第5話 最悪の交渉
朝が来たのに、部屋は夜のままだった。
カーテンを閉め切っているせいだけじゃない。俺の中で何かがずっと暗い。暗いまま、スマホの中の数字だけが増えていく。
――押す/押さない。
リバティ島と北センチネル島。自由の女神と禁忌の島。あれを投票で決めるなんて、馬鹿げているのに、馬鹿げているからこそ人が集まる。人が集まるからこそ止まらない。
俺はベッドの端に座ったまま、DM欄を開く。L/S保有者の言葉がまだ残っている。
「押さない」
「押せない」
「でも“押せる”と思わせないと止まらない」
「私が燃える」
助けたいのに、やり方が最悪。そんな矛盾の塊が、世界を揺らすボタンを持っている。
そして俺は、俺でまた別の最悪に踏み込もうとしていた。
「兄さん」
妹の紗月が、布団の端に座ったまま言った。
「昨日から、顔がずっと怖い」
「……怖いんだよ」
正直に言うと、紗月の目が細くなる。
「怖いのに、何か決めた顔してる」
俺は答えられない。答えたら止められる。止められたら潰れる。そういう最低な計算が、喉の奥で腐っている。
俺はスマホを握り直し、L/S保有者に短いDMを送った。
「交渉しよう」
「来なければ明日24:00に俺は終わる」
「妹がけじめをつける」
「場所は動かない」
送信。
画面が静かになった瞬間、心臓の音だけが部屋に残った。
紗月が言う。
「……誰に送ったの」
「……L/Sのやつ」
「何て送ったの」
俺は、呼吸を整えるふりをして言った。
「交渉しようって」
「それだけ?」
鋭い。紗月は俺の“それだけ”が嘘だと分かっている。
でも俺は、ここで折れない。
「協力してほしい」
俺が言うと、紗月は目を見開いた。
「……何に」
「配信」
「は?」
紗月の声が裏返る。
「今、配信がどんな意味かわかってる? 兄さんのせいで——」
「分かってる」
俺は言った。分かっているからやる。
「燃やし方を変える。狩りの矛先を、投票から一回逸らす。相手に“来る理由”を与える」
紗月が唇を噛む。
「……私を使う気?」
胸の奥が痛む。図星だ。
「演技だ」
俺は早口で言った。
「顔も映さない。場所も映さない。危ないことはしない」
嘘ではない。危ないことを“しないつもり”ではある。ただ、危なくなる可能性をゼロにはできない。
紗月はしばらく黙って、やがて小さく言った。
「兄さん、また一人で全部決めたでしょ」
「……ごめん」
俺は初めてちゃんと謝った。でも謝っただけで、罪は消えない。
「今日だけ。今日だけ協力して」
紗月は目を閉じた。息を吸って、吐いた。
「……わかった」
その一言が、俺の中で何かを確定させた。俺は妹を踏み台にした。
夜。配信の準備をする。
背景は壁だけ。窓も玄関も映さない。声は少し加工する。数分遅延を入れる。それでも怖い。怖いのに、指が動く。
配信開始。
視聴者数が増える。増える。増える。
俺は台本通りに言った。
「S-J交換事案の保有者だ」
喉が乾く。言葉がひっかかる。
「L/S保有者。交渉しろ。明日24:00までに来い」
コメントが流れる。早すぎて読めないのに、単語だけ刺さる。
“台本”
“ガチ”
“妹”
“殺す”
“通報”
“神回”
神回。
世界を壊すことが、神回。
吐き気がした。
「来なければ俺は終わる。妹がけじめをつける」
紗月が画面外で、息を呑む音がした。俺は聞こえないふりをして続ける。
「これは取引じゃない。脅しだ」
配信を切った瞬間、膝が笑った。
紗月が小さく言う。
「……兄さん。今の、ほんとに何?」
「演技だ」
俺は強く言った。
「絶対に演技」
紗月は何か言いかけて飲み込んだ。言葉にできない不安が、部屋の隅に溜まっていく。
その夜から、掲示板が別の熱を持ち始めた。
◆【配信実況板】◆
【緊急】S-J保有者、妹を盾に“期限24:00”】【交渉要求】
1 :視聴者:03/05(木) 22:41:10 ID:Live1
妹の声してたぞ…マジで家族巻き込んだ?
2 :視聴者:03/05(木) 22:42:02 ID:Live2
台本やろw でも台本なら余計に悪質
3 :視聴者:03/05(木) 22:43:11 ID:Live3
これL/Sに効くのか?
「助けたい」って言ってたし
4 :視聴者:03/05(木) 22:44:08 ID:Live4
助けたい(最悪)vs 助けたい(もっと最悪)
地獄のコラボ
5 :視聴者:03/05(木) 22:45:30 ID:Live5
投票よりこっち燃えるな
世論誘導うまい
うまい、じゃない。最低だ。
◆【倫理・相談板】◆
【議論】“妹がけじめ”宣言は脅迫?演出?【ライン越え】
1 :相談:03/05(木) 23:02:08 ID:Eth1
家族を道具にした時点で終わり
2 :相談:03/05(木) 23:03:49 ID:Eth2
でも世界改変が現実なら倫理議論してる場合じゃない
3 :相談:03/05(木) 23:04:28 ID:Eth3
「妹はやれない」って決めつけるの危険
追い詰められたら人は何するか分からん
4 :相談:03/05(木) 23:05:16 ID:Eth4
脅しの形だけでも妹の人生は削れる
それが一番罪深い
刺さる。全部刺さる。
俺は眠れないまま翌日を迎えた。
昼も夜も、投票は動き続ける。配信の炎上で一瞬だけ鈍ったように見えても、止まらない。止まらないものほど人は面白がる。
そして、期限が近づくほど、紗月の顔色が悪くなる。
「兄さん。もうやめよう」
23時半過ぎ、紗月が震える声で言った。
「来なかったらどうするの。私、……こんなの」
俺は答えられない。答えたら全部が崩れる。
「あと少しだけ」
俺は言った。最低の言葉だ。妹の時間を削る言葉だ。
23時45分。
23時50分。
23時55分。
部屋は暗い。照明も落としている。紗月の呼吸が浅い。
そのとき、俺は引き出しの奥にあるスイッチのことを思い出した。怖くて見ないようにしていた罪の塊。
――淡い光。
引き出しの隙間から、ほんのりとした灯りが漏れている気がした。
俺は息を止め、引き出しを開けた。
S-Jスイッチ。縁に小さなライトが灯っていた。暗くても場所が分かるように――そういう機能だと理解できる程度の淡さ。
ただ、今夜の光は少し違う。静かに“向き”がある気がする。何かを指すような、細い伸び方。
「……兄さん?」
紗月が気づいて言った。
「それ、光ってる」
答える前に、インターホンが鳴った。
ピンポーン。
23時58分。
心臓が耳の中まで跳ねる。
紗月が立ち上がりかけるのを、俺は反射で止めた。
「俺が見る」
玄関へ。覗き穴。
廊下の灯りの下に、少女が立っていた。若い。制服っぽいシルエット。髪が乱れて、肩で息をしている。走ってきた人間の息だ。
――知らない。
誰だ。
俺はチェーンをかけたまま、ドアを少し開けた。
「……誰」
少女の目が、俺をまっすぐ捉えた。
「……やっぱりだ」
小さく、確認する声。
「本当に、ここにいた」
「何の話だ。どうして——」
「S-Jの保有者」
少女は息を吸って言った。
「あなたでしょ」
喉がひゅっと鳴る。
「……お前は」
少女はリュックから灰色の台座を取り出した。赤いボタン。俺のと同じ形。縁に淡いライト。
ただ、そのライトは“ただの灯り”じゃない。暗闇に入った瞬間、細い線みたいに伸びて、俺の引き出しの方向をまっすぐ指した。
俺は息を止める。
「L/Sの保有者だよ」
少女は言った。
「あなたが呼んだ。……最悪な呼び方で」
俺は言葉を失う。
「どうして場所が分かった」
少女は、ほんの一瞬だけ恥ずかしそうに目を逸らしてから言った。
「賭け」
「賭け?」
「このライト、暗い場所でだけ“方向”が決まるの」
少女は自分のスイッチを持ち上げ、淡い光を見せる。
「身近にある“もう一つのスイッチ”に向けて光る。距離は分からない。対象があなたかどうかも分からない」
「じゃあ……」
「時間がなかった」
少女の声が少し震えた。
「あなたの期限が明日24時。特定してる時間はない。一か八かで走った。途中で何度も迷った。でも……」
少女は俺を見た。
「当たり、引けた」
俺はチェーンを外した。ドアを開ける。少女がふらっと倒れそうになるのを、反射で支える。細い。軽い。冷たい汗の匂いがする。
紗月が背後で息を呑む音を立てた。
少女は部屋の暗さを見回し、引き出しの方角を一度だけ見てから、紗月の方を見た。
「……妹さん、いる」
紗月が一歩前に出る。強い目。
「あなた、何が目的。兄さんを助けたいって言ってたの、あれ本当?」
少女は小さく頷いた。
「本当」
「じゃあなんで投票なんて」
「悪役が必要だった」
少女は吐き捨てるみたいに言う。
「あなたの兄が“保有者”を名乗った。狩りが加速した。だから私は、もっと大きい炎上を作って、狩りを逸らした。——逸らして、その間に会うつもりだった」
俺は言った。
「だったら今すぐ止めろ。投票も配信も」
「止める」
少女は即答した。
「私は押さない。押せない。……押したくない」
その言葉に嘘の匂いがないのが怖い。
紗月が、震える声で言った。
「じゃあ、なんでそこまでして兄さんを助けたいの」
少女は一瞬、黙った。
それから、俺を見た。目がまっすぐすぎて怖い。
「……私の親、あなたに救われた」
空気が止まる。
「は?」
俺の声が掠れた。
少女は言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「日本とスペインが入れ替わった日。あの混乱で……親が予定してた移動が崩れて、帰ってこれた」
偶然だ。俺が救ったわけじゃない。俺はふざけて押した。
でも少女の中では、それが“救い”として確定している。
「怖かった。でも、親が生きて帰ってきた瞬間に思ったの」
少女の声が震える。
「世界は変わってしまったけど、うちは救われたって」
俺は喉が詰まった。
それは俺の「勝った」と同じ種類の言葉だ。なのに、重さが違う。俺のは薄い勝利宣言で、少女のは生存の実感だ。
「その夜」
少女は自分のスイッチを見た。
「私の部屋に、これがあった。……L/Sのスイッチが」
紗月が息を呑む。
少女は続ける。
「刻印を見て、私は思った。これは“救われた代償”なんだって。世界を動かす人間がいるんだって。……その人は、きっと私たちを救った神なんだって」
俺は首を振りかけて、止まった。否定できない。否定したら、この子の救いを踏みにじる。
「あなたが保有者を名乗った時、確信に変わった」
少女の目が、痛いほどまっすぐだ。
「神さまが、姿を見せたんだって」
神さま。
その単語が、俺の背骨を冷やす。
俺は神じゃない。最低な大学生だ。妹を使った。世界を壊した。笑った。勝った、と。
「だから私は」
少女の声が少し低くなる。
「あなたが潰れないように、汚れ役をやった。あなたが“決められる”ところまで生きるために、私が嫌われた」
紗月が俺を見た。泣きそうな目。
俺は何も言えない。言う資格がない。
少女は、そこで初めて目を伏せた。恥ずかしい告白をしたみたいに。
「あなたは、新たな神になる存在だって」
少女は、震える声で続けた。
「本気で信じてた」
そして、顔を上げる。
俺を見る目が、揺れている。崩れそうだ。
「でもあなたは、妹を使った」
刃物みたいに真っ直ぐな一言。
「演技でも、脅しの形だけでも、関係ない。妹さんの人生を“道具”にした瞬間——あなたは」
少女は言葉を切った。続きが出ない。出したら、自分の信仰が壊れる顔。
最後に絞り出すみたいに、言った。
「……なんで」
声が震える。
「なんで…あなたは新たな神になる存在だって信じてたのに」
部屋が静かになった。
淡いライトだけが暗闇の中で細く伸びて、互いのスイッチを指し合っている。
まるで、二つの罪が向かい合っているみたいに。
俺は、その光から目を逸らせなかった。




