第1話 枕元のボタン
目が覚めた瞬間、まず違和感があった。
枕元のいつもの定位置――スマホと、読みかけの文庫本と、充電ケーブルの束。その並びのど真ん中に、見覚えのない“何か”が置いてある。
置いてある、というより、最初からそこに「いた」みたいな顔で。
灰色の台座。角は丸く、手のひらサイズ。上面に、赤い押しボタンがひとつ。
玩具っぽくない。百均でもガチャでもない。変に重くて、変に冷たい。工場の制御盤から引っこ抜いてきたみたいな質感だ。
俺はしばらく、起き上がることもできずにそれを見つめた。
脳がまだ寝ぼけているせいで、ありえないものを“ありえるもの”として処理しようとしている感覚があった。
――誰かが置いた?
いや、無理だろ。
俺は一人暮らしだ。昨日も、誰も部屋に入れてない。鍵もチェーンも閉めた。窓だって開けてない。そもそも、この狭い1Kで、知らない人が侵入したら気づかないわけがない。
ボタンは、そんな俺の常識を鼻で笑うみたいに、静かに鎮座していた。
赤いボタンの縁に、光が溜まっている。朝日が当たっているだけのはずなのに、妙に“そこだけ”が強調される。
「……なにこれ」
声に出すと、現実が少しだけ戻ってきた。
俺は半身を起こし、恐る恐る台座に指を伸ばした。触れた瞬間、静電気でもないのに、指先がほんの少し痺れる。
冷たい。金属の冷たさだ。
持ち上げると、思ったより重かった。中身が詰まっている重み。空洞じゃない。軽いノリで「押してみよw」とか言える感じじゃない。
台座の側面に、細い溝がある。電池のフタでもUSB端子でもない。なんのための溝か分からない。
そして――上面、赤いボタンの下に、刻印があった。
機械彫りみたいな、まっすぐで無機質な文字。
スペインと日本を交換する
文字を読み終えた瞬間、思考が一拍遅れて追いつく。
「……は?」
いや、待て。待て待て待て。
“交換する”って何を? 位置? 土地? 国境? そんなの、交換できるわけがない。
俺は鼻で笑いそうになって、笑えなかった。
文字が、妙にリアルだった。フォントが怖いんじゃない。内容が馬鹿げているのに、刻印の仕上げがやけに本気で、ふざけてない。
さらに、その下に小さく続きがあった。見落としそうなほど小さい。
押下により即時発動
次回使用可能:押下日から一年後
「一年後?」
冗談みたいな文面が、冗談じゃない温度で刻まれている。
俺はボタンを見下ろしたまま、しばらく固まった。
頭の中では、いくつもの可能性がぐるぐる回る。
悪質なドッキリ。誰かのいたずら。俺が寝ぼけてAmazonで変なものを買った(買ってない)。夢。寝起きの幻覚。
どれも決め手がない。
決め手がないのに、ボタンだけが“そこにある”。
その事実が、妙に腹立たしかった。
「……とりあえず、写真」
俺は反射的にスマホを掴んだ。
こういうとき、脳が人間の証拠にすがるのは当然だと思う。写真を撮れば、“自分だけの奇妙”が“誰かと共有できる奇妙”になる。
共有した瞬間に、怖さが薄まる。
俺はボタンを枕元に置き、上から撮った。刻印がはっきり写るように角度を変えて、二枚。念のため、部屋の背景が映り込まないように、布団の上で。
画面の中のボタンは、現実よりもいっそう“それっぽく”見えた。
ふざけた小道具みたいに。
俺は、その“それっぽさ”に、ほんの少し救われた。
そして――投稿した。
深く考えずに、いつも通りのノリで。
「枕元にこれあったんだけどw
『スペインと日本を交換する』って書いてある
なにこれ」
ハッシュタグも、適当に二つ付けた。#謎 #押すなよ
投稿ボタンを押した瞬間、俺はちょっとだけ笑った。
こんなの、どうせネタ扱いされて終わる。誰かが「自作乙」って言って、俺が「だよなw」って返して、そのうち流れていく。
そういう“いつもの世界”に戻すための投稿だった。
――なのに。
投稿してから、五分もしないうちに通知が鳴った。
いいね。リポスト。返信。
最初は友達だった。
「草」
「お前また変なもん拾ってきたな」
「押すなよ(押せ)」
そのテンションに、俺は安心した。ほら、いつものノリだ。
でも、数が増える。
知らないアカウントからの反応が、雪崩みたいに流れ込んでくる。
「刻印ガチで草」
「機械彫りっぽい、どこで買った?」
「押下により即時発動って書いてあるの怖」
「一年後って何www」
「押せ」
「押せ」
「押せ」
“押せ”が増殖していく。
おかしい。たった一枚の写真で、こんなに伸びる?
俺はベッドの上で、スマホを握ったまま眉をひそめた。
タイムラインの上の方に、知らない人が俺の投稿を引用していた。
「これ、刻印が“スペインと日本”って限定されてるのが逆に怖い
“日本とアメリカ”とかじゃなくて」
別の人は、画像を拡大していた。
「下の小さい文字、もう一行あるぞ
これ…『付属島嶼・飛び地を含む』って読めない?」
「え?」
俺は慌てて写真を拡大した。
確かに、刻印のさらに下、ボタンの縁に沿うように、極小の文字がある。
自分で持って読んだとき、そこまで見てなかった。
現物を手に取り、角度を変える。光を当てる。
あった。
交換対象:領土・領海・上空(付属島嶼・飛び地を含む)
喉が、ひゅっと鳴った。
いや、待て。冷静になれ。これが本物だなんて決まってない。誰かが作った小道具だ。こういう“細部の作り込み”こそ、ネット受けする。
……そう。受けてる。
通知は止まらない。画面が熱くなる。俺の指先だけが冷える。
ふと、DMのアイコンが点滅した。
知らないアカウント。アイコンも、名前も、意味のない記号みたいなやつ。
嫌な予感がして、開く。
「消せ」
「押すな」
「本物だ」
「写真、消しても遅い」
四行だけ。説明も、脅しもない。短いのに、妙に刺さる。
「……は?」
思わず声が出た。
なんだこれ。怖がらせたいだけ? 釣り? うざ。
俺は画面を閉じかけて――閉じられなかった。
“消しても遅い”って何だよ。
俺は、投稿画面に戻った。コメント欄はさらに加速している。
「魚拓取った」
「スクショした」
「これ消したら逆に怪しい」
「押さないなら俺が押す」
「住所特定班、出番?」
「背景写ってないから無理w」
「このテーブルの木目、IKEAだろ」
「カーテンの影から方角割れるぞ」
「……うわ」
笑えない方向に流れている。
背景が写ってないのは正解だった。だけど、正解を選んだはずなのに、怖さが増す。
“特定班”なんて、いつもは他人事の言葉だった。祭りの外側で、スマホ越しに見て笑うものだった。
それが今、俺の投稿の周りで動き出している。
俺は寝癖のまま、部屋の真ん中に立ち尽くした。
ボタンは枕元にある。
赤いボタンが、俺を見ている気がした。
――押すな。
――押せ。
ネットの声と、知らないDMが、頭の中で綱引きを始める。
その綱の真ん中に俺がいて、引き裂かれそうだった。
俺は逃げるみたいに身支度をした。今日は一限がある。行きたくないけど、行かなきゃ。いつも通りの生活に戻れば、現実に戻れる。
そう思った。
ボタンをどうするか迷って、結局、引き出しの奥に突っ込んだ。
ふたを閉めた瞬間、部屋の空気が少し軽くなった気がした。気のせいだ。
鍵をかけて外に出る。
春先の空気はまだ冷たい。駅までの道で、スマホの通知がまた鳴る。ポケットの中で、延々と震える。
講義室に入っても、集中できなかった。
教授の声が遠い。ノートの文字が頭に入ってこない。机の上でスマホを裏返しにしても、振動だけは伝わってくる。
隣の席の友達――健太が肘でつついてきた。
「お前さ、今バズってね?」
「……バズってない」
「いやバズってるって。見たぞ。『スペインと日本を交換する』ってやつ」
健太は笑っている。面白がっている。いつものノリだ。
俺は笑えなかった。
「なに、また自作?」
「知らねぇよ。起きたらあった」
「は? 怖。押せよ」
「押すな」
俺が強めに言うと、健太は「え、マジ?」みたいな顔をした。
その顔が、俺の中の“いつもの世界”を少しだけ戻した。
他人がいる。講義室がある。教授がいる。世界は普通だ。
だから――ボタンも普通のイタズラであるはずだ。
そう思いたかった。
昼休み、学食でスマホを開くと、投稿は完全に“伸びる流れ”に乗っていた。
知らないまとめアカウントが転載している。引用が引用を呼んでいる。
「これ、事件の予告では」
「世界を弄ぶな」
「日本が欧州になったら平和になるのに」
「スペインかわいそう」
「スペインなら当たりじゃん」
「一年に一回ってことは、戻せるんだろ?」
「戻せるって誰が言った」
「押したら報告しろ」
「押さないなら偽物確定」
“押したら報告しろ”。
その言葉が、妙に胸に引っかかった。
もし押して、何も起きなかったら。
みんなは「やっぱ自作か」「つまんね」で終わる。俺も「だよな」で終わる。
もし押して、何かが起きたら。
……いや、起きるわけない。
起きるわけない、はずなのに。
“スペインと日本を交換する”。
その文字列が、頭の中で何度も反芻される。
スペイン。
サッカー。パエリア。陽気。ヨーロッパ。平和。……平和、か?
日本が、スペインの位置に行く。欧州だ。周りはEUだ。なんか、強そう。安全そう。
逆にスペインは日本の位置に来る。東アジア。……まあ、でも、スペインって強い国だろ。たぶん大丈夫。知らんけど。
俺の思考は、薄い。自分でも分かるくらい薄い。
でも薄いからこそ、楽観が滑り込む余地がある。
“もし本当なら、当たりじゃん”。
不謹慎なはずのその感覚が、喉の奥で甘く膨らむ。
俺は慌てて首を振った。
「馬鹿か」
口に出して、打ち消した。
スマホがまた震える。今度はDMが増えていた。
「配信しろ」
「押すな、死ぬぞ」
「押したら世界終わる」
「押しても何も起きないから押せ」
そして、さっきの謎アカから、追撃。
「ボタンを捨てるな」
「隠しても無駄だ」
「君はもう選んでいる」
最後の一行が、ぞわっとした。
君はもう選んでいる。
何を? 何を選んだ? 投稿した時点で? 押すか押さないかを?
俺はスマホを伏せた。
学食のざわめきが、急に遠のく。音がガラス越しになる。
笑ってる学生。トレイの音。食器の擦れる音。全部、現実なのに、現実感が薄い。
引き出しの奥に突っ込んだボタンが、頭の中で“重さ”だけを主張する。
午後の講義は欠席した。
理由は適当に、体調不良。実際、胃が重かった。食欲がない。胸がざわざわする。
部屋に帰る道すがら、街は普通だった。コンビニも、信号も、電車も、普通に動いている。
なのに、俺はずっと、世界が“薄い紙”みたいに感じていた。
少し力を入れたら破れる。少し間違えたら裂ける。
玄関の鍵を開ける手が震えた。
部屋に入る。電気をつける。引き出しを開ける。
ボタンは、そこにあった。
当然のように、そこにある。
俺はそれを取り出し、机の上に置いた。
スマホの画面には、まだ通知が溜まっている。コメント欄は、もはや俺の手を離れていた。
「押せ押せ押せ」
「ビビって逃げたw」
「押さないなら嘘松」
「いや普通に怖いだろ」
「もし本物なら、今この瞬間が分岐点」
「世界線が変わる」
「厨二病かよ」
「厨二病で世界変わったら笑う」
“逃げた”。
その二文字が、妙に腹に刺さった。
逃げたくないわけじゃない。逃げたい。こんな得体の知れないもの、関わりたくない。
でも、逃げたら――どうなる?
ネットは忘れない。スクショは残る。まとめは残る。魚拓は残る。
投稿した時点で、俺の手を離れている。
だったら、押して終わらせた方がいい?
押して何も起きなかったら、それで終わる。
押して――もし、もしも“何か”が起きたら?
俺は深呼吸した。
机の上のボタンに、もう一度指を置く。
赤いボタンは、指の腹に柔らかく当たった。硬いはずなのに、妙に“押せそう”な感触だ。
刻印を、もう一度読む。
スペインと日本を交換する
押下により即時発動
次回使用可能:押下日から一年後
交換対象:領土・領海・上空(付属島嶼・飛び地を含む)
「一年に一回……」
押したら一年、戻せない。
……戻す、って何だ。戻すって前提が、もうおかしい。
俺は自分の思考の滑りに気づいて、苦笑した。
“戻す”があると思っている時点で、どこかで信じてる。
信じてないなら、押して終わりだ。押して何も起きない。馬鹿らしい。笑って終わり。
信じてるなら――押すのが怖い。
怖いのに、指が離れない。
ネットの声が、頭の中で囁く。
押せ。
押せ。
押せ。
そして、俺の中の薄い楽観が、囁き返す。
スペインなら、悪くない。
ヨーロッパなら、平和そうだ。
誰も不幸にならない……わけないのに。
俺はスマホを手に取り、投稿画面を開いた。
コメント欄は流れ続けている。俺が今ここで何をしているか、誰も知らない。画面の向こうは勝手に盛り上がっている。
俺は、スマホを机の端に置いた。
録画ボタンを押すか、一瞬迷って、やめた。
証拠を残したい気持ちと、証拠を残したくない気持ちが、同じくらい強い。
結局、俺は何も残さない方を選んだ。
それが“逃げ”なのか“慎重”なのか、自分でも分からない。
机の上に、ボタン。
俺の指先に、赤。
部屋の外から、誰かの足音。隣室の水道の音。遠くの車の走る音。
世界は普通だ。
普通であってくれ。
俺は、笑いそうになった。
こんなものが本物なわけがない。もし本物だったら、俺は今、世界のスイッチを握っていることになる。そんなの、漫画だ。映画だ。ラノベだ。
――でも、もし本物だったら。
その“もし”が、俺の中のどこかを、熱くした。
馬鹿だ。最低だ。
だけど、胸の奥で、何かがウキウキしている。
俺は舌打ちして、目を閉じた。
「……押すだけ。押して、終わり」
自分に言い聞かせる。
終わらせる。
終わらせるために、押す。
指に力を込めた。
赤いボタンが、ゆっくり沈む。
その瞬間――部屋の空気が、一拍だけ抜けた。
音が消える。耳が塞がれたみたいに、世界が無音になる。
視界の端で、何かが“裂けた”気がした。
薄い、透明な亀裂。
ガラスに走るヒビみたいな、細い線が、空中に一瞬だけ浮かんで――消えた。
「……え」
俺が声を出すより先に、スマホが、ぷつんと黒くなった。
画面が落ちたわけじゃない。電源が切れたわけじゃない。
“接続”が切れたみたいに、真っ暗になった。
ボタンは、底まで沈みきっている。
俺の指先が、赤の上に乗ったまま、動けない。
心臓が、遅れて跳ねた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
部屋の外で、遠くから、サイレンの音がした気がした。
気のせいだ。夜のサイレンなんて、よくある。
俺は息を止めて、ボタンから指を離した。
赤いボタンは、ゆっくり元の高さに戻る。
何も起きない。
――何も?
机の上のボタンは、さっきと同じだ。
壁も床も、窓も、カーテンも、同じだ。
俺は、乾いた笑いを漏らした。
「……なんだよ」
その笑いが、妙に自分の耳に響いた。
スマホの画面が、じわっと点いた。ロック画面。圏外の表示。
圏外。
この部屋で圏外になることなんて、今まで一度もない。
俺はスマホを掴み、窓に近づいた。カーテンを少しだけ開ける。
夜の街は――暗い。
暗いのは当たり前だ。夜だから。
ただ、空気が、さっきまでと違う気がする。
匂い。湿度。遠くの音。
何が違うか言えない。言えないのに、背中の皮膚がざわざわする。
俺はカーテンを閉めた。
見ない。今は、見ない。
ボタンを机の引き出しに戻そうとして、やめた。
戻すのが怖い。
意味が分からないのに、怖い。
俺はベッドに座り込み、スマホを握ったまま、天井を見上げた。
圏外の表示が、白く光っている。
心臓が、まだ早い。
俺は喉の奥で、小さく呟いた。
「……勝った」
誰に向けた言葉でもない。
何に勝ったのかも分からない。
ただ、その二文字が、妙にしっくりきてしまって――俺はそれが一番怖かった。
その夜、俺は眠れなかった。
眠れないまま、目を閉じ続けた。
世界が、静かに、どこかへ動いた音がした気がした。




