが現実的で、そのためには楓は、レイのふりをして日常をやり過ごす努力をしなくてはならない。

「……あなたが、やってくれるなら、任せる」

「……いいのか」

「あの、俺も、考えるから。なんとか、だから、少し時間が欲しい」

「……わかった」

「どうして」

「ん?」

「どうして、俺に良くしてくれるの」

「……」

 その質問は、少し前に楓が、レイに問いかけたものと同じだった。楓は答えなかった。答えが、わからなかったからかもしれない。レイに、ベッドを使うように言った。今日からは、自分が畳で寝ればいい。レイはありがとうと答えた。


 女将の言いつけどおりに店を開けた。女将はさっそく開店と同時にやってきて、二十一時には客を寄越すと言ってきた。さらに、先日、警察が、騒ぎを起こしたことを知っていると言った。田舎なので、すべてが筒抜けなのだろうと悟った。客は来たものの結局さほど忙しくもならずに閉店になった。レイにあらかじめ、閉店のやり方は聞いた。ビールサーバーを洗ったり、食洗機の湯を抜いたり、戸締りをしたり。それを接客とうまく並行作業で行う。一日が終われば慣れたもので、明日来た時に楽なようにと工夫ができる程だった。明日も、と思える程だった。

 一番最後に、バケツに漂白剤を薄めた液を作って台拭きをつけておく。水を汲んで、シンクの下の業務用の大きいボトルを手にした。漂白剤らしい匂いがする。その時だった。ズキン、と頭痛がした。鼻につくその匂いが、何かを触発する。

「っ……」

 漂白剤のボトルを床に落とす。

 思わずシンクのふちに手をつく。

 目の前が歪んで、過去の記憶がじわじわと脳を蝕む。

 ひどい記憶だ。目の前に、血まみれの床が見える。床を汚したと言われて、綺麗に掃除するよう言われた。その時に、同じ匂いがした。血液のタンパク質が破壊されて、溶けた床のワックスと混ざり合う匂い。十年前、初めてひとが死ぬのを見た時の匂い。あのひとたちは誰だったのだろう。どうして、家を訪ねてきたのだろう。左利きが目の前に迫る。あぁ、また、殴られる。

 バシャ、とバケツをこぼす。

「はぁ、はぁ……」

 正気に戻るほかなかった。夢ごごちで、ばかみたいだった。自分が、レイになりきる? 新しい生活?

 ……違うと、わかった。

「はは……」

 自嘲する。


 レイになりたかったんじゃない。

 正しくは、レイのようになりたかった。


 つまらなくても、薄給でも、煩わしいことがあっても、命を脅かされることのない平凡な日常を送ってみたかった。その中で夢を持ってみたり、少しだけ冒険してみたり。そんな、ありふれた、誰にでもある、けれど自分には星のように手の届かない、そんなものが欲しかった。

 普通になりたかった。

 そんな普通の、理想のロールモデルがレイだった。

 いや、レイしか知らない。レイが、初めて、まともに接触した相手だから。レイといれば、まともでいられる。レイには自分にはない良いところがたくさんあって、それを指標にしたい。変わりたい。まともないい人間になりたい……。レイのように。


「……楓?」

「!」

 いつの間にか、バーにレイがいた。

「……大丈夫か」

「そっちこそ」

 レイはひどい顔色、と続けた。それから床を見て、漂白剤多いよ、臭い、と言った。店が心配で、降りてきたのだろう。バケツを溢したことは注意しなかった。辺を歩いて見回して、先日の騒動で壊れた椅子の数を数えた。楓がしっかり綺麗に片付けをしたことを褒めて感謝した。物の位置を動かしたことは少し不満げにしていた。


「……変わりたかったんだ」

「……?」

 あまりにも小さい声だった。

 レイはモップを持ってきて、楓がこぼしたバケツの水を清掃しようとした。手を止めて、楓の発言に耳を傾ける。

「聞いただろ、なんで、良くするのかって」

「……」

「お前を見捨ててひとりで出て行くのは簡単だ。けど、そうしたら今までの自分と同じだ。……いい人間ってのに、なりたいんだ」

「……」

「勝手だろ」

 顔を上げる。いつも、眉間に皺を寄せて、こちらを睨んでいたくせに、随分っと変わったとレイは思った。自嘲と迷いを感じる、人間くさい表情。改めてまじまじと楓の顔を観察した。鼻が高いし、自分よりも整っているとも思った。ここ数日は楓が自分になりきって生活をしていたのを知っているが、自分は楓に似ているだろうか。他者から見れば自分はこんな感じなのだろうか?

 自分と楓の違いを挙げるとすれば、楓は、状況を変えようと行動したこと。結果がどうであれ、理不尽な状況に立ち向かった。それが楓の生来の性質なのだろうと感じた。楓は強くて、そして優しい。自分はいつまでも他力本願で情けないと思う。自分は楓になれない。

「……俺もそうだったでしょ」

 レイが楓に近寄る。

 レイは、冴えない日常に突如現れたた楓という非日常を楽しんでいた。一方で楓は、レイの存在をきっかけに自分を変えようとした。ふたりとも身勝手な自己満足のために動いていた。

「俺ね、あなたになりきってみたことあるんだ」

「……は?」

「そしたらね、クレーム対応うまくできた」

「……」

「あなたみたいに、本気で、なれたらいいのに」

 ないものねだりだった。楓はレイに。レイは楓に。

「これからも、たまに、やってみようかな」

「……」

 殺人の容疑者だというのに、レイの中の楓の肖像は、いつの間にか悪い印象から変わっていた。

 いつだろう。いつ、変わったのだろう。



「……お前の問題を知りたい」

「……」

「話してくれるまで待つから。けど、早い方が……いい。わかるな?」

「うん……」

 ふたりで後片付けをして、店を閉めた。そして一緒に部屋に戻った。まるで、いつものことのように。そんな日常は存在しないのに。



——————



 六・五、アイデンティティ


 朝、楓が家を出る前に、ベッドに寝転がっているレイに声をかけた。


「お前も、俺になってみろよ、気分転換に」


 レイは朝からベッドの上でただぼんやりとしていた。楓の発言を思い出す。楓が窓を開けていったので、風が入る。気が利くようになったと思った。

 自分になってみろ。昨夜のレイの話を受けて、楓はそのように言ったのだろう。寝返りをうつ。スマホを見るのも飽きた。実際、一度実践したことがあって、うまくいって、その時は気分が良かったのを思い出した。前回は迷惑な客に絡まれて仕方なく試してみたことだが、今回は違う。気分転換。あまり難しく考えずに、やってみよう。

 レイは久しぶりに外出する気持ちができて、ゆっくりと起き上がった。シャワーを浴びて髪を整えた。クローゼットを開けて、買ったはいいが着ないような服を手に取る。それは、少し強めの印象のファッションに挑戦してみたものの、自分には似合わないと思ったもので、楓なら似合うかも、と今なら思えるものであった。姿見の前で、少し体勢を崩して、鏡を睨む。自分じゃないようだった。階段を下りて、駅を越えて、橋を越えて、意味もなく散歩する。田舎なので、徒歩で行ける範囲に大きい商業施設や文化的な施設はない。

 歩いているうちにいつもより車が多いことに気がついた。有名な神社があって、縁起もののお守りを売る祭りの日は、県内外からひとが殺到する。まさに今日がその初日で、毎度ながら近隣住民は迷惑している。それほどご利益があるのだろうか。自分の問題は、神頼みじゃきっと、解決しない。しかしレイは、厄払いに一度行ったことがあった。祖父も父もそういったものに熱心だった。レイは墓参りもしていない。

 すると、目の前を走っていたシニアカーを無視して、白いバンが急に曲がって、民家の庭先に勝手に駐車した。もう少しで、老人にぶつかる所だった。車からは中年の男女が数人が降りてきて、早く行かないと、とか、売り切れちゃうとかを話しながら慌ただしくしている。

「……」

 レイは無言で近寄って、車を拳で叩いた。睨みつけて、おい、と言った。

「あっ、す、すみません……」

 すると、運転手はレイに謝り、即座に車を移動させた。

「……」

 シニアカーの老人が、すれ違いざまにレイにありがとうと言った。

 当然、普段ならしない行為だ。楓になりきって、楓の気分でいる今だからできたことだった。臆病で引っ込み思案なレイではない、楓だからできたこと。

 楓は強い。自分で、自分の環境を変えるべく行動をした。たとえそれが殺人という、非道な行いだったとしても。

 自分が楓なら、やっかいな問題をかかえる前に対処できたのかもしれない。自分が、楓なら……。

 曇り空。季節の変わり目で、日々の天候もあまりにも、移ろいやすい。

 早く、ここを出なければならないと感じた。楓のようになろうとしている自分がいる。井川レイを捨てようとしている自分がいる。自分は、自分でしかないのに。

 でも、それでも、こんな形じゃなくても、楓がきっかけで、今まで泥のように停滞していた人生が多少動いたのだ。今までの井川レイじゃない。変わりたい。目的を叶えたい。楓について行きたい。

 自分の問題に向き合いたい。

 あと一歩、何か、きっかけがあれば動き出せる、そんな気がした。

 それと同時に、楓に感謝しなければ、とも思った。ここ数日、家事のみならず店まで楓にやらせてしまった。彼にそういう能力があったのは意外だが、社交性もあるし、日報の計算も一度教えたら後は間違えなかった。虐待されていた、監禁されていたと聞いたが、それなりの学力と地頭の良さがある。楓はどんな生活をしていたのだろう。父親が虐待の主犯なら、達也は楓とどんな関係だったのだろう。どんなことを知っていて、何を知らないのだろう。


 自分は、何かをしてやれるだろうか。



——————


 夜になった。

 この日はバーは休みにした。

 楓が買ってきたのは、コンビニのざるそばだった。それとビールと、冷凍のえだまめ。しかしそれを食卓に出したのはレイだった。楓は買ってきたものをわざわざ皿に盛り付け直したりはしないのでレイに、袋ごとそのまま渡した。レイは違う。自分が買ってきたかつおのたたきにみょうがやねぎを添えて、きちんと皿に盛り付けて楓に出した。

 スマホの小さい画面でテレビドラマの見逃し配信を流しながら、ふたりで並んで食事を摂った。

 レイがまともに食べているのを久しぶりに見たので、楓は安心した。レイは、アルコール度数の低いジュースのような酒を飲んでいた。窓からの風が、カーテンを揺らす。裾の方が、ほつれている。もう何年も買い替えていない。どこから入ってきたのかわからないが、小さな娥が、テーブルの上に墜落してのたうちまわっていた。

「体調は」

「まぁ、うん……」

「悪くないならいい」

「うん……」

 ドラマの中ではまさに茶番が繰り広げられていた。おかしな仮面をつけたテロリストが病院らしき場所で銃を乱射する。アメリカならともかく、日本ではあり得ないことで、説得力に欠ける。レイは主人公の過去がうんちゃらとか、主人公の奥さんが医者で、などど、楓にあらすじを説明したが、楓はこのドラマの何がおもしろいのかさっぱりわからなくて、生返事で買ってきた新聞を広げた。

 一面は、名山に指定されている山にメガソーラーができたことで全国的に問題視された件の進捗。ほかに、県立高校の生徒がスポーツの大会で良い成績をとったとか、新幹線の通る駅の近くのデパートの跡地の再開発についてなど。楓はしばらく新聞を眺めて、ようやくお目当ての記事を見つけた。ショッピングモールで見つかった白骨化した遺体のニュースだ。

「それ……」

「骨盤が見つかって……経産婦だとよ」

「ふーん……」

 レイも新聞を覗き込む。

 楓の予想ではこのニュースの話題のおかげで、楓の事件が脇に追いやられいるので、事件の進展はふたりにとって重要なことでもある。

「次の、住むとこでは、テレビ買いたい」

「あー……そうだな」

「大きいのがいい」

「んな金の使い方してたらすぐ無くなる」

「そのくらいいいじゃん」

「……考えとく」

 楓は、ならば、中古品などでもいいと考えた。レイは、地上波デジタルを視聴できるテレビと、スマートテレビの違いを楓に語った。単純にレイは大きい画面で動画サイトを見たいのだろうと、楓は思った。その後も饒舌に、レイは、多数の動画配信サイトの違いを説明した。料金体系やら、コンテンツの違いやら。そのうち、わかった、お前の好きにしろなんて答えていた。いつもよりおしゃべりに感じたが、本来のレイはこっちだったな、などと考える。自分の助言は多少なりとも助けになっただろうか。

 そして、なんとなく、近い未来も、こうしてふたり肩を並べて、つまらないドラマを見ている気がした。

 ……それを、実現させて、永遠に続けたいと考えた。

「レイ」

「ん」

「お前の問題……向き合うから、俺も」

「……」

 レイが動画の視聴を一時停止した。

 這ってシューズボックスまで行って、棚の上から紙袋を持ってきた。楓の手をつかんで、手のひらに何かを乗せた。

「?」

「家の鍵。スペアのやつ」

 鍵には、ひょうたんの形のお守りがついていた。小さな穴を覗くと、寺の名前とありがたい神様が見える、どこにでもあるキーホルダー。ちりちりと鈴の音がする。あまり、若者らしくない。これは、例の神社ではなく、ここから歩いて三十分はかかる寺のもので、檀家に配られる冊子に付いてくるものだった。井川家の菩提寺。

 無くさないように、とレイは言ってひかえめに笑った。レイの鍵は何もついていない。楓に渡したものには、わざわざお守りをつけたのだ。

 楓は、絶対に無くさない、と誓った。



——————




 楓の言葉が嬉しかった。


 自分の問題に、一緒に向きあうと言ってくれたのだ。

 そんなひとは今までひとりもいなかった。誰にも話せなかったのもある。

 自分の問題について、自覚したのはいつ頃だったろうか。二十歳の頃には自覚していたように思う。

 意識は覚醒しているのに、自分以外の誰かが自分の体を動かしている……そんな感覚の時があった。

 決して自分ではしないことを、自分以外の誰かが自分の体を使ってしている。不思議な感覚だった。それは、酒やタバコやバイクやらのことである。

 最初は無害だった。しかしそのうち、仕事がある日なのに、体の主導権を奪われてまともに勤務ができなくなった。初めての就職先は当然退職になった。深酒をして、その影響がレイにもあった。それならまだいい。飲酒運転をして、事故を起こした。幸い、自損で怪我はなかった。人気のない山道だったので、バイクはそのままに逃げて、しばらく酔いをさましてから、近所のひとに頼んで軽トラでバイクを回収してもらった。近所のひとは、レイの父親も若い頃たくさん事故を起こしたので気にするなと笑っていた。しかしレイは、もしかしたら死んでいたかもしれないという気持ちで、そんな気分ではなかった。

 対策をしなくては、と考えるようになり、人格が入れ替わるタイミングについて観測をした。それが夜だった。

 夜に眠ってしまうと、高確率で人格が入れ替わるのである。逆に、不摂生などで、明るいうちに寝て、明るいうちに起きる時は、まったくもうひとりの人格は出てこない。

 どんどん、体の主導権を奪われる時間が長くなっているのとに恐怖した。このままでは、自分は消えてしまう。

 レイは、生活リズムを変えた。ちょうど、父親が病気になりバーを継いだのでタイミングも良かった。こうして、もうひとりのレイは、すっかり形を潜めたのである。……そう、つい、先日、楓の首を絞めたあの時までは。


 自分は、おそらく、多重人格だ。自覚がある。

 多重といってもいるのはもうひとりだけ。

 どんな男かは、よく知らない。鏡を見る。見た目は同じはず。楓はおまえじゃなかったと表現をしていた。そんなにも、違うものだろうか。

 楓がここで、髪を切ったり、染めたりした後、片づけたのは自分だ。そんなにも、自分は、楓に似ているだろうか。

 鏡に手をつく。いつも通りの、冴えない自分だった。なぜもうひとりの自分は楓を襲ったのだろう。自分は、もうひとりの自分が何かをしている間しっかりと意識がある。相手は違うのだろうか。

 ライフスタイルの調整をしても、問題が消えたわけではなかった。

 ……自分は楓を傷つけてしまう。

 問題を解決しなくてはいっしょにいることはできない。ひとつ、この問題を解決できるかもしれない、心当たりがあった。だが、楓は反対するかもしれないし、リスクがある。レイはしばらく開けていないチェストから、古い診察券を取り出した。楓がもし、賛同してくれたらここへ……。



「レイちゃん、いるー?」



「!」


 声に聞き覚えがある。大谷だ。

 レイは急いで玄関へ向かう。インターフォンや呼び鈴がないので、いつも近所のひとはこうだった。しかし、大谷が自宅の方へ来たのは初めてだ。

 はい、とドアを開けた。

「!」

 大谷と、隣に畑山がいる。ふたりとも私服だった。

 レイは大柄なふたりを見上げた。玄関の外側は大したスペースがないので狭く感じた。すると畑山が、ドアに手をかけて、中を覗くような素振りを見せる。

「あの、先日は……」

「ああうん、ごめんね、ほんとに」

「いやぁ、悪かったよ。いろいろ壊しちゃって。また来るから許してくれ、な」

 大谷と、畑山も、謝罪とは言えないような形だけの体を取るので、レイは、それが建前だとわかった。本当の理由は別にある。

 レイは慇懃に大丈夫です、と返した。早く、帰って欲しい。

「友達だって? あの……」

「え?」

 大谷が、それとなく、探りを入れてくる。楓のことだと気がついた。私服でありながらも、ふたりとも、どことなくいつもと雰囲気が違う。仕事を、しているのだとわかった。

 ここから、一言でも間違えたら、楓の身が危ないと瞬時に察した。身構える。

「あんな子この辺いた?」

「あ、えと、小学校とか中学の友達じゃなくて高校の友達なので」

「あぁ……」

 レイは、それこそ中学までは地元の、皆が知り合いといった雰囲気の小さい学校だった。人数も少なく、その頃の同級生については、どこの誰と説明すれば大谷は全員の顔がわかる。しかし高校は、電車で新幹線の通る駅まで行って、そこからさらに徒歩で行くほどの、大きな県立高校へ通っていた。そこでの交友関係は大谷の範囲外になる。

「あの、訴える、とかですか? あの、俺が、ごめんなさい、ほんとに、あの、あのコンパニオンのひとに気があるとかそんなことはなくて……」

 レイとて、伊達に、夜に酒を出す店をやっているわけではない。大谷や畑山のようなタイプへの対応の仕方は心得ていた。あまり頭の良くない、地元から出たことのない世間知らずを演じる。気弱で、困っている体を装う。話を逸らす。楓を守らなくてはならない。

「あー、あー、そうじゃなくて、大丈夫大丈夫。女の子の話じゃないから……。井川さん……レイちゃん、だっけ」

「あ、は、はい」

 畑山がレイを観察するように、不躾な視線をよこした。頭のてっぺんからつま先まで観察される。疑われているのが、明確にわかる、そんな視線だった。

 大谷が話を続ける。

「レイちゃんは大丈夫だよ。親父さんどころか、ジーさんの頃から知ってるコだから、な。でさ、友だちの方もさ、訴えるとかじゃないんだけど……」

「え……?」

「どこのコ?」

「あ、えと、もっと街の方です。テレビ局のあたり。三中だったって、あの辺だと思う……」

「あー、あっちか。泊めてるって言ってたよね」

「あ、はい。フツーに……あの、ゲームやってて……あの、新しいの、当選したから……」

「あー! あれね! いいなぁ。おじさんたちは老眼だからだめだわ、あはは」

 内容のない会話のすべてが、レイから楓について聞き出そう、という話術のすべてだった。大谷も、畑山も腐っても警察官。抜け目はなかった。

「あの、訴えるとかじゃないって……」

「けど、ちょっと話したいね」

「……」

「いやほんと、話したいだけ。男の話! 逮捕するとかじゃなくてさ、だからさ、呼んでもらえる?」

「あ……はい、えと今日ですか?」

「仕事何?」

「あ、えと、建設? とか道路とか、で、どこが現場だか、俺は……」

「電話番号わかるよね?」

「あ……えと、普段はアプリで、だから電話番号は知らないんです。仕事中は見れないと思うから……」

「あー、そっか、今の子ってそうだよね」

「あの、俺が連絡します」

「じゃあ、これ俺の番号ね、また来るから」

 畑山がメモを寄越す。レイはあと二回、逮捕とかしないんですよね、訴えないですよね、といった演技をして、いかにも友人思いを演じた。もちろん、わかっていた。そんな用件ではなかった。ふたりは、楓が、手配中の殺人犯だと、気がついたのだ。

 外出したふたりと楓がはち合わないか不安だったが、ふたりは車で去って行った。レイは一刻も早く、楓が無事に帰宅するのを願うしかなかった。



——————



 七、男は何人?



 はっ、と目を覚ました。


 記憶がない。

 今、自分は、何をしていた

 辺りを見回す。真っ暗だ。目が乾いて、痛い。がたん、と何かが足にぶつかる。

 俺は、羽賀楓、羽賀楓……と心の中で唱えた。

 手のひらを見ようとして、暗くて、見えないことに気がついた。座っているのはわかる。家だろうか?

 また、記憶が飛んだ。生きているのはわかるし、痛みなどもない。冷静に、と深呼吸をした。暗闇の中目を凝らすと、ぶつかったのは車のハンドルだとわかった。


「……⁉︎」

 自分は免許がない。運転できない。なのに、運転席にいる。

「……お、おき、た……?」

「⁉︎」

 隣の、助手席から声がして、驚く。レイがいた。

「……レイ……何があった」

「わ、わかんない、あなたが、帰ってきて」

「……ちょっと待て、そこどうした」

 レイの頬が、赤く腫れている。殴られたような跡だ。もちろん、先日の傷はもう回復している。つまり。

「……俺が、やったのか」

「……わかんない」

「わかんないって何だよ!」

「わかんないよ! あなたじゃないみたいだった! あなたがどっか行って帰ってきて! 急に俺のところに来て、外に連れ出されて! レンタカーあって、乗れって言われて‼︎ 何なの⁉︎ わかんないよ! 何だったの⁉︎」

 楓が大きな声を出したら、レイはさらに大声で反論した。

「俺、じゃない……?」

 レイの言っていることはは理解はできても納得はし難いことだった。しかし、事実なのだろうと楓は考えた。

 まさか、自分もレイのように、多重人格だとでも言うのか。たまに記憶がなくなるのは、そのせいだとでも言うのか?

 ドアを開ける。車を降りる。見知らぬ場所だった。下は砂利で、だだっ広い空間で、誰もいない。レイも続けて降りた。ざわざわとした木々の音が近いので、山なのはわかる。遠くに、人里の光が見える。

「どこだ……ここ」

「公園のある山だけど……最近熊が出るから、ひとはほとんど来ないとこ……」

「……」

 少し歩くと駐車場の出入り口に辿り着いて、なんとか山公園、と書いてあった。案内板は傷んでいて良く見えない。

 運転はできない。車は放置して歩いて帰るしかない。ポケットにはナイフがあるだけで、他には何もなかった。レイが少し後をついてくる。真冬じゃなかったことが幸いだった。死にはしない。この辺りは冬は深い雪がやっかいだと聞いたから。レイも、スマホを持つ暇すら与えられずに車に乗せられたと言う。免許もないのに、自分はどうやってレンタカーを借りたのか。

 街灯はあるが、すすけていて、チカチカと点滅している。その周りをけなげに虫が落ちては飛んで、地面には生きているのか死んでいるのかわからないものがたくさんあった。歩けば家には着くだろうが、かなり遠い。濃い緑のにおいが非日常的で、いよいよちっぽけな気分にさせた。

 レイが近寄ってくる。楓は歩き続けた。どうして、こんなことになったのか。

 自分も、レイも、運転はできない。では、どうやってここまで来たというのか。

「……レイ」

「は、はい」

 少し後ろを付いてくるレイに声をかける。

「……レイだよな、お前は」

「……」

 ぐす、と鼻声が聞こえたように感じた。レイがどんな表情をしているか容易に想像できて、いやな気分になった。

 ひたすらに道沿いを歩くしかないが、まるで水の中にいるみたいに足取りが重い。まるで灯台のない海のように、先が見えない。星も月もない。楓は歩きながら、考えていることを、レイに話した。

「……多重人格って知ってるか」

「……」

「体ひとつに人格が何個かあるやつ。……俺の言いたいことが、わかるな?」

「……わかんない」

 嘘つくな、と言いたかった。自覚があったから、あんなライフスタイルだったりしないはず。楓の予想では、あれは、もうひとりの人格を抑えるための行動のはず。

 ……レイは、もうひとりいるのではないか。

 ……正しくは、もうひとつの人格があるのではないか。

 それが、先日楓を襲った方のレイだと仮定して、そして、それは、自分にも影響を及ぼしているのではないか。

 レイに、レイのようになりたいという気持ちがそうさせたかもしれないし、自分のもつ問題、つまり、時々記憶がなくなること、そこに、他者の人格が入り込んだのではないだろうか。もしくは、うつった、と表現すべきなのか。

 今までのことにいくつか思い当たる節があった。通院の際に、医師が言っていたことは本当で、レイのもうひとりの人格は所謂やんちゃなタイプで、酒やタバコを嗜むとしたら、ここまで運転してきたのがそいつだと仮定することができる。

 そういえば、禁煙のはずのバーに、灰皿と吸い殻があった。あれも、レイのもうひとりの人格の仕業なのでは。

 楓は立ち止まる。振り向いた。

「レイ」

「……」

 互いにきっとひどい表情をしていただろう。

「……俺はだれだ」

「か、楓……」

「お前は」

「井川レイです……」

「今……」

 ざわざわと、木々が風に揺れる。

 山裾は吸い込まれそうなくらい真っ黒で、人間を拒絶している。

 楓は都合のいい時に、レイになり切っていた。レイも、都合のいい時に、楓になったつもりでいた。

 では、今はどうなのか。誰かの真似をすること。変わること。自分が自分でなくなっていくこと。……自分とは何なのか。

 自分の定義は何なのか。

 自分とは確実なのものなのか。

 アイデンティティは、どこにあるのか。

 アイデンティティとは、何なのか。

「今、お前は、誰だ。井川レイだと、証明できるか? 自分が自分だと、確かに言えるか?」

「……」

「今ここには、俺とお前しかいないはずなのに、何人いるんだ」

「わかんないよ……」

「俺たちは何なんだ、どうして、どうして、こうなった……! 話せよ、何で、隠してる……!」

「……俺だってなんとかしたいよ……!」

「レイ……」

 レイはぐっと、シャツの裾を握って絞り出すように話した。

「今日、警察が来た……」

「!」

「あなたのこと、探してる。きっと、殺人の犯人だって気づいてる。この前、あなたが殴ったひと……」

「そう、言ってたのか」

「それ以外に何があるの」

 楓は葛藤した。

 ……時間がない。逃げなくてはならない。もう、この街にいられない。しかし、レイを置いてはいきたくない。そしてさらに、先ほど、新しい問題が発覚した。


 八方塞がりで、うつ手がない。


 真っ暗闇をふたりで延々と歩いて、朝日が出る頃に帰宅できた。ふたりとも歩き疲れて無言だった。泥のように眠りについたのは覚えている。

 次に目を覚ましたのは、誰かがドアをノックする音に、レイが気がついた時だった。



——————


 ドンドン。



「井川さん」


 ドンドン。



「井川さーん」



「……」



 レイはゆっくりと、体を起こした。

 明るいのでほっとする。

 ドアをノック……というよりは、叩く音に、目が覚めたのがわかった。時計がを見ると正午だ。太陽か高い位置にある。昨夜は、ひどい一日だった。歩いて歩いて、ようやく帰宅できて、畳の上に、楓と雑魚寝になったのは覚えていた。


「井川さーん」



 聞いたことのあるような、ないような声。居留守をするつもりなのに、どうにもしつこい。

「……」

 すぐそばを見ると、楓がいた。

「ん……」

 ベッドではなく、畳の上にいるのがおかしかった。いつのまにかこんな距離感になった。昨夜だって、街までを歩く中、歩調を合わせていてくれたのがわかった。自分がいなければもっと早く歩けたはずなのに。

 ……楓が自分を信頼してくれているのがわかった。わかったが、言えない。そして何より、楓の中にレイを置いていくという選択肢がないのことも。それがたとえ、どんな理由でも。

 自分の、厄介な問題を、どうしたらいいかわからなくて、ここまで生きてきた。他者に開示するつもりがなかった。なのに。

 楓なら、受け入れてくれるだろうか。

 ……本気で、ふたりで生きていけるのだろうか。

 それならば……。


 ドンドン!



「……」


 扉を叩く音が強くなる。

 レイは気だるい体を起こして、ドアに近寄って、覗き穴に顔を近づけた。

「!」

 レイは、ドアの向こうの人物に驚いて、大袈裟な程後退りして、さらに、尻餅をついた。がたん、と大袈裟な音がした。


「……レイ?」

 その音に、楓も目を覚ます。ドアの向こうの人物も、きっと、レイの居留守に気がついたはず。

「レイ……どうした」

 レイは急いで四つん這いで楓のそばまで急いで這った。

「だ、だめ、静かに」

「あ?」

「あ、あのひと、あのひとが」

 あのひと。


 受け取ったビラは、どうしただろうか。もう記憶にない。


「あ、あなたのお兄さんが来てる……! 羽賀達也……!」



——————




 八、男がよにん


 ふたりで相談をして、レイのみが、達也と話すことになった。

 レイは達也をバーへ案内した。ブラインドを閉めた。



「み、水でいいですか」

「あぁ、ありがとう」

 カウンター席で、水を出す。

 初見の印象と全く相違なく、この辺鄙な田舎町にはそぐわないモダンな雰囲気の男だった。長身でスマートに見えるが、どこか底知れない粗野さがある。目鼻立ちが楓と似ている。血縁者であることは確かなのだろう。

「さっそく本題なんですが……」

「はい」

「楓を、渡して下さい」

「……」

 レイは、達也にどんな言い方をされるか構えていたが、最悪の想定とは違った形のものだった。

「あの……」

「もう一度確認しますが、弟は殺人犯で、容疑段階ですが、ほぼ確定しています。また、精神に問題を抱えていて、危険な存在です」

「し、知ってますけど」

 レイは精一杯の強がりを見せた。どうしたいかは決まっているからだった。今、レイ自身の問題があって昨夜の件のとおり、ふたりの関係は良好かとは言えない。それでも、楓との未来をまだ期待している。

 達也に抵抗しなくてはならない。

 カウンター越しのささやかな距離感は、まるで大きな川のように遠い。レイから渡ることはできない。

「あの、俺、あの後、ニュースとか見たんですけど、楓については、載ってませんでした。ほんとに彼ですか? 彼が、あなたたちの両親を殺したんですか?」

 レイは、楓、達也双方にあってから、スマホでネット上のニュースを調べた。前述の通り、似たような、家族間の殺人事件などが数件出てきたが、それが楓のことだと確信するに至らなかった。羽賀楓という名前も、羽賀達也という名前も見つからなかったからである。

「……」

 達也は無言でレイを見つめた。

「前にも言いましたが個人情報保護などの観点から、メディアでは実名などは伏せてあるんです。捜査が進んで起訴が決まればわかりませんが」

「そ、ですか……」

「弟は精神的な問題もありますし、両親は……楓から聞いたかと思いますが、楓にひどい虐待を……。なので、検察がどうするかはともかく、私の方では正当防衛として情状酌量を強く求めていて、起訴しない方向で持っていけないか考えているんです」

 達也が腕まくりをする。すると、いくつもの切り傷の跡が見えた。

「!」

 レイは思わず、自分の腕を押さえた。似たような傷だ。

「これは……両親が、父が……愛用していたナイフによる傷です。私も……楓と似たような扱いを受けていましたから。楓は、そのナイフも持って行ったはず。見ましたか?」

「……」

 達也も虐待されていたというのか。今見た腕のそれが防御創だとすれば、虐待などという言葉ではとうてい言い表せない、殺人未遂に相当する事例だ。

 からからと痛んだ換気扇が音立てている。ふたりが押し黙ると、静寂が気まずい雰囲気を後押しした。

 楓を思い出して、レイは心が痛んだ。楓がどんな扱いを受けていたかは聞いた。ただし内容まで詳しく聞いたことはない。せめて今は、命が脅かされてはいないことが救いになっていればいい。

「ですが、たとえ不起訴だろうと、有罪になろうと、どのみち家族による支援や、医療施設への入院などが必要です。楓の唯一の家族の私の、ね。ですから……井川さん」

「は、はい」

「楓を渡して下さい」

「……」

「このままあなたといることと、私……家族と適切な治療をして生活をしていくこと、どちらが正しいでしょうか、どちらが楓のためになるでしょうか」

「……」

 レイには答えられない問題だった。なぜならどう考えても、後者だった。正しい、のみで言えば、そもそもにして今の状態は法治国家としてはまずいことで、レイは犯罪の容疑者を違法に匿っている、という扱いだ。しかも殺人事件の。達也に楓を引き渡して、しかるべき裁きの後に、楓にとって適切な医療措置を受けさせる……それが、最もスタンダードでベターな選択なのだろう。

 だが、楓を奪われては、それは、自分の幸せが遠のくことと同じだ。それが、自分勝手な考えなのはわかっていた。楓を利用して、ここから出ていくという手段にしようとしているにすぎない。レイは黙りこくるほかになかった。

 達也は正論で、さらにレイを責めた。

「そこ……頬、腫れてますね。弟がやったんでしょう?」

「え……」

「あなたにも、危険が及びますよ」

「……」

 レイは考えた。なんとか、なんとかこの場を切り抜けなければならない。

 楓を思い出す。昨晩、無言で、スペアの鍵を受け取ったが、しばらく眺めていたのを知っている。今、本当に、彼のためになる選択をしたい。しなくてはならない。

 こちこちと、時計の音が響く。短い針を、長い針が追いかけ回していた。


 一方で、レイが達也と話す、と出て行った後、楓はひとり、荷造りを始めた。もちろん二人分だ。もう、ここにはいられない。どんな問題があろうとも、逃げなくてはならない。レイが達也の件を話したのは、だいぶ前だ。レイに拾われて部屋へ上がり込み、少し眠ったあとに、初めてまともに会話をした。その時にレイは、あなたのお兄さんが探してたよ、と言った。さらにレイは自分の名前や、殺人事件の容疑者である旨を知っていた。それは達也からの情報だったのだろう。

 階段を降りる。レイと、カウンター席に座る達也が見えた。裏口に回って、そっと、音を立てずに入る。バイクに触れないようにして、バックヤードに入る。ふたりが話しているのが聞こえた。

「井川さん」

「……」

「楓を、渡して下さい」

「……」

 楓は、立ち止まった。

 ……レイの返答に興味があったからだ。

 自分は、もう、レイを置いていくつもりはない。しかし、それば自分の独りよがりなのかもしれないと思ったからだ。レイはかたくなに、自分の問題を開示しようとしない。もう出て行く気は失せていて、今ここで、達也に、自分を引き渡すと言ってもおかしくはない。むしろ、善良な人間であればそうする。

 そうなれば……。自分は……。


「あ、あの、か、楓は……」

 レイが、上を向いて、しっかりと達也を見た。

「楓がどう言うか、聞くべきだと思います」

「井川さん、何度も言いましたが、弟は精神的な問題を抱えていて、まともじゃない。彼の意思に従うことイコール彼のためになるわけではないんです」

「だ、で、でも、そんな、決めつけて、おかしいと思います」

 達也の理路整然とした正論に、レイはしどろもどろながらも、一生懸命に伝えていた。

「精神的な問題って言うけど、たしかに、最初は怖かったけど、今はふつうに、いいひとだって、俺は思ってます。か、楓が、殺人犯だっていうのも、俺は信じない、いや、そうだとしても、楓は悪くないと思う」

「……井川さん、何が言いたいのかよくわかりません」

「楓のことは、ほっといてあげて下さい」

「……」

「か、彼の、楓の友人として、言いますけど、それが一番彼のためです。自由にさせてあげて下さい……!」


 レイは精一杯を伝えた。たとえ、自分が、楓といれなくても、楓にはせめて、逃げて欲しいと感じた。

 あの日、川沿いの遊歩道で話した夜、なんとなく、彼にはきっと海が似合うと思った。自分とでなくてもいいから、どうか、海風といっしょに、苦痛なく居られるような場所が見つかって欲しい。

 お守りを無くさないでいてくれると嬉しい。

 この、ささやかな日々のことも。


 すると、達也がため息をついて、無言で立ち上がった。二階へ向かうのかと思い、レイは阻止しようと、カウンターを出た。

「いたっ」

 達也がレイの腕をつかんだ。

「わかりました。じゃあまず、あなたを警察へ連れていきます」

「は⁉︎」

「随分と弟と仲良くなったんですね。あなたは殺人の共犯です。当然、有罪になるでしょうね」

「……!」

 ぐ、とそのまま、店の入り口へ引きずられる。達也はレイが到底敵わないような力だった。



「待て!」



 楓だった。

 レイは先日の、警察官との騒動を思い出した。あの時も、かばってくれたのは楓だった。



「レイをはなせ」

 達也は、ぱ、とレイの腕を離した。レイはすぐに、楓の方へ駆け寄った。

「楓」

 達也は、感情をまったく乗せずに、楓の名を呼んだ。情報が正しければ、弟であり、それと同時に家族を殺害した加害者にあたるのだ。

 楓は無言で、達也を睨んでいた。どんな関係性かは、窺い知れない。

 ぴんと張り詰めた空気の中、達也はわざとらしくスマホをかざしてみせた。

「今、通報されたいかな? そしたら、ふたりともアウトだ」

「……」

「楓、おとなしく、着いてくるんだ。そしたら井川さんのことは、誰にも言わないから」

 絶対絶滅だった。達也は明らかに自分たちよりも背丈があって体格が良くて、ふたりがかりでもなんとかできそうにない。

 逆光がどうにも、達也をより不気味に感じさせた。

 すると、レイが、楓をかばうように、一歩、踏み出した。

「は、羽賀さんは、楓を連れていきたいんですね……?」

「そうです。兄として、唯一の家族として、責任を持って、面倒を見ます」

 レイはしっかり達也を見て、発言した。

「い、今、目の前にいるのが、ほんとの楓じゃないかもしれないとしたら……?」

「は……?」

「……!」


 レイの、突拍子もない発言に、達也はあからさまに動揺した。意味がわからない。レイと、楓以外には。

 もしかしたら、今まで、問題だと思っていたことが、この場を切り抜ける突破口かもしれない。

 レイは今まで、誰にも打ち明けてこなかった自信の欠落を、切り札にしたのだ。

 楓のために。

 友のために。


「俺と、楓と、もうひとりが、俺たちの中にいます。今も、誰が、誰なのか、わからないとしたら……?」



——————




「と、到底、理解しかねる、ことだったんですが……」



 レイは、いくつかをごまかして、達也に伝えた。楓は黙って聞いていた。


「か、確認をしても……?」

「どうぞ……」

 達也はこめかみのあたりを抑えて、伝えられた事実を改めてゆっくりと解釈した。


「井川さんは、多重人格で、もうひとりの井川さんがいる……」

「はい」

「それが、そのもうひとりの人格は、井川さんだけじゃなく楓の中にもいることがある……」

「そうです」

「そ、そんなことが、あり得ますか……?」

 レイが、まったく真剣に、達也を真っ直ぐに見て言うので、達也にも、レイが冗談を言っているわけではないというのは、充分に伝わった。

「もうひとつ」

「……」

「俺たちは、入れ替わって、生活してたんです。都合のいい時に、楓が俺になりきって、俺は楓になって……」

「は……はぁ……」

「自分が、今、どっちなのか、わからない時があります。楓なのか、レイなのか、もうひとりの人格なのか……」

「……」

「だから、あなたが、見た目だけで楓を選んで連れて行っても、それは楓じゃないかも。俺かもしれないし、もうひとりかも」

「……」

 達也はふらふらとした足取りでカウンターに手をついた。理解ができない。

 レイの話は、この場を切り抜けるためのまったくのでたらめかもしれない。それにしては、いやに真剣で切羽詰まっている。

「か、楓……」

 弟を見る。弟も、自分を見た。出て行った時と髪型や髪色が違う。人相までも違うような気がした。隣の、井川という男に似ているような気がする。……本当に、自分の弟なのだろか?

「今の話は本当か……?」

 楓は、頷く。

「……」

 沈黙。

 引いたのは、達也の方だった。

「井川さん……楓、また、来ます。少し、状況を整理したいので……」

「……」


 達也はバーを出て、ふらふらと駅の方へ歩いて行った。



「か、楓」

 レイが、楓を見る。達也はもういない。ふたりきり。

 なんとか窮地を脱したのだ。

 楓はふぅ、と息を吐いた。いや、レイもだ。

「レイ、おまえ……」

「あ、の、ごめん。言えなくて、俺……」

「言いたくなかったのに、どうして……」

「そりゃ、だって、助けなきゃって……」

「……」


 達也の出て行った後のバーは驚くほどしんとしていた。楓はまだ、落ち着かない気持ちだった。自分の呼吸音が嫌に大きく聞こえている気すらした。しかしゆっくりと深呼吸をすると、そこはもうとっくに慣れた、いつものバーの匂いだった。カウンターの木目は相変わらずハゲているし、レジはセロハンテープの跡が汚い。

 ようやくレイを見た。

 レイはあれほど、自分の問題について話すのを嫌がっていたのに。

 自分のために。

 今まで誰かが自分のために何かをしてくれただろうか。いつか誰かが、なんてのは信じなかった。だから、自分でやるしかなかった。

 レイの動機が自己満足でも他力本願でも何でもかまわない。……レイは、自分に尽くしてくれたのだ。できるかぎりをしてくれていたのだ。いつだって。

 レイを疑ったのを恥じた。

 いよいよ、レイを置いていく選択肢はなくなった。今ここでレイを失えば、自分はまた、ただの、逃亡している殺人犯に成り下がる。今は違うと、はっきりと言える。レイになりたかったわけでもない、レイのようになりたかった。普通の人間になりたかったその本質が、わかる。レイは、楓のために、自分の情報を開示した。それは自己犠牲という、強さだった。……そういうところを、真似したかった。

 自分も、レイのために何かをしなくてはならない。自分を犠牲にしてでも。人間として。友として。


「何があっても、お前を見捨てない。絶対に……。一緒に、行こう」

 レイは頷いた。そして、シャツの胸ポケットから、何かを取り出す。

「こ、これは、昔の清野医院の診察券なんだけど……」

 楓は受け取って、表と裏を見る。手書きで、ラミネートされている。内科、循環器内科、心療内科とある。ほかに診察日などが買いてある。発行されたのが平成十年。井川レイ、とある。

「今の清野先生のお父さんがね、俺が小学生の低学年のころまで、先生だったの。心療内科……つまり、精神的な問題の方も診ていて、もう歳で引退されたけど、今でも、街のひとの相談とかに乗ってる……」

「……そこへ行くっていうのか」

「情報は、いくつか隠して……相談したら、ちょっとは、解決しないかなって……」

「……」

 選択肢はあるようでなかった。時間がない。

 レイはあくまで地域のかかりつけの内科として通っていて精神的なことについては相談をしたことがないという。しかし、現在の清野医院の院長にあたる医師、つまりレイ、楓双方が診てもらったばかりの方の清野は地元民からもあまり信頼されておらず、特に老人はいまだに、とっくに引退した父親の方を頼りにしているという。町内会のことにも詳しく、たとえば水道管がどう通っているとか、空き家の持ち主だとか、様々な知識があり、地域に深く貢献している信頼できる人物だという。

「いつから考えてた」

「き、きのう、かな。……考えるって言ったでしょ」

「……」

 レイがちゃんと、自分、つまり問題に向き合おうとしたことを認めたかった。

 なので楓は大人しく従い、ふたりは急遽、清野喜一という医師を訪ねることになった。



——————



 喜一の家は、レイの家から歩いて二十分ほどだった。楓は、レイの家のあたりでも十分に田舎だと思っていたのだが、二十分歩いただけで随分と山が近い。家々はどんどん減って、田んぼと畑が増えて、鳥の声がする。いよいよ信号がなくなって、山裾には大きな寺と大きなイチョウの木が伺えた。

 橋を渡って、少し高台へ坂道を登る。喜一の家はこじんまりとした平屋で、駐車スペースや庭こそ田舎らしくひろいものの、家屋自体は終生の家らしいつくりで、スロープに手すりと、引き戸だった。楓は庭先や、カーポートを観察した。新しくて、きれいだった。不審な点はない。少し離れたところに別の家がある。そこも、ちらりと観察した。止まっている車は無人。警戒を解く。

 アポなしでの訪問だが、レイは気にせず、インターフォンを押した。皆そうだという。しばらくして返答があって、レイが話がしたいと申し出て、中に入るように促された。


 道中、ふたりで、ずいぶんと、話すことについて相談した。もちろん、楓の正体は避けつつ、ふたりが精神的な問題を抱えていることや、それについての問題。最終的な解決法を探ろう、ということになった。

 ふたりの目的は定まっていた。互いの問題を解決して、この町から出ること。ふたりで、出ていくこと。

 おじゃまします、とレイは丁寧な仕草で中へ入った。やたらと手すりが多くて、下駄箱には杖があった。流行りの作りらしい回遊導線で一瞬迷ったが、大きい方のドアがリビングだと察せられた。あまり段差のないかまちに、廊下も広くとってある。物が無くてまるでモデルハウスのようだ。無垢材のふんだんに使われた贅沢な平屋は、木の香りで満たされている。

「えーと、こんにちは……」

「どうぞ、かけて」

 リビングへ入る。

 ソファに老人がいて、ふたりに着席をうながした。楓は、田舎の老人にしては上品だと感じた。レイの家の周辺の人間に比べると、である。

「先生、すみません、突然。えと、井川の……井川二郎の孫です。流し坂のとこの」

「あぁ」

 レイは祖父の名前、住んでいる場所を名乗った。もちろん、これで通じるのが田舎の嫌なところだと、レイは思っている。

「小学生の頃が懐かしいね」

「え! 覚えてます、か?」

「鉄棒から落ちた時に来たでしょう。学校の先生と……」

「あ、懐かしい……そうだ……」

 レイは楓に、それで学校中で逆上がりがしばらく禁止になったとはにかんで伝えた。レイの昔の話。楓は、いつか、もっと聞こうと思った。自分にはない思い出を持つもの、その話を聞くのは新鮮に感じた。目だけで室内を確認した。一般的なリビングダイニングで、小さめの和室もある。新聞や、多肉植物、配達の牛乳の空き瓶がある。

「えと、先生、こちらは友達の羽賀楓です」

 楓は頭を少し下げた。レイと決めたことは、話すのはレイで、楓はしゃべらないようにする、ということ。

「実は、俺たち、ふたりとも精神的な問題があって、それを、話を聞いて欲しくてきました……」

「そうなんですね。若い人が来てくれるのは珍しいので……こんな隠居爺でよければ、なんでも話してください。もちろん、誰にも口外しませんから」

 喜一は穏やかで、ふたりを安心させるような雰囲気だった。大きな吐き出し窓からは手入れされた庭が見える。まるで下界と切り離されたかのような、天界などというものがあればこういう所だろうと想像させるような田畑と山々が広がっている。

「えと、じゃあ、さっそく、あの、俺は……た、多重人格ってやつで……あ、わ、わかりますか」

 レイは包み隠すことなく、まず、自分の情報を話した。

「はい、ええ、もちろん。ひとによってケースが違うのですが……」

「あ、で、ですよね、で、その多重人格の、もうひとり、人格がいて、そいつ、それが迷惑で、そのあまり良くない性格で……で、こっちの、楓も、楓は……ときどき、記憶がなくなるって感じで……その、それで、その時に、俺、あー、すみません、なんか説明へたで、それで、そういうのってあるのかなって……」

「なるほど……」

 計画通りにはいかない。どうにも、隠し事をしながらでは、予行の通りに話せなかった。さらに言えば、一番の問題点である、楓の方にレイの人格がうつっているのでは、という点を、レイは伝え忘れた。緊張していたせいだった。

 しかし、一連の流れすべてを理解しているはずの楓が聞いても支離滅裂なレイの説明を、喜一はゆっくりと確実に理解して解釈していた。

「では、話に来た目的は、問題の解決ですか」

「そう、ですね」

「問題の解決とは、何でしょうか」

「え……」

「井川さんの多重人格の場合は、もうひとりの人格がなくなること。お友達の、羽賀さんは、記憶障害がなくなること、ですよね」

「は、はい……まぁ」

「そのためには、なぜ、問題を抱えるようになったのか、その、原因を知る必要があります。それは、話すことはできますか? たいてい、過去の辛い出来事がきっかけだったりするのですが……」

「……」

 レイは楓をちらりと見た。無言で腕を組んで、ソファに深く腰掛けている。足を開いているので、それが、自分の足に当たっている。あたたかい。喜一とはまったく、目線を合わせていなかった。

「えと、俺は、多分、祖父とか、父とかが嫌で……それでってかんじ、かも、です」

「そうだったんですね。話してくれてありがとう」

「……」

 レイは楓をうかがった。しかし、反応がない。

 楓は話す気はないようだった。

「か、楓」

「……おまえが話していい」

「あ、そ……う? わかった」

 レイが持っている楓の過去の情報は多くはない。虐待されていたこと。逃げ出したこと。他は、喜一には話せない。

「楓は……家族に暴力を受けていて……それでだと思います」

「そうですか……井川さんも羽賀さんも、よく勇気を出して、相談してくれましたね」

 それは、心療内科へ来た患者へのテンプレートのように感じた。しかし、喜一から聞くと、心の底からそう言っているように感じ、不思議だった。

「問題の解決としては、原因を取り除くのが良い方法です。たとえば、ふたりがおっしゃる、苦手な家族と縁を切って、離れることです」

「俺は、もう、祖父も、父もいないんですけど……」

「ええ、そうでしたね。それでは……まだ、あのご実家に? 環境を変えたほうがいいかもしれません。失礼な言い方ですが、あの家にいない方がいい。嫌な思いをした場所そのものが原因かもしれません」

「……」

 レイはやはりと、感じた。薄々、そうも考えていたのだ。生活は、裕福ではないにしろ安定はしていた。それを嫌って、漠然とした都会へ行きたいなどという、ティーンエイジャーの夢物語のような夢想を抱いていたのは、どこか本能からの警告だったのかもしれない。

「羽賀さんの方は……失礼ですが、虐待は、ご家族のどなたから?」

「……」

 楓は答えなかった。いや、答えられなかった。左利き。それはわかる。あとは、ぼんやりとしていて思い出せない。大柄で、確かに男なのもわかる。

「か、楓……」

 何か、情報を開示しないといけない。楓にもわかっていた。レイは、楓を守るために、あれほど嫌がっていた自信の問題を、打ち明けた。自分も……。

「っ……」

 ずきん、と頭痛がする。

 思い出そうとするとこうだった。楓は頭をかかえる。

「か、楓!」

「無理をしないで」

 喜一は立ち上がり、キッチンへ行って、ペットボトルのお茶を二本持ってきた。レイと楓それぞれに勧める。

「あ、す、すみません、ほんとに……」

「いいんですよ。羽賀さん、今日はもう、お話は中断しますか? 私はいつでもここにいますから、また……」

「い、いや……」

 初めて、楓が喜一を見た。

「話したいと……思ってる」

 額にはうっすらと汗がにじんでいた。レイは痛々しいような表情で楓を見ていた。力になれない問題だからだ。

「思い出せないんだ。思い出そうとすると、頭痛がする。……多分、父親のはずだ。左利きで、大柄だった……俺はいつも、あいつに……」

「羽賀さん……」

「え、左、左利き?」

 レイが発言をした。利き腕の情報が、ひっかかった様子だ。喜一がレイを見た。レイはすぐにすみません、と言った。

「羽賀さん、羽賀さんは今ご家族と住んでいらっしゃる? やはりあなたも、環境を変えるべきです。精神的、肉体的な苦痛の原因そのものを消さなくてはならない……」

 消す。

 消したはずだ。

 両親はもういない。自由だ。もう誰も、自分を殴らない。腹の柔らかい所を蹴られたり、冷たい水に沈められたりはしない。室内を見回す。ゴミ出しの曜日の確認のポスターが、壁に留めてある。……画鋲で。

 嫌な記憶が蘇りそうで目を逸らした。はさみ、コンセント、ソファの足……。日常のあらゆる物が、自分を痛めつける道具だった。もう、違うはずだ。もう……。

 では何故、自分の問題は、消えない?

「楓、大丈夫? 外行く? もう、か、帰る?」

「……」

 楓の顔色が悪いのは明らかだ。しかし、楓は小さい声で、レイに、本題を忘れるなと伝えた。それぞれの問題は伝えた。最後は、ふたりの問題のことだ。

「あ、そうだ、あの、先生、それで、えと……」

 話を切り替えるように、レイが発言する。楓を気遣ったのだろう。

「も、もうひとつ問題があって、そっちの方が深刻で、けど、なんかありえない話というか、信じてもらえるかわかんないんですけど」

「信じますよ」

 いぶかしげに、レイは、楓と喜一の双方を見た。このまま話を続けていいのか。

「その、お、俺のもつひとつの人格が、楓にうつることって、あ、ありえますか……?」

 楓が立ち上がる。ガタン、と目の前のテーブルにぶつかりながら外へ向かう。

「か、楓!」

「ここにいて下さい。私が……」

 レイをリビングひとりにして、喜一はゆっくりとした足取りで楓を追った。玄関の引き戸の音がして、レイには、ふたりが庭へ向かったのだとわかった。

 昼下がりの陽気は午睡を誘うような生暖かい風を運んでいて、楓は心底、自分がこういった場にそぐわないと感じた。

 自分の居場所が、わからない。そんなものないのかもしれない。まともなアイデンティティを持たない自分には。

 こんな、こんな平穏に包まれるような望みは、叶わないのかも知れない。

 ガレージの前に楓がいて、喜一は杖をついてゆっくりと近寄った。

「羽賀さん、大丈夫ですか」

 立ち尽くす楓は、もちろん大丈夫には見えなかったが、声をかける。

「……俺は、いいから。レイの質問の、答えを教えてくれ……」

 絞り出すような声で、喜一はこれ以上は近寄らずに、楓の背中に答えた。

「症例としては、初めて聞きました。自他境界が曖昧で、他者の発言や出来事を自分のことのように感じてしまうという、似たような症例はありますが、うつる、という表現とは適さないように思います」

 ここで、楓がようやく振り返る。

「嘘だって思ってんのかよ」

「そんなことはありません。ただ、うつる、というのは、少々ありえないので……私の考えを話しても?」

「……」

「ふたりとも、変わりたいと思っていませんか? 今の自分を捨てて、新しい自分になりたい、と……。羽賀さんは、井川さんのようになりたいと思ったことはありませんか?」

 喜一の問いかけは的確だった。

「その気持ちが、井川さんから強い影響を受けることになり、もうひとつの人格の分も影響を受けた……。そんな所かとは、思うのですが……」

「……治るのか」

「治る……そうですね、治る……。やはり、心の傷を作り出した原因を取り除くことでしょか」

 解答は先ほどの同じだった。すると、レイが来た。じゃりを踏む音は、やや重たい。

「先生、か、帰ります。今日は、ありがとうございました」

「いいえ、お役に立てず申し訳ない」

「そんなことないです。ほんとにありがとうございました。楓、行こ?」

「……」

 レイについていく。ふたりの背中に、喜一は声をかけた。

「変わりたいという気持ち……きっと、叶うと思います。ひとは、変われます。何にでも、いつだって、自分を変えられる。だから、夢を持って前に進んで下さい。障害を乗り越えて、理想のライフスタイルを追求するんです。」

 あなたたちはまだ若い、と喜一は最後に言ってくれた。

 レイはもう一度ぺこりと頭を下げて、ふたりで帰路についた。



——————


 元の道を往路するだけだが、だんだんと夕方の気配がしてきた。日の傾き、風の強さと匂い。ふたりはしばらく無言で歩いた。

 来る時にも通った橋へ差し掛かる。向こうにコンビニが見える。左折すれば、家への帰り道だ。橋は欄干が低くて、下はうっそうとした木々と、浅い川が見えた。川への距離はかなりの高さで、落ちたらあっさりと死ぬ。

 レイはもらったペットボトルのお茶をひとつだけ持ってきた。

「ちゃっかりしてんな……」

「のど渇いてるかと思ったから」

 楓は欄干に寄りかかって一口飲んだ。まずい、と言った。レイにペットボトルを返す。

「どう、思った?」

「あ?」

「原因を消せって」

「……」

 レイに関して言えば、ここを出ていくとが解決策そのものになり得そうだった。そうしたら、もうひとりの自分は消える。つまり、ふたりの問題もおそらく同時に消える。しかし、楓の抱える方の問題の解決の糸口が、見えない。

「なんか、ごめん。思い出すの、いやだったよね。ごめん……」

「謝るな」

 過去はどうでもいい。今は、未来があると信じることができるから。しかしそのために、過去の清算をしなくてはならない。

 やってみたい、叶えてみたいことがあるとしても、いざ実行してもうまくいかなかったり、続かなかったりして、理想は叶わない。そんなことは人生では往々にして当たり前のことで、誰にでもある理不尽で、誰にでもあるありふれた小さな絶望。

 贅沢が欲しいわけではない。ただ、ひとつだけ、叶えばいい。

 ぼんやりと風景とレイを見ていたら、レイが、ペットボトルを開けようとして、できなくて、四苦八苦していた。

「おい……」

「あ、ご、ごめん。なんかこっち力が……」

 レイは腕をぷらぷらと振った。

 様子がおかしいので、レイの左腕を掴んだ。

「いたっ」

「!」

 袖を捲ると、あざのようになっている。

「これ……どうした!?」

 知らないケガだった。毎日顔をあわせているので、あり得ない。

「あ、あの、さっきだと思う。えと、あなたのお兄さんが、腕掴んできたとき……すごい力だったから……」

 さっき。

 バーで達也と話した時のことだと気がつく。たしかに達也はレイの腕を掴んでいた。赤黒く指の跡がくっきりと付いていて、楓は舌打ちをした。もっと早く追い出すべきだった。ペットボトルを受け取り、キャップを開けてやる。

 その様子に、レイはまじまじと見入る。

「……あなた、左利き?」

「は?」

 喜一の家でも、レイは似たようなことをつぶやいていた。

「い、今、えと……その……」

「こんなの、利き腕もクソもないだろ」

 レイは受け取ったペットボトルを神妙そうに見て、一度、楓を見た。

「……あのさ」

「何だ」

「た、達也さん、左利き、だよね」

「……」

 レイの家の裏の川よりもずっと長大で、整備されていない自然のままの川は、原子的な調べを奏でている。ざぁざぁと規則正しい同じ音が続く。

 達也。羽賀達也。兄らしい。血縁なのはおそらく事実である。それ以外には、記憶があまりない。

「体格、あなたのお父さんに似てるよね」

「……」

「あなたを拾った跡すぐに、達也さんに会った。あなたを探してるっていうビラと、家族写真を見せてもらった」

「何が言いたい」

 夕焼けのグラデーションが雲を染めている。

「あなたが、ご両親を殺したんじゃなくても、ご両親が亡くなったのが事実なら……あなたは、自分を苦しめる原因を消したはずじゃない」

「……」

「なのに、まだ、苦しんでる」

 また、頭痛がした。その先を聞いてはいけない気がしたから。

「あなたのお父さんの利き腕はわからないけど……」

「……」

「達也さんは、左利きだよ。ビラをもらった時も、バーでお水を出した時も、左手使ってるの、見たから」

「……それ、は」

 それは、つまり。

「あなたを……あなたにひどいことをしていたのは、達也さんなんじゃないの?」



 ——————


 九、真実の近く



「……」

 ごお、と橋の上を大型トラックが通った。体でも十分に感じるほどに、橋が揺れる。小さい頃にレイは母親も散歩にきて、こんな大きな橋なのに、と言った。揺れるから壊れないのだと、母親は説明した。

 揺るぎないものほど、脆いのだと。


「……」

 楓が無言なので、レイは待った。

 もし、レイの仮説が正しければ、話はまた別の方向へシフトする。

「わ、わからない……」

 楓は、何ひとつ取り繕うことなく答えた。本心を。

 横顔から困惑が伝わる。

「……だよね」

「……わからないけれど、あり得るかも、しれない」

「うん……」

 その場合、逃げ切れていなかったことになる。それどころか、見つかったことになる。

「達也さんは、あなたが虐待を受けていて、正当防衛で、両親を殺害したって言ってた」

「……それも、わからない。記憶がないから……」

「そっか……」

 所々記憶が無くなるし、覚えている部分ですら曖昧なので、すべてに確証がない。わかることがあれば、これから先の未来に期待をしていること。過去を捨て去りたいと思っているということ。

「もし……」

 レイが続ける。

「もし、そうだとしたら、達也さんと向き合って乗り越えれば、あなたの問題も、解決するかも……」

「……」

 そうかもしれない。

 父親か達也のどちらかが自分を加害したいた。父親は死んだ。残るのは、兄のみ。

 このまま後生をすべて逃亡生活をするとしても、達也が生きていては、地の果てまでも追ってくるのではないか。そうじゃないとしてもそれを危惧して生きていくことになる。

「……向き合うって」

「それは……」

 方法としては達也としっかり話すのが一番だろうが、結局のところ自分は殺人の容疑者なことに変わりはない。

「ほっといて下さいって言って……」

「さっきお前が言ってだろそれ。通じたか?」

「本気だって……伝えなきゃ」

「どうやって」

「……か、楓さ、はじめて会った時は、俺のこと、脅してじゃん。そんな感じで、怖い思いさせる、とか……?」

「……」

 レイは控えめに言った。レイにしては過激な発言だった。達也にそれが通用するかどうかは別として。楓の中には、違う妙案が浮かんだ。


 原因を消す。

 つまり、達也を消す。



 達也を、殺す。


 もう、ふたり、殺したことになってる。なら、あとひとりくらいたいした差ではない。



 楓は、それがいいと言った。レイは、ぱ、と顔を上げて楓を見た。ふたりからすれば一気に問題の解決策が浮かんだことになるからだ。


「だ、だよね、あんまり、その、暴力とかそういうんじゃなくて、なんか、考えなきゃだけど……」

「今日、やろう。呼び出そう」

「わ、わかった」

 そして、今夜レイが、達也を呼び出すことになった。

 レイが達也を油断させて、そこに楓が乱入して……と、いくつかレイが案を出す。楓はそれを話半分で聞いた。もう、楓の中では、達也をどうするか決まっていたから。できれば、レイには、その場面を見せたくない。だから、そこをどうやりくりするかを考えながら、帰路についた。


 ______




「……」



 バーへ戻り、いよいよ達也を呼び出す計画を実行するはずだった。

 誤算が生じた。

 家の前に大谷と畑山がいる。バーの前を、ふたりでうろうろしている。遊歩道の方をうかがったり、二階への階段を行ったり来たりしている。今日はふたりともきちんと、警察官らしい服装をしている。

 家にたどりつく寸前で、ちょうど坂道の上からその様子が見えて、ふたりは向かいの廃旅館の裏へ周り、大谷と畑山の死角で身を潜めた。

 これでは、家に入れない。達也へ連絡をとりたいし、金が心配だ。レイのスマホは達也の連絡先を控えていなかった。

「お、俺だけ行こうか? あなたは安全な所に……」

「あいつらが達也みてぇな手段に出たらどうする」

 つまり、レイを連行して、楓を釣り上げる手段に出るかも、ということだ。普段ならばもうすぐ開店準備のためにレイがバーへ降りてくる頃合いなので、大谷と畑山はそれを待っているのだろう。

 楓は逆に、自分が囮になるのもアリだと考えた。少し姿を見せて、逃げる。この辺は数日歩いたことで地理は掴んだし、廃屋、空き家もあるので、隠れるのには困らない。その隙に、レイが家へ入ればいい。

 それを、レイへ伝えようとした時だった。


「ふたりとも」

「!」

 背後から、聞き慣れた声。

 振り向くと、達也がいた。まだ、呼び出してはいないはずだ。

「車へ」

「……」

 達也の後にはグレーのセダンが停まっている。古い形に見えた。達也のような世代が乗るようなものではないとレイは感じた。

「大声を出したっていいんだけどな」

「……」

 楓とレイは顔を見合わせた。先手を取られた。まずい。

「楓だけだ。井川さんはここまで」

「ちょうどいい。俺もお前とサシで話したかったよ」

「楓! 危ないよ!」

 ピンチに見えるが、チャンスでもある。計画は破綻したが、楓は自分の計画を実行しようと考えた。達也の車に乗り込む前にレイに話しかける。

「必ず戻る」

「そ、そんな、どうしたら……」

 戸惑うレイに自分の身の安全だけを考えるように伝えた。レイを残して、車は去っていった。


 まずい、どうしたらいいのか。達也の目的は? どこへ楓を連れていったのか? 予想のとおり、達也が楓を虐待していた張本人だとして、もしかしたら楓を更生させるなどというのは建前で、また殴ったり、ひどいことをするのではなたいか?

 楓を助けなくては。

 レイはうろうろとして考えた。みっともなく老婆している自覚があった。しかし手段がない。車もなければ、楓はスマホもなくてGPSも使えない。思えば、ふたりのことを何も知らない。情報がない……。自分に使える手札は、あっただろうか。

 廃墟の片隅で、今にも崩れ落ちそうな壁や、割れた窓が冷たくレイを見下ろしている。わかることはただひとつ。。自分ひとりの力で何とかしなくてはならないということ。

 ひとつ、思いついたことがあった。


 ……達也を一度退けた、あれ。

 あの時自分の問題をあの時打ち明けたのは、楓を守るためだった。もう一度、使えないだろうか。自分を。楓を。もうひとりの人格を。自分のもつ、すべてのアイデンティティを。


 レイは、一度、大きく深呼吸をした。廃墟の壁沿いを進む。道路を挟んで目の前が自分のバーだ。ふと、道路と石畳の境目が、きちんと綺麗に掃除してあることに気がついた。楓がやっていてくれたのだとわかった。……楓を助けなくてはならない。

 大谷と、畑山のいる方へ向かう。さっそく、レイを見つけたふたりが近寄ってくる。

「レイちゃん、どこ行ってたの? 最近休み多いね、大丈夫?」

「お友達に連絡ついたか?」

 大谷はレイを気遣うふりをみせたが、畑山は目的を単刀直入に尋ねてきた。腐っても警察だ。このふたりを、これから、使う。自分に、そんな芸当は可能か。いや、やらなくてはいけない。

「……レイじゃない」

「え?」

「は?」

「俺は、レイじゃねぇって言ったんだよ」

「……」

 場がしんと、静まり返る。大谷と、畑山は顔を見合わせた。


「俺は、羽賀楓だ。あんたらに、話がある」




 ——————




 電車通り沿いを走って、大きな駅の方へ向かう。ふたりとも無言だった。古いセダンは乗り心地も悪くて、やはり達也が乗るようなものには見えなかった。今のうちに達也を観察した。兄弟。確かに、自分たちは似ている。父親の顔は思い出せないが、記憶の端々に達也の顔が浮かぶ。仲が良かった記憶はないが、何回かふたりで外出したような記憶がある。その時に、金の使い方や、公共の乗り物について学んだ。

 いつのまにか外は真っ暗になっていた。途中で国道に沿って進み、レイの家のあたりよりも大きな街の方へ走る。白骨化した遺体が見つかったことで話題の大型のショッピングモールの建設地を取り囲むフェンスが見えてきた。ただの大きな白い壁だが、二年後の秋にオープンすると書かれている。広大な土地を整地していると新聞で知った通りに、見たこともない大きな機械がたくさんあった。ただ、今は、事件のせいで工事を中断している。そのモールの開発に伴って周辺は建売がたくさんできたり、小学校が新築されたりしている。そのあたりは、現代らしいサイズの新築で、若夫婦と子供が入居していて、活気があった。

 そこを通り過ぎて高台の住宅街へ向かった。こちら側はかなり前に開発された所で、スーパーや駅も遠く、不便で、高齢化が進んでいる。家々も古いデザインで、なんとなく錆びれている。

 住宅街の一番端の、一軒の家の前で、ふたりの車は停まった。立派すぎるような門構えに、塀と庭木で、視界が悪い。極一般的な二階建てよりも広いように感じる。自分も達也も、裕福な家庭の出なのだろうか? 考えればばそうかもしれない。そうでなければ一億もの現金があるはずがない。

 車を降りるように言われて、楓は従った。周りの民家から、暖色のぼんやりとした灯りがこぼれていて、在宅をうかがわせるので、いくら達也でも下手なことはできないはずだと、楓は考えた。


「何が目的だ」

「お前に罪を認めて欲しいんだ。そこがスタートだ」


 達也が家の門を開ける。ドラマのように規制線が張られていたり、ブルーシートで覆われていたりもしない。自分が逃げてきてからだいぶ経つので、いくら殺人の現場でも、もう捜査することも無いのかもしれない。達也について行く。記憶が途切れ途切れなので、自分の家がこんな門構えだったのか、思い出せない。もう二度と戻らないと誓い、とにかく走ったので、詳しくはわからないのだ。庭先もよく手入れされている。ささやかにガーデニングをしてあって、ペチュニアやノースポールが植えてある。しかし、もう誰も手入れをしてないせいか、枯れかけている。

 頭痛もしないし、吐き気もしない。楓はいやに冷静だった。達也を、始末する機会をうかがった。ちゃんとパンツのポケットにいつも通りのナイフがある。それから、レイにもらった、家の鍵。楓の持ち物はふたつだけだった。充分だった。

 仰々しい両開きの扉を片方だけ開けて入る。ネームプレートは無かった。中は暗い。電気を止めてあると達也が説明した。

「懐中電灯を出すから」

「……」

 嫌な予感がすると、楓は思った。それから、玄関を開けてからずっと臭い。何か、言い表せないぐらい強烈な匂いがする。鼻につく魚介の生臭さに、発酵したような酸味の匂いと、カビのようなすえた匂いがまざったようなそれに、楓は顔しかめる。しかし、達也が懐中電灯で廊下を照らした時、その正体が判明した。

「!」 

 壁、床、靴箱、あらゆる所に、血が飛び散っている。

「覚えてないか? お前がここで、ふたりを……。警察は、こういうのは掃除はしてくれないんだ」

「……」

 当然、覚えがなかった。楓は達也を無視した。辺りを見回す。立派な玄関には、鏡がある。靴箱も大きい。いちいち装飾がついていて、レイの家のような、ホームセンターで適当に揃えた家具とは違った印象を受ける。こんな場所で自分は生活していただろうか? 覚えがないどころか、初めて見るようにすら思えた。

「こっちへ」

「……」 

 着いていく。玄関先で達也を殺すのはまずい。住宅地なのですぐに人に気づかれる。家の、奥がいいと思った。達也が背を向けたら、肝臓のあたりを、刺す。楓はシュミレーションを重ねた。達也は左利き。右からなら、きっと……。

 やたらと長く広い廊下を経て、リビングへ向かう。リビングだとわかったのは、いかにもな扉だったからで、それも、あまり覚えがなかった。廊下には階段と、複数の部屋があるのがわかった。物が無くて、整理整頓されているように感じた。

 達也がリビングの扉を開けた途端、ひどい匂い強くなって、楓は思わず鼻を押さえた。

「う……」

「楓、見るんだ」

 達也に背中を押されて、リビングへ足を踏み入れる。

「……!?」

 達也が、懐中電灯を、足元へ向けた。

 血溜まり。乾いた血溜まりが見える。どす黒く酸化している。それを辿ると、手、足、そして、胴体……。


「……は⁉︎」


 そこには、初老の男女ふたりの遺体があった。


「なっ」


 おかしい。警察が遺体をこのままにしておくはずがない。罠だと気づいた頃には遅かった。


「ぐっ」


 ガツンと後頭部と、首のあたりにかけて、激しい衝撃を受けた。脳が揺れる。鋭い痛み。くらくらとして、立っていられなくて、床に倒れ込んだ。床の血はよくわからない体液のようなものと混ざり合ってまだぬめぬめと水分を持っていて、楓はそこに腕をつくことになった。

 振り向くと達也が、鉄パイプのようなものを振りかぶっていた。二撃めは、腕で受け止めた。

「ぐあっ」

 達也の体重が思いっきり乗った鉄パイプの一撃は皮膚と筋肉を痛めつけて、骨を軋ませた。

 ひどい痛みだが、楓は痛みには強い自覚があった。むしろ、今ので、くらくらとしていた頭が覚醒する。遺体の、女の方がしていたネックレスをちぎり取って、達也の顔面に向かって投げつけた。ばち、と音がして、それが有効だったとわかる。


「く……」

 達也が一歩引く。楓も体勢を立て直す。ちらりと、遺体を見た。出ていくきっかけになった時を思い出す。記憶が途切れてはいるが、目の前にこのふたりの遺体があって、驚いて逃げ出した。それは、確実である。

 そして、達也の今までの発言がすべて嘘だとわかった。達也は自分を殺そうとしている。何らかの目的で。左手に、武器。左利き。

「お前……俺を、ブン殴ったり……監禁も……お前だったんだな……」

「へぇ……気づいたのは、あぁ、井川さんだろ。そうだよ」

「……」

 達也が告白をしたので、レイが気づいた事実がひとつ、真実だったと判明する。では、達也、つまり兄が自分を虐待していたとして、両親は? それを止めたりしなかったのか、それとも……。

「こいつらは……」

 足元の遺体を見る。目を見開いたままで、硬直している。

「おまえがやったんだ。だから……お前は罪を償わなければならない」

「……」

 記憶がないので、自信がない。だが、達也がレイに見せていた弟思いの常識的な兄という虚像が崩れ去った今、達也の発言は、ひとつも全く信じることができない。楓からすれば、今実際に攻撃を受けているのだ。つまり、殺されかけている。それは、楓に、ある予想をさせるのに充分だった。そう、両親を殺したのは達也の方で、楓にその罪を着せようとしているのでは、という予想だ。

 首のあたりに、血が垂れてきたのがわかった。最初の一撃で頭のどこかを怪我した。生きているのは当たりどころが良かったからだ。しかし、明らかに不利な状況だった。相手は武器をもっていて、この現場のことを知り尽くしている。それだけではない、今、警察が来たら? この状況はまずい。いやそれより前に殺される。達也からはそういう意思を感じた。なら、自分が、達也をやるしかない。今ここで。

 頭が、腕が、ずきずきと痛む。昔のようだと思った。最近は平和すぎて忘れていた。これが、自分の生活だった。これが、自分のアイデンティティだった。だから、昔に戻っただけ。今、すべて、決着をつける。前に進むために。

 楓はゆっくりと、達也の前に立った。







——————



 十、遺体がみっつ



「えーと……つまり……」


 レイは大谷に、大真面目に、自分は羽賀楓、と名乗った。当然、今は嘘である。しかし、実際のところ嘘であるとも言い切れないし、嘘だとも言える。

 しかしこうなっては、嘘を現実にするしかない。

 楓を救うために。

 だんだんと暗くなり始めた街の、それでもまだ明かりなしで歩けるような時間帯。この時間帯だけは、レイは嫌いでは無かった。いつもならバーの開店準備をしながら、ちらほらと人が通る道路をながめる。

 レイが、制服姿の大谷と畑山に捕まっているので、不審に思った隣の旅館の女将や、顔見知りがちらちらと様子をうかがっているのがわかった。

 大谷は心底丁寧に、真面目にレイの話を遮ることなく最後まだ聞いて、唖然としたり、ひきつった表情になったりした後に、考え込んで、それから発言をした。

「レイちゃんは、精神的に問題があって、今はレイちゃんじゃないってこと?」

「おい! 大谷!」

 横槍を入れたのは畑山の方だった。

「友達を逃がそうとして嘘ついてんだよ!多重人格だの、うつっただの、あり得ねえ!」

「うーん……」

 大谷は昔からレイを知っている。レイの発言には何が意図があると勘繰る。当然、第一の目的は、友人の安全だと考えた。その上で、レイの話を聞く。

「……清野喜一」

「!」

「話、聞いてこいよ。知ってるから、全部」

「……」

 地域住民ではない畑山は、大谷にそれが誰が尋ねた。大谷からしたら無視できない存在である。清野先生は信頼できるよ、と答えた。

「……わ、わかったよ、じゃあ、レイちゃんじゃないんだな……あー、羽賀って言ったか?」

「大谷!」

「何で俺たちに話しかけてきた?」

「レイが、あんたらが、俺を探してるって言ってた」

「チッ」

 畑山が悪態をつく。バーの看板を蹴った。そしてレイへ、顔を近づけてきた。

「てめぇが、あいつだってんならよぉ? 覚えてるだろ? よくも女の前で恥かかせてくれたな」

「……」

 なんと矮小な男なのだろうとレイは思った。レイを一生懸命に威嚇している。レイは全く動じなかった。畑山は引き下がる。大谷に耳打ちをした。

「ほんとに、この前のバーテンか……?」

 レイを、姿形は同じでも、中身がまるで違うように感じたのだ。逢魔時。空は不気味な色をたたえていた。夜が来る。風は無かった。

「まぁまぁ、今はその件じゃない。じゃあ、あー、羽賀さん? 羽賀達也は知ってる? その件なんだ」

「!」

 羽賀達也。たった今楓を連れ去った、楓の兄。

「知ってるも何も、そりゃあ、家族だ」

 レイは濁して返答をした。疑われたないためにも、詳しくないことは避けるしかない。そして、レイには、このふたりに近寄った目的があった。

 警察なら、羽賀達也の所在、つまり、楓が連れ去られた場所もわかるのではないか、ということだ。つまり、レイが拉致されたと訴えて、羽賀達也の居場所を探すのを手伝わせたい、そういう意図があった。

「……羽賀さん、それは、おかしい。羽賀達也に血縁者は、いない」

「!」

「ほらみろ、ボロを出したぞ!」

 大谷から、信じられない言葉が出る。

 そんなはずはない。達也は楓を弟と言った。たしかに、やや年は離れているように感じたが、ふたりは顔立ちが似ているし、楓も達也を知っていたし、写真も見た。これだけの情報が、証拠が、真実が揃っていて、なのに大谷は何と言った?

 レイはふたりを見上げた。

 その表情はまったく、大谷と畑山の知るレイのそれだった。

 畑山が笑う。

「ま、正確には今は、かな? 両親が死んで、今は一人暮らしで、配偶者無し……。これが、俺らの持ってる、羽賀達也の正しい情報よ、レイちゃん」

 レイの動揺は、ふたりにも見てとれた。畑山はここぞとばかりににやにやとしている。

「いいか、羽賀さん。……ショッピングモールで白骨化した女性の遺体の一部が見つかった事件は知ってるだろ?」

「……あぁ」

 その件は当然知っているが、なぜ達也と関係があるのか。レイは困惑した。

「いいかい? これは……オフレコだ。まだ、どこにも発表されてない情報だ。女性の遺体から衣服の一部が見つかったんだけど、燃やされててほとんど手がかりはなかった。けど、生徒手帳が一部燃え残ってて、名前が判明したんだ。片桐萌。殺された二十五年前は十五歳で、商業高校の一年生だった。」

 レイにはこの名前に心当たりはまるでない。ショッピングモールの建設予定地で見つかった白骨遺体の女性は、生きていたら、レイよりやや年上だったはずだ。羽賀達也、楓、双方と、この女性はどう関係するのか。

「片桐萌の自宅に行ったが、両親の片桐夫妻は不在だった。家は施錠されてた。近所のひとの話によると旅行好きで、しばらく家を開けると行って出て行ったらしい。電話をかけたらけと圏外で繋がらない」

 畑山が情報を捕捉する。大谷も話を続けた。

「生徒手帳をよく調べたら、プリクラが見つかったんだ。プリクラにはふたりひとが映ってた」

 プリクラ。二十五年前であれば、それは流行の最先端のものだ。当時女子高生であった被害者が撮ったものなのだろう。

「被害者の昔の友人に話を聞いたりして、プリクラに一緒に映っていたのが、当時付き合ってた彼氏だって判明したんだ」

「……」

 ここまで聞けば誰もが、頭に浮かんだ人物は同じだろう。

「で、彼氏が、羽賀達也」

 そして、ショッピングモール建設予定地での白骨遺体の事件の容疑者が誰なのかも、全員がわかっているはずだ。

 羽賀達也。

 レイは今まで全く警戒せずに接触していた相手がそんな凶悪犯だとは思いもしなかった。達也は基本的には、清潔感もあってスマートで、悪い人間に見えなかった。ぶるりと身震いをする。なんだか、寒気がする。突然、達也に強く捕まれた方の腕が痛むような気がした。

 さて、大谷によれば、今も捜査が進んでいて、凶器や証拠や遺体のさらなる部位の発見のために人員を割いたり、警察犬が導入されているという。いよいよ、事件は解決を迎えようとしている。

「羽賀達也の同行を探った所、少し前にこの辺で、ビラを配って、羽賀楓という人物を探してた……」

 大谷が、胸ポケットから取り出したビラをレイに見せる。細かく折られたそれは、レイが見たものと同じだった。楓を捜索しているという内容のビラ。楓の写真に、特徴が書いてあって、弟だとある。

「けどよ羽賀達也を調べたら血縁関係は両親のみで、三年前に死んでんだよ。じゃあ、こいつは何だってんだって話でな」

 畑山はぴらぴらとわざとらしく、レイにビラを見せつけた。警察側も混乱したはずだ。ショッピングモールの事件は権力絡みで早期解決を強いられていて、そんな中被害者の身元がわかりさらに容疑者が固まったというのに、容疑者は存在しない弟を探しているという。

「俺はビラを見て、あんた……まぁ、あんたか? ぶん殴られた時あいつだってすぐにピンときたぜ」

 畑山が答える。おかしい。

「羽賀は一度ここに電話をかけていることがわかったんだ。それで、俺も、怪しいなって思ってな」

 大谷が続けた。

 レイはいよいよ困惑した。血の気がひいた時のように、目の前がざらざらとした質感になっている。

 話のすべてがおかしい。楓は、両親を殺害したかも、ということで逃げてきたはず。それは約一ヶ月前の話だ。なのに、三年前にその両親にあたる人物は死んでいた? では、楓が殺したかも、と言っていたのはだれなのか? 達也は楓を弟と言っていたのに、そんなものは存在しない? 楓も、達也を知っていたのに? では、楓は誰なのか? 達也の話していたことがすべて嘘だったとして、達也の目的は?

 畑山がレイの肩に触れる。レイは自分が思うよりもずっと大袈裟にびくりと反応した。

「レイちゃん、友達思いなのはよーくわかった。下手な演技やめて、な。あいつはどこなんだ? ほんとに羽賀楓って言うのか? 一体何者なんだ? どうして羽賀達也はあいつを探してた?」

「っ……」

 レイは大谷と畑山を交互に見た。

「羽賀達也は連絡がつかない。自宅にもいない。……レイちゃん。レイちゃんの、謎の友人が、唯一の手がかりなんだ。」

「……」

 もう、レイには演技をする余裕はなかった。

 楓は何者なのか。

 達也は何者なのか。

 ふたりはどこへ消えたのか。

 もうすっかり辺りは暗くなっていた。寂れた温泉街の、いつもの夜が来る。暖色の街灯、真っ暗な川、ボイラーの音、点滅を繰り返すネオン、夜風のにおい……そして、謎だけが取り残されていた。



——————



 達也が再び、鉄パイプを振り上げたので、楓はそれをかわして、達也の脇を通り抜けて、リビングの扉を開けて、玄関へ向かった。

 玄関は予想どおり施錠されていた。しかし、何か細工をしたのか体当たりをしても開かない。

「くそっ」

 仕方なく家の奥の方へ逃げる。武器は、ナイフがあるが、長物を持った相手には不利だ。

 電気が無いので暗いが、窓が多いので走れる程度には見える。一階は、どの部屋も閉まっている。ならば、と窓ガラスを割ろうとした。

「!」

 すると、即座に、達也が現れる。追いつかれた。

 達也が鉄パイプを振り回して、的確に楓の急所を狙ってきた。よく見たら先端を鋭利に加工してある。首や、目に当たればアウトだとすぐにわかった。武器をなんとかしなくてはならない。

「何が……目的だ……! 俺を、殺して、どうしたい! 俺が、逃げ出したのが不満なのか!? てめぇに反抗したからか!?」

 楓は叫んだ。

 達也はまったくの真顔で楓を見ていた。感情が読み取れないのは、この場が暗いせいなのか、それとも。

「まさか。俺の二十五年間の備えが報われるだけのことだよ」

「…!?」

 二十五年間。何のことか、楓には全くわからない。それは自分の年齢でもある。つまり、自分が生まれた時から、達也が何かを考えていたという示唆だ。備えとは? 報われるとは?

 武器と状況では、勝てない。それならば、なんとか、達也の考えを探り、言い当てて、動揺を誘うしかない。そして、そこを突くしかない。

 楓は考えた。自分の持つ情報は少ない。

 先ほどの遺体。おそらく、自分か、達也かのどちらかが殺した。それを、もう一度見たい。そうすれば、何かヒントが得られるかもしれない。

 ブン、と風を切る音がして、鉄パイプが降ってくるのを、楓は左腕で受け止めた。

「!」

「ぐっ……!」

 左腕はもう捨てた。先程の一撃で、使い物にならないのがわかっていたから。鈍い、嫌な音がした。折れてはいないだろうが無事ではないとわかった。骨を折ったりするのは慣れたものなので、痛みを無視してそのまま達也に突っ込んで、転ばせる。

「うっ」

 楓はふたたびリビングへ走った。ドアを開ける。鍵の存在に気がついて、時間稼ぎになればと祈り、施錠する。遺体と再び対面する。もう、匂いは慣れた。死臭が体に移っている気もしたが、気にしてはいられない。

 初老の老人がふたり。男性と、女性。どちらも、達也の両親としてはおかしくない年齢だが、自分の両親としては、いささか年齢が離れすぎな気もする。そもそもにして、自分と達也の年齢が兄弟にしては離れている。

 暗くてあまり良く見えないが、顔を観察した。しかし、やはり、思い出せない。なんなら母親とはいっしょに過ごした記憶すらない。

 ガチャガチャと、達也が鍵をこじ開けようとする音がする。リビングの窓から脱出しようとして、窓へ近寄る。ブラインドを開けると、月明かりが室内を照らした。

「!」

 すると、窓のすぐそばの造作のキャビネットの上にたくさんの写真があるのに気がついた。壁にも、写真がたくさん飾ってあって、それが月明かりで照らされる。

 おかしい、と気づいた。

 写真に写っているのは、そこで遺体となって転がっているふたり。羊蹄山、富士山、指宿……裕福で旅好きだったのか、日本の名所で撮ったであろう思い出の写真が丁寧に飾られている。上から写真を眺めていると、そのうち、写真には赤ん坊が映り込みはじめる。庭先や自宅で撮った写真だろうか、笑顔の大人がふたりと、子供がひとり。子供は、女の子だ。

 達也も、楓も、いない。

「……」

 まさか。

 楓は、真実に近付いていた。


 その時だった。窓の外からパトカーの音がする。道路側に面した窓の方を見ると、二軒先の家の前に、ランプをつけたパトカーが数台。脱出するなら今しかない。今ここを見られたらそれこそ殺人犯だ。楓は、窓に近寄った。その時、達也が扉を蹴破って入ってきた。

「うっ!」


 鉄パイプの、鋭利な部分が、肩に食い込んだ。さらに、ふくらはぎを攻撃される。

 楓は床へ倒れ込んだ。鉄パイプも床へ落ちる。よく見ると鉄パイプは変形していた。おそらく、遺体のふたりを殴ったりして変形したのだろう。狂気のひとつだと確信した。ただ、楓も無力では無かった。反撃する。顔を近づけてきた達也に思い切り頭突きをした。

「このっ……」

 達也に腹を蹴られる。楓は丸くなるしか無かった。革靴の先端で雑に仰向けにらされて、腹の上に達也が馬乗りになる。


 そして、拳が降ってくる。

 何度も同じような光景を見た。

 左利き。

 はっきりと思い出した。自分を殴っていたのが、達也だと。

 そこで、楓は意識を手放した。


 達也は容赦なく、楓を殴りつけた。慣れた行為だった。何度も見た光景だった。自分の拳が痛いくらいがちょうどいい塩梅だとわかる。鼻血が、床や服を汚す。いつもだったらもっと、もっと殴りつけた。更に今はイラついていたから、もっと、殴れた。だが、今日は場所が場所で、ひどい死臭がどうしても鼻につくのと、外のパトカーが気になって、楓が意識を手放したのを確認して、外へ出た。

 ようやく深呼吸をして、それでも自分に異常な匂いが染み付いているのがわかって、吐いた。まだ、やることがある。達也はふらふらとした足取りで、倉庫の方へ向かった。

 あらかじめ、勝手口には土嚢を積んでおいた。窓は鍵の部分に細工がしてある。中からはもう、逃げることはできない。

 達也は用意していたガソリンを撒いた。すぐに強烈な匂いがして、また、吐きそうになるが、堪えた。

 ライターで火をつけると、すぐに炎の柱が玄関の扉を包み込んだ。

 後は、最後の計画をやるだけ。

 達也は足早にその場を後にした。







——————



「レイちゃん。レイちゃんは、降りない方が……」

「か、楓を探したいんです。だって、殺人犯といるかも、お願いします」


 あのあと、レイは、大谷に謝罪して、話せることだけを話した。不自然ではないように情報を選んで、自分も楓も双方が悪くならないように考えた。それでも、自分の問題のことや、楓の問題については本当だと話した。大谷は信じると言ってくれた。畑山は、レイを馬鹿にしたように笑った。

 レイが、どのようにしてふたりとパトカーでここまで来たかを説明すると、まず、大谷、畑山双方の話ぶりから、楓に殺人の容疑ががかっていることは無いと確信した。楓が見たという遺体が本当にあったとしても、それがまだ公には発覚していないからである。知っているのは楓と達也のみであり、達也が、いかにも楓が全国に指名手配されているというように嘘を吹き込んだのである。なので、レイは、楓は最近仲良くなった友人であり、家出をしていて、達也と血縁関係だと話していて、そのせいで達也に拉致され命が危ない、とふたりに話した。

 大谷と畑山からすれば、たとえ達也に件の白骨遺体の殺人および死体の損壊や遺棄の容疑での捜査ができなくても、拉致誘拐のほうで取り調べにひっぱることができたら、それは知事肝入りの大型ショッピングモールの開業を邪魔している事件の解決に一役買ったことになり、出世に繋がる大手柄となる。ふたりは即座にレイの言うことを信じて、達也の家へパトカーを飛ばした。畑山が、レイを参考人としてパトカーへ乗せた。畑山にとっては貴重な手がかりであるからだが、レイにとっては好都合だった。畑山は道中レイにあらゆることを聞き出そうとしたが、レイは卒なく、畑山をあしらった。


 パトカーを降りる。

 羽賀と書かれた表札の一軒家は、元は羽賀達也の両親のもので、羽賀夫妻が死亡した後に正当な手続きがあって、今は達也が持ち主である。手続きが行われたのも三年前である。

 パトカーでここまで来る間に、畑山がレイに達也の情報を話した。

 羽賀達也、四十歳。この町で生まれ育ち、高卒で金融関連の就職をして、税金の滞納や借金もなく、これといった不審な点のないありふれた人間だという。免停にはならない程度のスピード違反と、民事訴訟の記録があったりはするが、重大な犯罪とは無縁の経歴。ありふれた善良な市民だという。

「いたか?」

 大谷が指揮して、他の警察へ声をかける。達也が不在なのは周知で、警察は捜査令状を元に、無理やり踏み込んだ形になる。

「家の中は無人です」

「おかしな点は?」

「ありません」

 レイもその会話を聞いた。不審な点はない? 楓の話が本当なら、楓はここで拷問まがいの虐待を受けてきて、さらにここで、ふたりの両親が殺されたはずなのだ。

「楓は……」

「誰もいないそうだ」

「な、中、はいっちゃだめですか」

「畑山、レイちゃん中につれてって」

 大谷が指示をしたので、畑山がレイを案内する。一般的な一軒家だった。楓はここから約五千万もの大金を持ち出したことにもなるが、そんな様子もない。

 門を開けて中に入る。庭と呼べるスペースはない。玄関のドアを畑山が開ける。レイも続いた。電気をつける。

「……」

 ひとの気配はない。先に踏み込んだ警察官が二階の隅々までをも探した。

「チッ、羽賀達也はどこにいったんだ……。あんたのお友達も。心当たりは?」

「……」

 リビングへ進む。ここも一般的なLDKだ。

 不審な点はない、と言ったが、レイはここで楓がひどいことをされていたのだと、確信した。テーブルの上には不自然に、はさみと、画鋲がそのままになっている。楓が、散髪程度であんなに洗面台のあたりを濡らした理由が今ならわかる。一見何の変哲もない家具は、よく見ると、血を拭ったような跡がある。台所には、下剤や止血剤があった。見れば見るほど、一般的なあたたかい家庭とは逸脱した、異様な空間だとわかった。

「!」

 キャビネットの上に、写真を見つける。一度見たことのある写真だ。大人がふたり、子供がひとり。達也の説明では、達也と楓の両親と、子供の方が楓だったはず。

 子供は、生まれて間もない。赤ん坊の顔でしかなく、判別ができない。本当に楓なのだろうか。両親の写真は、たしかに、父親の方が、達也にそっくりだ。なぜ、達也は写っていないのだろう。

「あ、あの、これ……」

「あ? 写真か?」

 畑山に写真を見せる。

「こ、このふたりが、達也さんと、楓のお父さんとお母さん、ですよね……?」

「そう……だな。ああ、似てるじゃねぇか」

「……」

 羽賀達也の両親については三年前に死んだ、となっているらしい。

 レイはしゃがんで、キャビネットを開けた。他にもアルバムがしまってある。手がかりになるかと思い、勝手に拝借して、中を除いた。

「……」

 おかしい。

 すべての写真が、大人ふたりと、子供ひとりだ。

 そして、その子供は、明らかに達也の方で、楓ではない。

 楓がいない。

 楓が存在していない。

 一緒にアルバムをのぞいていた畑山もそれに気がつく。

「あんたのお友達は、ほんとに何者なんだ? 羽賀家はたしかに、羽賀充、羽賀明子、そして羽賀達也の三人家族だったんだぞ」

 他の警察官が近寄ってきて、畑山にクリアファイルを手渡す。その中には、戸籍謄本が入っていて、確かに、羽賀家が三人家族であったことの証拠だった。

「で、でも、達也さんは俺に、楓を弟って。楓も、それを否定しなかったし……」

「ウソつかれたんじゃねえの?」

「そんな……」

「畑山、レイちゃん」

 レイと畑山の話に、大谷が割って入る。

「ご近所さんの話だと、羽賀夫妻は、羽賀達也が十五歳のあたりに出て行って、父親の方の実家に住んでいて、ここにはいなかったとのことだ」

「まじか、そっちか?」

 十五歳。微妙な年齢の息子をここにひとりにして、親は別の場所に?

 大谷の手には、この家の固定資産税の支払いの明細。たしかにここに誰かが居住していた。さらに、達也の銀行口座の通帳を見つけたらしく、引き落とし欄の明細によると電気、ガス、そして水道料金が毎月きちんと引かれている。

「この額だと、ひとりかふたりだな。三人にしては少ない。ご近所さんの話は本当だな」

「父方の実家の方は今もうは空き家で、電気やガスはぴったり十年使用した痕跡がない」

「十年? ……おい、ちょっと待て」

 畑山が資料をめくる。何かに気がついた様子だ。

「……やっぱりな。羽賀夫妻は、失踪宣告だぞ!」

「!」

 つまり、十年前に何らかの出来事があって失踪。三年前に失踪宣告。つまり、死亡したとみなされる、ということだ。ふたりそろって、である。畑山がやっぱり、と言ったのは、普通失踪の場合、生死不明の失踪者に対して、法的に死亡したとみなされるようになるまでに七年必要になるからだ。単純な算数で、この二点が繋がったのだろう。

「空き家は固定資産税が払われてる。マップアプリで見たけどまだ使えるくらい綺麗だ」

 大谷が説明する。

 楓もそっちに連れていかれたのだろうか。

 達也と、楓との今までの出来事や会話を、レイは必死に回想した。ヒントがあるはずだと。達也の目的がわかれば……。

 レイは、どうしようもない気持ちで窓の外を見た。

 歩いてすぐの所が、件の大型のショッピングモールだ。今は高いフェンスが、その全貌を隠している。夜はそれが不気味に見えた。大きな重機がシルエットだけ見えるのが、首の長い怪物のようだった。

「レイちゃん、大丈夫かい?」

「……」

 レイが明らかに顔色が悪いので、大谷が声をかける。

「あんたはここまでだ。羽賀達也も、あんたのいう楓とかいうやつも探すから、ほかの警察官に送ってもらって帰れ、いいな?」

 畑山が言う。レイは頷いた。

 達也と初めて会った時に見た写真。楓……楓はどこにいったのか。何者なのか。自分のベッドを占領していた彼を思い出す。ナイフの傷が、今でも腕に残っている。まるで、手錠のように。ふたりで話した遊歩道の夜。トラブルもあった。問題を乗り越えようと誓って喜一の家に行ったこと。……楓は実在している。ウソなんかじゃない。

 大谷と畑山は、達也の父親の実家へ向かった。レイも外へ出る。警察が来てあわただしくしているせいか、近隣住民がやじうまに来ていた。警察は順番に聞き込みをしている。

「ねぇ、何があったの?」

「!」

 レイを見つけて、ふたりの中年女性が話しかけてきた。

「あ……えと……」

「ここ、羽賀君の家よね?」

「あなたお友達?」

 女性ふたりはレイから話を聞き出そうと必死だ。明日の井戸端会議のために、他者が食いつくような話題が欲しいのだろう。達也を知っているような口ぶりなので、レイの方も、質問をする。

「あの、ご近所の方、ですか?」

「そうよぉ。五十年は住んでるわ」

「私はもっと」

「俺は羽賀さんとは知り合いで、羽賀さんが事件に巻き込まれたかもしれなくて、警察と、探してるんです」

 女性ふたりは大きなリアクションで、やだぁ、と言った。ショッピングモールの件もあり、最近物騒だと騒ぐ。

「羽賀さんは、一人暮らしでしたか?」

 レイも、このふたりからできるだけ情報を引き出そうと考えた。諦めが悪い自覚は無かったが、そういう一面が確かにある。

「そうですよ。あんないい男が、しかも男盛りに、こんな家まであって、ひとりなの、変よね。何かあると思ってた」

 令和の時代に独り身は珍しくもない。それに家と言っても元は両親の持ち家で、新しい物件でもない。今となっては、と感じるだけだろう。すると片方の女性が、もう片方の女性の肩を軽く小突いた。

「あらやだ、あんた知らないの?」

「え、あの噂、ほんとなの?」

 ふたりがふたりだけで会話をするので、レイは割って入った。何の話かと聞く。

「んー、もうね、かなり昔よ。二十年以上前よ。羽賀君ね、高校生の頃にね、この辺の地主さんの一人娘に手ェ出して妊娠させたのよ」

「!」

 女性は話を続けた。

 地主は、大型ショッピングモールに広大な土地を売った人物でもあり、達也に対して責任を取るように言った。達也もそのつもりだったが、娘は子供とともに失踪したという。

「そのせいで、親御さんたちはここにいられなくなって、介護って名目で、父方の実家に行ったのよ」

 達也の両親、羽賀夫妻が達也を置いて出ていった理由が判明する。

「地主さんの、名前は……?」

「片桐さんよ、ほら、あそこの大きなお家」

 片桐。

 白骨遺体の被害者の、苗字。

 レイは、女性の指さす方向へ振り向いた。

「!」

 煙が上がっている。

「やだ、今度は火事?」

 レイは、走り出した。今度こそ、楓がいると確信して。




——————





 気がつくと目の前すぐを煙がただよっていて、さらに明らかに非日常な煙の匂いがして、一瞬で意識が覚醒した。


 俺は、羽賀楓……。

 羽賀、楓……。

 ルーティンを守る。

 顔面を殴られた記憶があるので、ゆっくりと状態を起こした。達也はいない。記憶はしっかりしていて、そういうことか、と納得した。達也の目的がわかった。

 頭が痛い。顔面も。肩とふくらはぎから出血している。くらくらするが、まだ動ける。ならばやることはひとつだ。

 ここからの脱出だ。

「げほげほっ」

 煙がひどい。達也が火をつけたらしい。火元はわからない。

 窓が開かなくて、よく見ると、鍵の部分が雑にコーキングされている。窓を何かで破壊するしかない。室内を見回すが、家具がない。キャビネットは造作で、動かせるものではない。

 どんどん煙が充満してくる。ついに明るい炎が見えて燃えているのが廊下の方だというのがわかった。しかし、ドアも動かない。外側から何か細工されている。

 このままだと煙で死ぬ、と思った。

 窓に肘をたたきつけだが、割れない。ガラスではなく、アクリルガラスなのだろう。

「げほ、あぁ、くそ……!」

 膝から崩れ落ちる。苦しい。

 レイに戻ると約束したのに。

 こんな所で死にたくない。達也の思い通りにさせてはいけない。しかし楓はさらに咳き込んだ。苦しい。体が動かない。

 次第に脳裏にぼんやりと、走馬灯が浮かんだ。それは、殴られた記憶。それから、殴られた記憶。そして、殴られた記憶だ。いよいよ死に近づいているからかもしれない。当然、走馬灯の内容に、良いといえるものがない。情けない。自分の人生とは何だったのだろうか。

息を吸い込もうとすると、煙は肺の中をひどくかき乱して、よけいに苦しくなるばかりだった。

 さて、アイデンティティという言葉がある。それは、自分は自分である、という確固たる確信そのもののことで、自分を特定し、定義する認識のことだ。それらの大半は、若いうちに育まれる。人種や、国籍や、文化や、家族関係、幼少期の育ちの違いが、ひとを形成する。本人が望むか否かによらず、アイデンティティは形成される。楓は改めて、自分には何もない、そう感じた。暴力しか知らなかった。そして今やひとりで煙の中で死を待つだけで、あんなにあった大金は置いてきてしまったし、たったひとりの友人、レイもいない。

 ふと、ポケットの中の、鍵に気がついた。ナイフと共に、今の自分の持ち物と言えるもの。レイの家のスペアキーだ。手に取ると、キーホルダーの瓢箪の首についている小さな鈴が、わずかな月明かりを反射していた。

 レイ、レイは、大丈夫だろうか。いや、自分がここで死んだら、レイも、まずいことになる。達也の計画が自分の想像通りであれば、計画が破綻しようとしまいと、自分の死とすら関係なく、レイは、まずいことになる。

 それだけは、避けたい。

 アイデンティティなんて、ないと言い切れる。自分の定義なんて、わからない。それでも、もし、変わろうと、変わりたいと、自分の今持つすべてを捨てて、新しい自分になりたいと足掻くことそのものをそう定義していいと言ってもらえたなら、きっと自分にも、アイデンティティがあると言える。

 レイが、自嘲気味に、町から出て行きたいと語っていたのを思い出す。

 自分にも、あるのだ。できたのだ。

 己を定義するために必要なだけの、思い出が。他者よりささやかで、他者よりきっと少ない。けれど、あるのだ。できたのだ。


 レイと、この町を出ていく。ふたりで。

 そう誓ったあの日に。


 死ぬわけにはいかない。


 ……達也を追わなくてはならない!


 満身創痍の中考えた。脱出するにはどうしたらいいか。顔を上げる。その時、ばん、と窓をたたく手が見えた。


——————



「はぁ、はぁ、……っ、火事……!?」


 レイはすぐに片桐邸に辿り着いた。途中、警察にも声をかけた。楓がいるかもしれない。レイからすると、この片桐邸はとんでもない豪邸に見えた。外観からして広いし、このあたりの建物のなけなしの庭とは違って、手入れされた本物の庭に、池に、庭木。

 玄関が激しく燃えていて中に入れない。レイは家の横へ回った。しかし、窓の中は、灰色の煙で充満していて、何もわからない。

「楓、楓……!」

 窓を手のひらでたたいたがびくともしなくて、それでも、楓がここにいる、と確信している。

「!」

 灰色の煙の中から、手が見える。

 ガラス越しに、レイの手に、添えられる。


「楓!」


 レイは窓を思いきり叩いた。びくともしない。ガラスではないと気がつく。レイのバーの大きな窓もそうだ。

 足元から大きめの石を拾って思い切りたたきつけるが、これも無意味だった。早くしないと、楓が死んでしまう。

「こっちに! 中にひとが!」

 楓が叫ぶと、警察官が集まる。

 アクリルガラスだと気が付いて、機材をパトカーに取りに戻る。それでは間に合わない。

「!」

 わずかばかり離れたところに、勝手口がある。不自然に、土嚢でドアを外側から押さえてある。レイは土嚢を、精一杯の力でどかして、ガチャガチャとドアノブを回した。コーキングや養生テープやらがが剥がれて、ドアが開く。


「楓!!」


 中は真っ暗で、煙が充満していて、レイも、警察官も咳き込む。台所は対面式で、レイはそこから、中をスマホのライトで照らして、楓を探した。

 楓がいたのは窓際だったはず。普通の民家のそれよりもずっと広いリビングは、薄暗さと煙で視界がまったく効かない。咳き込みながらも、楓を探す。


楓、楓、楓……。

目を凝らして、何度も頭の中で楓の名前を繰り返した。楓が今日着ていた服装を思い出す。それは元は自分のもので、着古したシャツとスラックス。裾がやや短い。記憶の中でささやかな楓の手がかりを辿る。必ず、見つける。他に楓の特徴は……。楓の持っていた物は……。


「いた!」


 きらりとひかるものが見えた。レイにはそれが何か、はっきりとわかった。楓に渡した、家の鍵についてる、キーホルダー。

 レイは視線を低くして、楓に近寄る。楓はしゃがみ込んでいたが、レイの存在に気がついて、しっかりとレイの手を掴んだ。今度はガラス越しではなかった。急いで勝手口から外へ出て、少し離れた場所に勢いよく身を投げ出した。


「はぁ、はぁ……!」

「……」

 庭の本物の芝生がひんやりとふたりを慰めた。しばらく動けそうにないが、レイはなんとか楓の方を見て声をかける。自分でもわかるくらいに、酷い声色だった。

「か、楓、楓、大丈……」

「……あぁ」

 楓の声にほっとする。仰向けで一生懸命に呼吸をしているのがわかった。生きている。お互いにすすでひどい有様だが、楓はさらにぼろぼろだ。煙を吸ったとかそういうことよりも、怪我をしているのが気になった。明らかに、殴られたような跡に、服には血がべったりとついてる。

「血……」

「俺のじゃない……」

 息を整え、楓がようやく、レイを見た。

 レイが楓を手伝い、座らせる。警察官がばたばたとしている。火がどんどん強くなって、もう二階まで届いている。やじうまが集まってきたのと、遠くから消防車のサイレンが聞こえてきた。

 ふたりともようやく呼吸が落ち着いてきた。青く冷たい夜の風と、燃え盛る炎の熱風の両方を感じた。

「レイ、逃げるぞ」

「えっ、う、うん、けど、どこに?」

「全部、わかったから……決着つけに行く」

「それは、けどそんな、危ないよ。このまま、逃げようよ、もういいよ、殺されちゃうよ」

 火の粉が舞い、いぶくさい匂いがして、ふたりとも、どうしようもないくらい満身創痍で、その横顔は赤々とした炎が照らしている。

 殴られて、怪我をしていて、全部が辛いはずなのに、楓は今まで見たことのないくらい、しっかりとレイを見つめた。レイは今にも泣きそうで、それは、楓が次に何を言わんとしているかがわかっていたからかもしれない。

「達也を殺す」

「……」

「そうしたら、俺の問題は解決する」

「で、でも、そんな、そんなこと」

 楓が立ち上がる。達也の行った場所を知っているというのか。ふらふらしている。こんな状態で、何ができるというのか。そして、何より今楓と別れたら、後生会えないような気がした。


「お、俺、俺も行く!」

 レイは楓のシャツの裾を掴んだ。立ち上がる。楓を見つめた。初めて会った時は目も合わせられなかった。今は違う。もう二度と、目を逸らすことはない。楓の中から、レイを置いていくという選択肢が消えたように、レイの中からも、楓をひとりで行かせるという選択肢は、とっくに消えていた。

 夜の帳。炎の明かり。雑踏と喧騒。さながら戦場のような混乱の中で、ふたりだけが、すべての事件の手掛りの糸を縫い留めて、いよいよその真実の先端へと迫っていた。ここにはいられない。行かなくてはならない。

「レイ……」

「ぜ、絶対に、行く。ついて行く」

「……」


 これ以上は言葉はなかった。いや、いらなかった。

 レイは楓の腕を自分の肩に回した。楓は足を引きずって歩いた。

 頭痛がする。怪我のせいじゃない。所々抜けた記憶を思い出そうとするといつもこうだった。けれど、思い出さなくては。もう、逃げるのはやめて、向き合わなくてはならない。立ち向かわなくてはならない。

 ふたりは火に背を向けて、暗闇へ歩き出した。星が見える。しっかりと。

 怪我人がいると聞いてレスキューが到着した頃には、もう誰もいなかった。



——————



 十一、遺体がふたつ




 ざくざくと、地面を掘り返す。

 大型のショッピングモールができたら、このあたりは建物になるのか、駐車場になるのか、それは定かではないが、きっと親子連れが休日に訪れてあたたかい団欒を過ごすのだろうと想像をした。

 三十年以上前、元は田畑だったが、いざ埋め立てたあたりでバブルが弾けて都市計画が頓挫して、ただの空き地になった。それからずっと放置されていて、ちょっと前までは木や草で鬱蒼としていて、よくテンやハクビシンなんかの動物もでた。まさか、この土地が今更開発されるなんて思ってもいなかった。

 今はフェンスに囲まれて、木々は伐採されてきれいに整地されていて、あたりは重機や鉄骨やらが置いてある。場所をしっかりと覚えていたはずだが、それでも探すのに難儀した。もっと、早くこうするべきだった。

 さほど深く掘らないあたりで、もう、目的のものが見えた。

 それは、ひとの頭蓋骨だった。

 近くにはネクタイも一緒に埋葬した。手向けのつもりだった。彼女が制服のネクタイを交換して着用するのが好きだったから。若者らしい、ちょっとしたお遊び。だが、それで、首をしめた。二十五年もたって、こんなことになるとは思わなかった。保険をかけておいたのに、その保険そのものがあろうことかそれが逃げ出したので、計画が狂った。ネクタイは化学繊維のためか、土の色で汚くはなっているがまったく分解されずにほぼきれいに残存している。調べられたら、まずいかもしれない。ライターで、それを燃やそうとした時だった。



「待てよ」

「!」



 振り向くと、そこには、満身創痍でなんとか立っている楓と、それを支えるレイがいた。



「……よくここがわかったな」

 達也は、楓をしっかりと見つめた。

「てめぇは自分が思ってるほどお利口じゃねぇよ」

 楓は吐き捨てる。もう、すべてがわかってる。単純に血の後を追ってきたのだ。ゲームは終わりだ。

「楓、あれ……」

 レイが頭蓋骨を指差す。

「……」

「おい、どうした? 感動の親子の対面だぞ、何か言ってやれ、ほら!」

 それに気づいた達也が、頭蓋骨を楓とレイの方に蹴り飛ばす。それは、地面にぶつかって下顎骨や鼻骨が割れて、いくつかの破片になってコロコロと転がった。

「……羽賀、達也さん。俺たち、もう全部わかってるから……やめた方がいいよ。もう、警察も来るよ」

「井川さん……。そうですか、けど、そうはいかない。まだチャンスはあると思ってます」

「ねぇよ……羽賀達也……いや、親父……って呼んだ方がいいか?」



 沈黙。

 三人を、土まみれのしゃれこうべが見つめていた。

 もう、全員が真相を知っていた。

 レイも、楓もここに来るまでに互いに答えあわせをした。

「羽賀、達也さん。あなたは、俺にウソをついた。楓にも、ウソを信じ込ませていた……。それが、自分は楓の兄だっていうこと。たしかに年は離れてあるけど、兄弟でもおかしくはないくらいの差だから、全然気が付かなかったよ……」

 羽賀達也。四十歳。警察の話と資料ではもう血縁関者はいないことになっている。なのに、楓の存在がある。混乱したが、話は単純だった。

「井川さん……」

「二十五年前……あなたが中学生か、高校生くらいの頃だよね。十五歳の時に、同じく十五歳の、片桐萌さんってひとと付き合ってて、子供ができた……それが、楓だったんだね」

「なんで、殺した」

 楓が尋ねる。

「そりゃ、いきなり、子供ができたって言われても困るだろ。責任とれとか、親に言うって脅されて……」

 達也は語る。まるで、昨日のことのように。何の悪びれた様子もなく。わざとらしく泣き真似のような演技をしてふたりを揶揄った。

 実のところ、楓が達也を、兄だと認識してその情報を信じ込むようになったのはレイと会ってからだ。楓の世界には達也しかいなかった。達也に直接関係を聞いたことはなかった。家族だとは思っていた。達也を兄だと認識したのは、レイがそう言ったから。達也がレイにそう言って、それがそのまま楓に伝わった。

 はぁ、と達也は大きなため息をついて、持っていたシャベルを地面に突き刺した。

「まず、警察が来るってのははったりだろ、ふたりとも」

「!」

「はは、井川さんは、わかりやすいなぁ」

 達也は、そもそもにして警察が来るなら一緒に来てるだろ、と続けた。

 少し遠くではぼんやりと、火事の灯りを感じる。まだ、片桐邸の二体の遺体は発見されていない。

「ふたりの言った通りだ。俺は……楓の実の父親だ。楓の母親は、片桐萌。そこにころがってるだろ。あぁ……よく見ると楓は母親に似てるなぁ!」

「もっと、わかってるんだぞ。……片桐邸の遺体は、片桐夫妻で、あれは……俺の母親の、つまり片桐萌の両親だ。あんたは、俺をブン殴って連れてって、俺に罪を着せようとした。俺が逃げたから、探したんだろ」

 片桐家はこの辺り一体の地主で、裕福な家庭だった。レイは達也の家を見た時に、ありふれた普通の家だと感じたが、それは当然で、達也の家に一億円があったわけではない。片桐家にあったのだ。楓はそれを持ち出して、逃げた。自分の家かどうかなどはよく考えもしなかった。そして、達也の策略通りに勘違いをしていた。両親を殺して、兄に追われている、と。実際のところは、祖父母であり、追ってきていたのが、父親。あの写真、達也がレイに初めて接触した際にビラといっしょに見せたあの写真を、達也は父母と楓だと言ったが嘘で、あれは達也の両親と達也の写真だったのだ。達也が父親に似ていたので、レイは勘違いをした。そしてその情報はそのまま楓に伝わった。

「ふ……」

 達也が笑う。

「少し、惜しいな。まだ、俺は考えていることがあるんだ」

「……」

 まだ、チャンスがあると思っているのか。楓は達也を睨んだ。

 確かに、まだ意味不明な部分がある。達也は二十五年前に、片桐萌を殺して、遺体をバラバラにして埋めた。それはわかる。片桐萌が邪魔だったのだろう。男女間の交際トラブル自体はよくあることだ。

 しかし、なぜ、楓を生かしておいたのか。なぜ、兄弟などと思い込ませたのか。何故、わざわざ今になって片桐萌の両親を殺したのか。

「達也さん……もう、やめようよ。全部もう意味ないよ」

「井川さん。ありますよ。ふたりだけなら問題なかったのに、本当に、あなたの存在が、誤算だった。あなたがまさか楓を助けて、仲良くなるなんてね……」

 達也が、ぐ、と左手に力を込めたのがわかって、楓はとっさにレイをかばった。

「危ない!」

 ブン、とふたりめがけて、達也がシャベルを投げつけた。楓も、レイも、土の上に倒れる。シャベルは、レイをかばった楓の腕に当たった。

「レイ! レイ!」

「う……」

 倒れた時に頭を打ったのかもしれない。レイが起きない。すぐに達也が近寄ってくる。目的は自分だ。楓は立ち上がり足を引き摺りながら、資材の間を縫って逃げた。達也を惹きつけなくては。


「なぁ! 楓! 金! 返せよ!」

 真っ暗な工事現場に、達也の怒号がひびく。

「あれ、俺が稼いだ金なんだよ!」

「……」

 楓は無視して、できるだけ早く進んだ。達也を倒さないといけない。レイは、無事だろうか? 左腕は今の攻撃でさらに出血した。ふくらはぎもしびれるように痛くて、足がもつれる。

「萌をぶっ殺して埋めた後、訴えられたんだよ。萌の親……片桐夫妻からさ。お前にとっては、祖父母になるなぁ。萌をどこやったって。民事訴訟されて、なんか知らないけど一億円払って言われて」

 声が近い。足を引きずっているので、足跡と音で居場所がばれる。楓は、ショベルカーの後に身を隠した。達也の足音がする。

「こつこつ払ったんだよ。親には勘当されるし、全部あの女の……おまえの母親のせいだよ」

「!」

 ひゅ、と風を切るような音がして、振り向くと、ナイフを振り翳かざした達也がいた。

「うっ」

 避ける。四つん這いで這って逃げた。痛めつけられた足は、逃走を助けるどころか、それこそ足手纏いだった。

「くそっ……」

 自分も、ナイフがある。何とか立ち向かわなければ。ポケットから出して、刃を出した。小さくて頼りない。月が雲に隠れている。刃先すらろくに見えない。

「片桐夫妻……すげぇ死顔してたよな。笑える」

「……」

「ショッピングモールに土地売ったりしなけりゃ、死ぬことなかったのにな」

 楓は、自分じゃないと、確信した。片桐夫妻を殺したのは、達也だ。自分は、無罪だ。しかしこれで、達也は、楓にとっては、母と祖父母を殺した相手になる。そして今、自分も襲われている。目の前にいるのは、父であり、家族を葬った殺人鬼だ。幸い、きっと、正当防衛になる。やるしかない。

「見つけた」

「!」

 達也が思い切り、楓の、肩の傷の部分を蹴った。

 楓は痛みに叫んでその場で倒れてのたうちまわる。

 すると、達也が、自分のポケットから免許証や財布を出して、雑に楓の上に降らせた。腹や、地面にそれらが散らばる。

「……?」

「おまえは誰にも認知されずに、死ぬ予定だったんだよ。……お前のことはをちゃんと認識してるのは井川さんだけだよな」

「……」

 楓は、達也を睨んだ。自分の予想が合っていたと、確信した。もう、すべてがわかってる。達也の計画の全貌が。達也がなぜ、虐待を繰り返しながらも、楓を殺さずに、生かしておいたのか。

「ここで発見されるのは、羽賀達也の遺体だ。……今日から俺が、羽賀楓だ。俺は、自由になる!」

「……っ」

 ナイフを振りかざす達也に、思わず目を閉じる。

 しかし、ナイフの衝撃は訪れなかった。

 楓が目を開くと、レイが、達也に飛びかかっていた。

「レイ!」

 達也が倒れる。しかしすぐに、達也は体勢を直してレイを蹴った。ちょうど、腹のやわらないあたりに革靴が食い込む。

「うっ」

 楓は急いで駆け寄って、レイの腕をひいて、レイを立たせる。

「レイ、大丈夫か!?」

「はぁ、はぁ……」

「行くぞ!」

 レイの手を引いてふたりで、再び逃走した。遠くに、サイレンの音が聞こえる。残念ながら足音を消してくれるほどではなくて、けど、そんなことを気遣う余裕もなく、逃げた。

 レイが腹のあたりを押さえて苦しそうにしている。達也の怒鳴り声が後ろからするので、振り返ることもなく突き進む。名前もわからない重機や機材は楓よりもレイよりもずっと大きくて、怪物に囲まれているかのような恐怖を覚えた。

 ばさ、と、土埃のひどい透明なビニールのカーテンを開けて、入った場所は資材置き場だろうか? パイプやら、鉄の棒やらわからないものが、たくさんある。

「!」

 無茶苦茶に走ってきたせいもあるが、気づけば、行き止まりだった。

「……」

「ど、どうしよ……」

 ふたりとも満身創痍で、手には、ナイフが一本。

 後ろから迫っているのは、本物の殺人鬼。

 楓はあたりを見回した。何か起死回生の一手になるようなものはないか。せめて、レイだけでも助けられはしないか。

「楓……」

 レイが腕をつかんできた。

 指差す方向を見ると長い鉄の棒がたくさんあって、それは丈夫そうなロープでまとめられている。しかし不安定に傾いていて、ロープに何かあれば今にも崩れて大惨事になるだろう。

「あれ、切って……そ、そしたら……もしかしたら」

「俺たちまで、巻き込まれるかもしれないぞ」

「あっ、そ、そうだね……」

 達也がゆっくりと迫ってきているのがわかった。勝利を確信しているのだろう。ふたりを追い詰める狩を楽しんでいる。

「俺、ほんとに、あなたと……出ていって、って、ほんとに……」

「俺もだよ」

 レイがまるで遺言めいたことを言うので、楓は後悔した。達也との因縁にレイを巻き込んだ形になる。

「俺のこと……連れてこなければ良かったとか、思ってる?」

「!」

 肩口で息をしているレイがぽつりとつぶやく。質問か、それとも。目線は合わなかった。暗くて、表情はわからない。

「中途半端に、投げ出さないでここまで来て良かったと思ってるから、俺……」

 劇的なことなどないはずの人生だった。ただ、普通を演じていた。普通の人間の演技が得意だった。心の中ではずっと、求めていたものがあったはずなのに。

 楓と今ここに立っていることを後悔していない、とレイは言った。それから、やろう、と。賭けに出る。生死と、命運を。一か八か。最後は、神頼みになった。月を隠していた雲が流されて、達也が姿を現すのがわかった。じゃり、じゃりと、規則正しい足跡がする。工事現場らしいオイルやら鉄やらの鼻につく匂いは、せっかくの月明かりとは不似合いだった。

「……レイは、関係ない」

 楓が訴える。達也は笑って、ふたりとも死んでもらうと言った。金を取り戻して、人生を取り戻すと語った。自分の金と、レイの家にある金の両方のことだと言う。楓を詳しく知るのはレイだけ。レイにも、死んでもらうと言った。

 楓は、ゆっくりと達也にナイフを見せた。

 達也が笑う。そんなものが何だ、と。

 しかし、楓は手を伸ばして、ロープに刃先を引っ掛けた。あっという間に、ぶちぶちと毛羽だって、ロープが切断されていく。


「!」


 ふたりの意図を知った達也は振り返って走り出した。

 楓は思い切り力を込めて、ナイフを引いたが、ロープは酷く硬い。そこに、レイの腕が添えられた。自分が切って傷になった跡が見える。自分も似たような場所に傷跡がある。レイのおかげで、ロープは完全に切断された。数メートル上の高さから、ひとつの重さは百キロは下らない鉄の棒が、数え切れないほど崩れてくるのが見えた。衝撃で地面が揺れ、土埃が舞い上がり、立っていられない程だったが、楓はレイをかばった。

 その轟音は火事であわただしくしている住宅街の方まで響いた。



 十一・五、羽賀達也


 常々、生まれてくる場所に運が無かったと感じていた。

 世界的に見れば日本は恵まれた土地だと言うが、相対性でものを考えれば、この国の中にもカーストがあって、親の出来がそのまま子供の出来になって、それが人生の直接的な幸福度と満足度に繋がっている。東と北の間の田舎町は身近に学術的なものや文化的なものが少なくて、資本主義の負け犬だらけで、短い夏のために他のすべてがあった。バブルの最中でどこもかしこも夢のようにまばゆい世界だったなどというのは都会の話で、この辺りにもにその恩恵があったというのはまったくの作り話である。

 羽賀達也は平凡な家庭で生まれた。父親は電力会社の下請けのサラリーマンで、母親は近所のファミレスのパートタイマー。最新のゲームで遊んだり、部活では野球をしたり。父親は不倫をしていたし、母親は父親の側の親族を嫌っていた。円満ではないにせよ普通の、ありふれた平凡な人間だった。ただ、生まれ育った町を好きになれなかった。夏には盆地特有の蒸し暑さがあって、冬は雪に悩まされた。春と秋は好きだと言えた。桜と楓には嫌な気持ちが無かった。

 片桐萌と付き合ったのは必然で、田舎では友達は選べないからで、理由はなかった。単純に、町内会の中での同じ年がふたりしかいなかった。萌の方が達也にべったりで、達也は十八歳になったら都会に行きたいと思っていて、萌とは関係を深める気はなかったが、親同士の付き合いや、年頃であれば恋人がいて当然という子供なりの世間体で仕方なく関係を続けた。

 片桐家は、このあたりの地主で、何代も前から裕福だったし、住宅地の整備にあたり業者に土地を売って大儲けをした。萌は何不自由なく大切に育てられたので擦れていなくて、おしゃべりで、流行りものが好きで、やや正義漢な面もあった。

 しかし、萌の、そんなところが、屈托なく笑うところや当たり前のように親の金で県外の大学へ進学するつもりでいるところ、そういうところが、自分を責めているかのように感じていた。つまりは、さもしい劣等感であり、嫉妬や、憐憫であった。ひととひとの当たり前の違いを簡単に流せるほどは社会も達也も成熟してはいなかった。

 妊娠が発覚したのが互いが十五歳の時だった。

 いよいよ高校受験という大切な時期で達也は当然一言目に、堕胎を進めた。萌は産むと言った。しばらくして男の子が産まれた。秋も深まる頃に、萌は楓を連れて、うれしそうに達也の前に現れた。楓を達也に似ていると言っていたが、達也はそうは思わなかった。

 萌が、裕福な両親の支援のもと幸せに過ごしている一方で達也は地獄を見ていた。父親には殴られたし、母親はパートを辞めた。ふたりが片桐邸に、丁重に挨拶に行ったのを知っている。片桐家はこのあたりじゃ権力のある一族だったので、達也の両親は達也を勘当して、父親の実家の方へ身を寄せることにした。達也は、毎月最低限の金が手渡され、ひとりになった。当然中学校へ事の顛末は方向されて、希望の高校への進学は叶わなかった。定員割れの誰も行きたがらないような高校へ進学するしかなかった。萌と話したところ、萌は高校を卒業したら結婚したいと言い出した。萌は親の力で、この辺りでは一番の私立高校へ進学して、新しい友人や環境を楽しんでいた。

 何の悩みもなければ、苦しみもない。萌の人生が妬ましい。憎たらしい。許せない。

 萌は達也を愛していると、楓を愛していると言った。屈託ない笑顔で。

 やるしかなかった。

 自分の人生の設計には、萌も、楓も、いなかった。いらなかった。

 自宅に呼び出してネクタイで首を絞めた。死体を風呂場でいくつかに切断した。何時間もかかったし、そこらじゅう血まみれで臭くて、うんざりした。死んでからもこの女は手を煩わせる。死体を萌の服で包んで、ゴミ袋で空き地へ運んだ。空き地は鬱蒼と木が生い茂っていて、誰もいない森のようになっていて、まさかここが何十年かの後にショッピングモールとして開発されることになるなんて考えもしなかった。火をつけて証拠隠滅をして、ぐずぐずになった死体をそれぞれ違う場所に埋めた。

 ひと段落して帰ると、萌が置いていった楓がいて、どうしたものかと考えているうちに、片桐夫妻が訪ねてきた。萌が帰らないと心配して来たのだ。達也は、萌は楓を連れて東京へ行ったと嘘をついた。ふたりは憤慨していた。それから何度も、達也の家を訪ねて来た。最愛のひとり娘が、目の前の空き地でバラバラになっていることも知らずに。達也に、連絡を取ってくれ、手紙やメールを寄越すように言ってくれと何度も頼んできた。達也は丁寧に対応した。心の中では、殺人やその証拠隠滅などすべてが思い通りになったことが面白くて面白くて、全てを馬鹿にしてほくそ笑んでいた。

 達也は、楓を殺さなかった。抱き上げると小さくてほかほかしていて、頬の丸みや、口を無駄に動かす仕草が気持ち悪かった。楓を生かしておいたのは全くの打算で、いつか何かに使えると考えたからだった。世の母親が育児を大変だとぼやくのは、下手に愛情があるからで、育児を効率的にルーティンにしてしまえば全く苦にもならなかった。最悪死んだとしてもどうでもいいので、それなりのことしかしなかった。楓はあまり泣かなくて、近所の人間にも、目と鼻の先に住んでいる片桐夫妻にも全く楓の存在は気づかれなかった。もしかしたら、近所の住民は本当は知っていて、あえて無視をしていたのかもしれない。

 達也が高校を卒業し無事に就職したタイミングで、片桐夫妻から民事訴訟を起こされた。萌が失踪した原因を作ったとして一億円を請求された。この頃はいわゆる就職氷河期で、達也は高卒でろくな給料もないのに、そこから毎月よくわからない名目の金を天引きされて、生活が苦しかった。固定資産や、毎年のように値上がりする社会保険料が苦しかった。

 楓が二、三歳になったあたりから、楓を虐待するようになった。

 楓を苦しめると、気分が良かった。楓が泣いて、嫌がって、ごめんなさい、と言うのをさらに責める。鬱憤や、不満や、とにかく日常のありとあらゆる感情が昇華された。

 たまにまともな父親らしいことをした。勉強を教えたり、本を読んだり、出かけて遊ばせた。その分、後から酷く折檻すると、楓は静かに泣いていた。それがよけいに面白かった。達也のいない間は本や食べ物と引き換えに、静かにしているように言いつけた。楓は大人しく勉強をしていた。自分より頭の出来がいいようで腹が立った。だんだんと萌に顔立ちが似て来た気がして、あまり顔を合わせないようにした。

 楓が十五歳くらいの時に、達也の両親がいきなり訪問して来て、楓を見つけた。達也の祖父が亡くなったのだが、死に際まで達也を気にしていたらしく、両親は勘当したことを後悔して和解に来たのだと言った。

 楓を殴った後だったのが不味かった。特に母親の方がヒステリックに達也を責めた。達也は楓の目の前で、ふたりとも殺した。後片付けを楓に手伝わせた。楓は無言で手伝いをした。ただ、無言で、達也を見つめていた。萌に、似ていた。

 楓が成人したくらいの頃に、ある噂を聞いた。片桐夫妻が、例の空き地を売った。そこに商業施設が建設されるという。当然、そこには萌の遺体がある。ばれる。片桐夫妻め、自分から金を奪っておきながら、もっと金が欲しいのか。強欲を思い知らせたいと考えた。同時に、萌の遺体が見つかった場合の作成も考えなくてはならない。幸いにも建設計画は難航し、しばらく音沙汰がなかった。


 楓が床に転がっている。正しくは、殴ったら失神したのだ。楓はもう二十五歳になる。自分と同じような背丈になった。

 ……身代わりにできないかと、考えた。

 そう、自分が羽賀達也が死んだことにすればいい。楓を殺して、遺体は顔を潰せばきっとばれない。なんならDNA鑑定されても、親子なので、むしろ達也だという証拠になるかもしれない。そうだ、この時のために、二十五年も、萌の遺物を育てたのだ。

 二十歳を超えたあたりから楓は反抗的で、しばしば達也が力負けするような時すらあった。そんな時は物を使って楓を躾けた。先日、ナイフで腕を試し切りした時に、ある発見をした。

 楓は精神的に問題があるようで、たまに、短期的な記憶を無くすようだった。こんな境遇なら、精神的な問題を抱えていても不思議はない。達也はこれは使えると考えた。

 市長が変わると、駅前の再開発や大型のショッピングモールの誘致に力を入れるようになり、いよいよショッピングモールの開発計画が進んで、整地が始まった。木がどんどん伐採されていって、草が刈り取られて、フェンスが作られた。

 そして、白骨化した萌の一部が見つかった。

 こうなってきたらいよいよ事を急がなくてはならない。

 片桐夫妻を訪ねる。真相を明かすと夫妻は発狂して達也に飛びかかってきた。ふたりを鉄パイプで殴り殺した。家に現金で一億円あるのは知っていたから、それも頂戴することにした。バッグに詰めてリビングへ運んだ。そこで、窓際の棚と壁の写真に気がついた。未練たらしく、萌の写真が、幼少の頃から死ぬ直前のものまで時系列順に並べられ飾られている。反吐が出た。唾を吐き捨てる。あの世でいまごろ再会して、よろしくやっているはずだ。

 棚を漁ると、たくさんのナイフが出て来た。アウトドア好きだった片桐夫妻の趣味のひとつだろう。手頃な大きさのものを拝借する。

 家に戻って楓を殴って、失神したところを運んだ。ここのところ楓はよく窓の外を眺めていた。逃亡計画を練っているのは明らかだった。つまり全てが潮時だったのだ。海がいつまでも凪いでいるはずもない。山育ちでも、そのくらいは想像できた。さて、設定としては、羽賀達也は、片桐夫妻と揉めて相打ちになった、ということにすれば自然だろう。なので、楓を始末するのはこの場所、片桐邸でないと不自然だ。片桐夫妻は鉄パイプで殺したので、楓のことは、片桐夫妻のコレクションのひとつのナイフで殺す。より自然だ。しかし誤算が起きて、思いの外早く目を覚ました楓が遺体と対面した。仕方なくどうしてふたりを、などと適当なことを言った。案の定楓はショックを受けて呆然としている。隙を見て楓を殺そう。後は自分の免許証などの証拠を置いて、楓を羽賀達也にするだけだ。自分はついに自由になれる、そういう思いが、油断させたかもしれない。楓が、いつの間にか、ナイフを奪ってこちらに向けていた。腕で攻撃を防いだが、ひどい傷ができた。もちろん達也も反撃した。加工した鉄パイプの先端は楓の腹をかすめて、深い傷をつけた。しかし、それよりもあまりに、自分の腕の傷の方が深くそれ以上はどうしようもなかった。止血している間に、楓が、金を半分持って、逃げた。

 行き先はすぐにわかった。あまり社会的常識や知識の無い楓のできることはたかが知れている。軽装で、金以外に何も持っていない。

 寂れた温泉街にたどり着いた。腐っても観光地、日中はどこもひとがいてすぐには手が出せない。楓が路地で座り込むのを遠くから観察した。連れ戻して、計画を遂行しようと考えたが、どうも腕の傷が痛む。そのうち、楓は運良く安全な砦を見つけた。そう、井川レイの家だ。

 すぐに計画を変更した。それらしいビラを作る。ここで、達也は初めて楓のことを兄弟という設定にするのを思いついた。レイ、楓の双方にもそう思い込ませる。その計画が、一連の事件の真実への道を遠回りにする。

 レイに接触する。腕の怪我のせいもあり、荒事は避けたかった。しかし、レイの選択のせいで、計画が破綻した。レイは、楓を助ける選択を取ったのだ。こうなれば、寝込みを襲う方向にシフトする気でいたが、レイの生活リズムがどうにも妙で、明るいうちはひとがいる、夜はレイは眠らない、タイミングが掴めないまま、時が経った。

 また萌の、白骨遺体の一部が発見された。

 まずい。

 ふたりに接触する。楓を連れ出しさえすれば……。

 しかし、レイが、妙なことを言う。多重人格だとか、うつるとか、意味不明で正気を疑うような内容だった。

 何かを知っているのかもしれない。楓が何か話したのかもしれない……ふたりとも始末しなければならない。計画を変更する。楓を、楓を……。



 ……何故、自分はこんなことをしているのだろう。


 何も知らない頃は、漠然と、自分もまったく普通の幸せを掴めると思っていた。誰にでもある失敗をしただけだった。それが、大きな、大きな負債になった。哲学をしている暇も無かった。普通になりたかった。理想の自分を描いた時が確かにあったから。自分がどんな人間かを知りたかった。

 もう、そんな、アイデンティティなんて、どうでもいい。計画を実行しなくては。

 ……嘘だ。本当は、無くしたものを取り戻したかっただけだった。自由になりたかった。誰も知らない土地に行きたかった。ひとりで生きてみたかった。


 ようやく楓と、レイを追い詰めた。しかし、ふたりがとんでもない賭けに出た。

 大きくて重い鉄の棒が頭や、胸や、腕や足、全部を押し潰した。

 自分の死を悟った。

 それと同時に、ふと思った。


 楓がかわいそうだ。家族はみんな死んで、ひとりだ。

 せめて楓も道連れにしなくては。最後くらい父親らしいことをしたい。

 目を開けると、砂埃か血か、よくわからないけれど視界が汚れていて、視野も狭い。けれど楓が見える。隣に誰かいる。



 誰かがいる。



 達也は意識を完全に手放した。



——————




 エピローグ


 月が見守る中、土埃は次第に風と共に消えた。あんなに分厚かった雲はすっかり流されて、灯りもないのにいやに眩しい。


「……」

 楓は目を開けた。それからすぐにレイの安否を確認した。動いている。

 体を起こす。よく、助かったと思った。偶然、自分たちの方には、鉄の塊は降ってこなかった。


「レイ……」

「……俺は大丈夫」

 レイと共に立ち上がる。レイを見る。少し擦り傷があるが、問題はなさそうだった。自分腕と足は重症だが、それ以外は大したことはない。

 足を引きずって、めちゃくちゃになった資材を跨いで、達也の方へ向かう。

 楓は達也の脈を確認した。

 レイが心配そうにこちらを覗いてくる。

「……」

 達也は死んだ。

「行こう」

 レイは立ち上がる。

「だ、大丈夫? 楓……」

「あぁ。……これで、よかったんだ」

「……うん」


 騒ぎを聞きつけた警察が来る前に、ふたりで事件現場を後にした。近くに達也のセダンがあった。トランクに五千万円があった。家にある金とあわせると、一億円。これだけあれば、多少大きなテレビを買っても問題ない。

 歩けるような状態ではない楓を気遣ってか、免許を取って以来運転をしていないと言うレイが、セダンを動かすと言った。運転席を覗き込んで、オートマだとかマニュアルだとか、よくわからないことを言うのを楓は満身創痍なこともあって話半分で聞いていた。

 レイはきちんと運転ができた。少し興奮した様子で喜んでいた。深夜で、ほかの車も無く、スムーズに帰ることができた。大谷からレイのスマホに何度も着信が入るので、楓は途中でそれを投げ捨てた。

 ようやく町に戻った頃には朝日が出ていた。



——————



 達也のセダンは駅前の駐車場で乗り捨てた。

 帰宅して、まずレイは楓の傷の手当てをした。腕の様子がひどいので、町を出た後で通院させるとレイは言った。左腕を吊るしてくれて、他の傷も手当てしてくれた。もう、最後だよ、と言った。確かに、こんな怪我をするようなことはきっともう無い。レイに手当てさせるのも。出会った頃が懐かしい。

 部屋にあった分と、達也が持っていた分の金をひとつに纏めて、バイクに積み込む。レイがそれを落ちないように紐で結ぶのをぼんやり見ていた。

 レイはバイクも運転できるのだろうか。楓は運転に関しても免許に関しても何もわからない。バイクに体を預けて、少し休む。体中痛いし、疲れた。眠りたい。

 そろそろ萌の遺骨のほかに達也の遺体や、片桐夫妻の遺体が見つかる頃だろう。大谷と畑山が家に来るかもしれない。その前に旅立たないといけない。

 楓はふと、ナイフがないことに気がついた。工事現場に置いてきてしまったのだろう。気にしないことにした。できればこれからはもう、あれに頼らなくていい生活だといい。ポケットには、レイからもらった鍵だけが入っていた。もう必要ないものだが、捨てたくなかったので、持っていくことにした。


 もうすっかり見慣れたバーとも、お別れだ。バーの玄関口の一部である石畳と、道路のアスファルトとの境目の溝を毎日掃除したのを思い出した。この町も、レイが言うほど悪い町では無かった。川の調べも好きだった。思い出もあった。回想すると、もうかなり前のことのように感じるほどだ。

 初夏の、早朝の朝日のやわらかい匂いとあたたかさが清々しい気持ちにさせた。どこへ行こう。レイと相談しなくてはならない。住むところを探して、働きたいし、勉強もしたい。未来のことを考えると、体の痛みもましになった。

 これからは……。


 ふと、背後から、タバコの匂いがした。

 そして、ブチ、とにぶい音がした。


 突如脇腹に痛みを感じた。音がしたのも、自分の身体からだと理解した。


 後ろから刺されたと、わかった。


「……レイ?」

 一気に血が出て、太もものあたりまでつたう。

 以前も脇腹の傷がなかなか治らなかったがその時よりも、あきらかに深く深く、ナイフが突き刺さっている。切先はしっかりと内蔵を捉えていた。バイクをつたって、血溜まりができる。

 不思議なくらい、冷静だった。

 刺した人間が誰かはわかっていた。ひとりしかいない。

 なぜ。

 どうして……。

 楓が振り向いてそう答える前に、レイが、背後からそっと、耳元で囁いた。


「レイなんて最初からいなかったとしたら?」


「……」

 話し方が、楓に触れる手のひらの強さが、いつものレイじゃない。

 お前は誰だ? そう問いたかったが、もう声を出すこともできない。ぱくぱくと、口が無意味に動くだけ。

 最初とは、どの地点のことなのか。思い返すと、達也との決戦の夜、昨夜、レイは一度気絶している。まさか。いや、もっと前。誰がレンタカーを借りたのか。誰が夜中に首を絞めて、自分を殺そうとしたのか。誰がタバコを吸っていたのか。誰が、誰が、誰が……。

 楓は、バイクの横に、正面から倒れた。ナイフが地面に落ちて、カランカランと無機質な音をたてる。

 楓は、地面からレイを見上げた。血がどんどん出ていって、溝に流れて、溜まる。体が冷えていくのがわかった。指先が冷たい。死ぬ。


「殺人の容疑者を助けて、仲良くなるお人好しの孤独な人間なんて、そんな都合のいい存在、いると思った?」

 楓は、もう答えない。ぴくりとも動かない。

 ぜんぶぜんぶ、嘘だよ。それが、楓が最後に聞いた言葉だった。

 まだはんぱに火のついたタバコが地面に落ちる。それは、溝に溜まった血だまりの中に転がって、そこでゆっくりと火が消えた。

「じゃあね、バイバイ」


 バイクはけたたましい音を出して、町から去っていった。

 そのうち隣の旅館の女将が出てきて「レイ」を見つけた。

 大谷と畑山は楓という人物だと主張したが、そんな人物は存在していない。女将や、町の住人の一部はたしかにレイだと言った。清野医院の医者は、腕の傷がレイのものだが、もうひとりいるとかなんとか、よくわからないことを言った。

 持ち物がただひとつあって、それがレイの家の鍵で、証拠のひとつになった。

 ふたりを知る喜一も結局、誰が死んで、誰が殺して、誰が逃げたのかはもうわからないと言った。

 しばらくして死んだのはレイということになった。

 さらにしばらくすると、誰も彼も、事件のことなどはすっかり忘れて、新しいショッピングモールの話題ばかりになった。



 了


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