第八話:放課後の書記係
第六話:放課後の書記係
ここからは僕、高橋が語っていこうと思います。
あの日の放課後、夕闇に染まった教室で先生の鮮血を見た時、僕の時間は一度止まったような気がしました。
先生は、最後まで嘘をつこうとしました。「大丈夫だ」「ただの貧血だ」と。でも、僕の肩に預けられたその体は、驚くほど軽くて、まるで中身が空っぽの枯れ木のようでした。母さんがいなくなった時の、あの冬の日の匂いがしました。
それから僕と加藤先生の間には、奇妙な契約が結ばれることになりました。それは、先生が誰にも言わずに書き続けていた「記録」を、僕が手伝うというものです。先生の指先は、もうペンを長時間握り続ける力さえ失いつつあったからです。
二人の秘密基地
「いいか、高橋。これは僕たちが交わした、一生の約束だ。誰にも、僕の妻にさえ、このノートの存在を教えてはならない」
先生は、学校の裏手にある使われていない旧図書準備室で、僕にそう言いました。カビ臭い空気と、埃の舞う光の筋。そこが僕たちの「仕事場」になりました。
先生は椅子に深く腰掛け、窓の外を眺めながら、ぽつりぽつりと独白のように言葉を紡ぎます。僕はそれを、先生から預かった一冊の黒いノートに書き留めていく。それが僕の日課になりました。
「二月二十五日。今日は、二年生の数学の佐々木先生が、僕の好物だと言っていた羊羹を差し入れてくれた。本当はもう、固形物を受け付ける余裕なんてない。でも、僕はそれを一口食べ、彼に向かって『最高だ』と笑ってみせた。嘘をつくのは、とても体力がいる。けれど、彼が僕を憐れむことなく、いつものようにガハハと笑って立ち去っていく背中を見て、僕は救われた気がした……」
僕はペンを動かしながら、胸が締め付けられるような思いでした。
先生は、死ぬ瞬間にまで「加藤渉という男」を演じ続けようとしている。それは、僕にはとても滑稽で、そして、どうしようもなく気高いことのように思えました。
「先生。どうしてそこまでして隠すんですか? みんなに言えば、もっと楽になれるのに」
僕が思わず口にすると、先生は少しだけ困ったように眉を下げて笑いました。
「高橋。人は、誰かの弱さを知ると、どうしても優しくなってしまう生き物なんだ。それは美しいことだが、同時に、その人を『弱者』という檻に閉じ込めてしまうことでもある。僕は最後まで、一人の対等な人間として、君たちの教師として、この場所を去りたいんだよ」
その言葉を聞いた時、僕は初めて、先生が嘘をつき続けている理由が分かった気がしました。先生にとっての嘘は、人を騙すための道具ではなく、自分自身のプライドと、周りの日常を守るための、最後の盾だったのです。
滲むインク、交わる想い
三月に入ると、先生の衰えは誰の目にも明らかになってきました。
階段を一段上るごとに立ち止まり、激しく咳き込む。職員室では、同僚たちが心配そうに彼を見つめ、家では奥さんが、彼の異変を知りながらも知らないふりをして、震える手で朝食を作っている。
そんな張り詰めた世界の中で、この旧図書準備室だけが、先生が「病人」として呼吸できる唯一の場所でした。
「三月五日。今日、廊下で高橋が僕に怒鳴られた。僕が階段で足をもたつかせた時、彼が支えようとしたからだ。僕はわざと冷たい声を出し、生徒が教師に馴れ馴れしくするなと言った。……高橋、あの時はすまなかったな」
僕は書きながら、鼻の奥がツンとするのを感じました。
「気にしてませんよ。先生の演技、下手くそでしたし」
「はは、そうか。修行が足りないな」
先生は少しだけ笑い、それから激しく咽せました。背中をさすろうとする僕の手を、先生は優しく制しました。
「書くんだ、高橋。続きを」
先生は、自分の死が近づいていることを、まるで実況中継するように淡々と語り続けました。痛みの種類、意識が遠のく感覚、そして、窓の外に咲き始めた早咲きの桜を見て感じた「生への執着」。
僕はその言葉を一つも漏らさないよう、必死にノートに刻み込みました。
僕にとって、このノートを書く時間は、もう単なる手伝いではありませんでした。それは、母さんを救えなかった僕が、初めて一人の人間の「生」に真っ向から向き合う、神聖な儀式のようになっていました。
最後の「宿題」
ある日の放課後、先生は僕に一通の手紙を託しました。
「これは、僕が動けなくなった時に、真由美……僕の妻に渡してほしい」
先生の顔は、もう骸骨のように痩せ細っていました。それでも瞳だけは、濁ることなく、まっすぐに僕を見ていました。
「高橋。君は不登校だった。世界に居場所がないと感じていた。でも、君は今、僕の命の最後を繋ぎ止める、世界でたった一人の書記係だ。君にしかできない仕事がある。……それを誇りに思ってくれ」
僕は手紙を受け取り、強く頷きました。
言葉が出ませんでした。ただ、先生からもらったその「役割」が、僕の中の空っぽだった場所に、温かな熱を灯してくれたことだけは確かでした。
ノートの余白は、あと数ページ。
先生の命の終わりと、このノートの終わり。どちらが先にやってくるのか、僕には分かりません。
でも、僕は決めていました。たとえ先生が倒れても、先生が言いたかったこと、言えなかったことのすべてを、僕がこのノートに書ききってみせる。
それが、僕に「生きる理由」をくれた先生への、たった一つの恩返しだと思ったからです。




