第3話 身内という避難所
ピンポーン。
ベッドの上で固まったまま、俺は呼吸の仕方を忘れていた。
スマホは伏せたまま。掲示板の文字がまだ瞼の裏に焼き付いている。予告犯。狩り。特定。大学からの「至急」。非通知の着信。全部が一晩で俺の部屋に押し寄せて、逃げ場を塞いだ。
ピンポーン。
間隔が妙に正確だ。宅配のノックじゃない。用事がある人間の押し方。
俺は、引き出しの方を見た。
昨夜押した“それ”が、そこにある。次に押せるのは一年後。逃げ道も一年後。……いや、一年後が本当に存在する保証なんてどこにもない。
ピンポーン。
身体がようやく動いた。音を立てないようにベッドを降り、靴下のまま玄関へ向かう。床がやけに冷たい。自分の体温が足の裏から逃げていく。
覗き穴に目を寄せる。
廊下の蛍光灯の下、立っていたのは――小柄な女の子だった。フードを被って、マスクをしているのに、目だけで分かった。
妹だ。
胸が一瞬だけ緩んで、次の瞬間、別の恐怖が湧いた。
なんで、ここが分かる。
なんで、今。
俺はチェーンをかけたまま、鍵を回してドアを少し開けた。
「……紗月?」
マスク越しに、妹――紗月が息を吐いた。安心したみたいに、でも怒ってるみたいに。
「やっぱり兄さんだ」
「……なんで」
俺の声は掠れていた。昨夜から、まともに水も飲んでない。
紗月は俺の顔を一瞬見て、それから視線を外した。廊下の端を確認する。誰かに尾けられていないか、みたいに。
「中、入っていい?」
「……今は」
「今しかない。外で話すの危ない」
危ない――その単語が、俺の背中を押した。俺は躊躇いながらチェーンを外し、ドアを開けた。
紗月がするりと中に入る。靴を揃える動作が、やけに落ち着いて見えて、逆に怖い。俺の方がよほど子供みたいだった。
「どうしてここが分かったんだよ……」
俺はドアを閉めながら言った。鍵を二回回して、チェーンまでかける。やり過ぎだと分かっているのに、手が勝手に動く。
紗月は小さく眉を上げた。
「兄さん、忘れたの? 住所、昔LINEで送ってきたじゃん。“宅配受け取って”って」
「……あ」
そうだ。去年、俺が風邪で寝込んだとき、実家から荷物を送ってもらって。そのときに住所を――。
俺は、頭を抱えたくなった。ミスが全部、今になって回収される。
紗月はリュックを下ろし、部屋をぐるりと見回した。机の上、散らかったままの服、伏せたスマホ。――そして、俺の顔。
「で。ネットのやつ」
いきなり核心。
俺は反射で笑いそうになった。笑えるわけがないのに。
「……見たのか」
「見たよ。っていうか、見ない方が無理。トレンド全部それだもん」
紗月はマスクを外した。唇が少し白い。走ってきたのか、息が浅い。
「兄さんの投稿、スクショで回ってた。最初は“似てるな”って思っただけ。でも――」
「でも?」
「文章の癖。変なところで改行して、“なにこれ”って言うやつ。あと、“w”の付け方」
俺の心臓が、嫌な跳ね方をした。
「……それだけで来るか普通」
「それだけじゃない」
紗月はスマホを取り出して、画像を見せた。俺の投稿のスクショ。刻印の写真。見慣れた赤いボタン。――そして、その端っこ。
ほんのわずかに写り込んだ、俺の枕カバーの柄。
実家から持ってきた、変な猫の模様。
「トリミング違いの転載が出た。誰かが切り損ねたんだよ」
「……最悪だ」
「兄さん、その枕、子供の頃からずっとだよね。大学行っても持っていくとか、恥ずかしい」
最後は、いつもの妹の口調だった。だから余計に、現実だと理解した。
俺は喉を鳴らした。
「……帰れ。紗月」
「帰らない」
「こんな状況で、ここにいたら――」
「兄さんの方こそ、ここにいたら危ないでしょ」
紗月ははっきり言った。
「帰ってきて。一人暮らしは危ないよ。今、ネット、特定班とか言って遊んでるけど、遊びじゃ済まないって分かるでしょ?」
俺は言い返しかけて、言葉が出なかった。
分かる。分かるからこそ、俺は昨夜から息をしていないみたいな気分でいる。
でも、だからといって実家に戻れるか?
俺は自嘲気味に肩をすくめた。
「こんな状況だし、どこ住もうが同じだろ」
「同じじゃない」
紗月は一歩近づいた。目が強い。怖いくらいに。
「兄さん、今、“元凶扱い”されてるんだよ? このまま一人で元凶扱いされるつもり?」
その言葉が、胸に刺さった。
元凶扱い。
扱い、じゃない。
俺は息を吐く。長い息。吐くほどに、昨日漏れた「勝った」が、喉の奥で腐っていく。
「……元凶扱いというか」
声が震えた。
「元凶、そのものだからな」
言った瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。罅割れが走るみたいに。もちろん、何も見えない。見えないのに、言葉だけが現実を裂いた。
紗月は一瞬、瞬きもせずに俺を見た。理解できない、という顔じゃない。理解したくない、という顔だった。
「……冗談でしょ?」
「冗談なら良かったよ」
「……待って。だって、それって」
紗月の手が、わずかに震えた。俺の方が震えてるはずなのに、妹の震えが目に入ると、急に現実感が増した。
「兄さんが、押したの?」
俺は目を逸らした。逸らした先に、引き出しがある。昨夜の“それ”がある。
「……押した」
紗月は息を詰めた。
怒鳴られると思った。泣かれると思った。殴られると思った。
でも紗月は、すぐには何もしなかった。ただ、ゆっくりと椅子に座った。足がふらついたみたいに。
「……なんで」
その声は、小さかった。
俺は言い訳を探した。いくらでも並べられる。ノリだった。怖かった。ネットが煽った。消せば終わると思った。
でも、そのどれもが嘘じゃないのに、真実じゃない。
俺が本当に言いたくない部分――“当たりだと思った”部分――だけが、喉の奥でつかえている。
「分からない」
俺は正直に言った。
「最初は……本物じゃないと思った。押しても何も起きないって」
「起きたじゃん……」
「起きた」
俺は頷いた。頷くしかなかった。
紗月は口元を押さえ、しばらく黙った。沈黙が長い。壁が近づく。
その沈黙を破ったのは、紗月だった。
「……じゃあ、戻せるの?」
戻す。
その単語は、甘い毒みたいに響いた。
「一年に一回しか押せないって書いてあった」
「じゃあ一年後に――」
「分からない。押したら戻るなんて、どこにも書いてない」
紗月の目が揺れた。希望を探して、見つからない揺れ。
「兄さん、どうするの」
どうするの。
その問いに、俺の中でやっと形になっていたものが、言葉として出てきた。
「考えがある」
紗月が眉を寄せる。
「考え? なにそれ」
俺は唇を舐めた。乾いている。
「今の状況ってさ、俺が“スイッチを持ってるかもしれない”ってだけで、人が勝手に狂ってるだろ」
「……うん」
「だったら、逆にそれを使う。止める」
紗月の顔に、理解と恐怖が同時に浮かぶ。
「……脅すってこと?」
俺は否定できなかった。
「“取引”じゃない。脅しだ」
言った瞬間、自分の声が自分のものじゃないみたいだった。昨日の俺なら絶対言わない。いや、昨日の俺が押したのだから、昨日の俺も同じ穴にいる。
紗月は立ち上がった。
「兄さん、それ、やばいよ。だって、世界を人質に――」
「もう人質だろ」
俺は言った。声が少し強くなる。
「俺が持ってる可能性があるだけで、みんな勝手に“戻せるかもしれない”って希望を見てる。だったら、逆に怖がらせればいい。“特定したら、その希望が消える”って」
紗月の目が、俺をまっすぐ刺した。
「希望って……兄さん、本当に戻す気あるの?」
俺は答えられなかった。
戻すか戻さないか。正しいか間違いか。俺の中でまだ、ぐちゃぐちゃだ。
でも、今はまず、生き延びなきゃいけない。
紗月は一歩引いた。怒りでも失望でもなく、確認するみたいに。
「本当に?」
俺は頷いた。頷くしかない。
「……大丈夫だ。信用してくれ」
その言葉は、お願いだった。
紗月はしばらく俺を見て、唇を噛んだ。
「信用、したいよ」
声が震えた。
「でも兄さん、もしそれで……もっと燃えたら」
「燃える」
俺は、あえて言った。
「燃えるだろうな。だから、燃え方を変える。俺がコントロールできる方向に」
紗月は目を伏せた。深く息を吸って、吐いた。
「……じゃあ、今日だけはここにいさせて。兄さんが何するか、見てたい」
俺は反射で「駄目だ」と言いそうになって、飲み込んだ。
妹がいると危ない。でも、妹がいないと――俺はたぶん、もっと簡単に壊れる。
「……分かった」
俺は椅子に座り込んだ。背中が疲れている。たった二日なのに、何週間も戦ってきたみたいだ。
紗月はリュックからペットボトルの水を出し、俺に渡した。
「飲んで。顔色やばい」
俺は黙って飲んだ。水が喉を通るだけで、世界が少しだけ戻ってくる。
そして、その日の夜、俺は準備をした。
新しいアカウントを作る。名前は迷った末に、無機質なものにした。
「S-J交換事案 保有者」
黒幕なんて名乗らない。そんな言葉は軽い。俺がやるのは、現実の刃物みたいなことだ。
投稿文を、何度も書き直した。
言葉が少しでも弱いと、舐められる。強すぎると、嘘っぽくなる。脅しは、怖がられて初めて成立する。怖がらせるには、“失うもの”を相手に想像させなきゃいけない。
失うもの。
――スイッチが失われること。
それはつまり、「一年後に元に戻せるかもしれない」という人類の勝手な希望が、永遠に消えることだ。
俺は机の上にスイッチを置いた。引き出しから出すとき、指先がまた僅かに痺れた気がした。
紗月は部屋の隅で、膝を抱えて見ている。止めない。ただ、目が怖い。
「……やるの?」
「やる」
俺は手書きでメモを用意した。今日の日付と時刻。証拠っぽさが必要だ。今撮った写真だと示すために。
スイッチとメモを一緒に写す。刻印がはっきり見える角度。余計な背景は写さない。今度こそ、指紋みたいな生活の欠片を残さない。
撮った。
俺はその画像を添えて、投稿画面を開いた。
文章はこうだ。
【日本・スペイン位置交換事案について】
私は交換スイッチを保有している。
条件は二つ。
①私の現実の個人情報を拡散しないこと。
②私の身元を特定しようとしないこと。
どちらか一つでも破られた時点で、スイッチは失われる。
これは取引ではない。脅しだ。
私はスイッチを保有している。
(画像)
送信ボタンに指を置いた瞬間、喉の奥に昨日の「勝った」が蘇った。
勝った?
違う。
これは、ただの延命だ。俺が生き延びるための、最低の方法。
紗月が小さく言った。
「……兄さん」
「ん」
「これ、戻すための脅し、だよね?」
戻すため。
俺は一瞬、言葉に詰まった。
正直に言えば、俺はまだ“戻さない”側に傾いている。平和そうだから、なんて馬鹿な理由で。でも、今はそんな話をする段階じゃない。
「……まず、止めるための脅しだ」
俺はそう答えた。
紗月は何か言いたそうにして、結局言わなかった。ただ、目を逸らさなかった。
俺は送信を押した。
画面が更新される。
投稿が、世界に投げ込まれた。
次の瞬間から、スマホが震え始めた。
通知が、増殖する。
俺は歯を食いしばった。これで終わるわけがない。むしろここからだ。
そして、案の定、掲示板は即座に反応した。
◆【ネット観測板】◆
【速報】“保有者”名乗るアカウント出現【画像あり】
1 :観測者:03/04(水) 09:12:03 ID:W1ch
例のボタン画像、今日の日付メモ付きで出た
「特定したらスイッチ失う」だってよ
2 :観測者:03/04(水) 09:12:51 ID:8dLr
ガチっぽいの来た
これで特定班止まるか?
3 :観測者:03/04(水) 09:13:20 ID:kkpA
止まるわけねぇ
逆に燃える
4 :観測者:03/04(水) 09:14:02 ID:3pVn
でも「失う」って言い方が一番怖い
戻す可能性ゼロ宣言みたいなもん
5 :観測者:03/04(水) 09:14:40 ID:9fYq
これ、警察とか政府が本腰入れるやつでは?
紗月が俺の顔を見た。責める目じゃない。祈る目だった。
「……ねえ兄さん」
「ん」
「これで、止まる?」
俺は答えられなかった。
止まらない。たぶん止まらない。止まる人もいるけど、止まらない人の方が目立つ。ネットはそういう場所だ。
でも、燃え方は変わる。
“狩り”から、“脅しの正当性”へ。“特定”から、“スイッチの価値”へ。話題の中心をずらす。それが俺の考えだった。
俺は息を吐いて、紗月にだけは嘘じゃない言葉を返した。
「……止める方向に、押し込む」
紗月は小さく頷いた。
そのとき、俺のスマホにまた非通知の着信が入った。
画面が震える。今までとは違う震え方に見えた。投稿の直後だ。偶然じゃない気がする。
俺は一瞬、迷って――迷いながらも、出なかった。
出たら、もっと終わる。
着信が切れた直後、メッセージが届いた。知らない番号。短い一文だけ。
「スイッチを持っているのは、君だけじゃない」
俺の背中に、冷たいものが這った。
紗月が顔色を変えたのが分かった。俺が何かを受け取ったと、直感で察したみたいに。
「……なに?」
俺は画面を伏せた。
言えない。言ったら、妹の避難所まで裂ける。
けれど、もう遅い気もした。
世界は罅割れた。縫い目の針穴に、俺はいる。
そして――針を握っていると思っていたのは、俺だけじゃないのかもしれない。




