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最後のチャイムまで、僕は嘘をつく  作者: 水前寺鯉太郎
第ニ章

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第二十三話:鉄路の記憶 —— 免許返納と、戻らぬ夏

第3章 第7話 :鉄路の記憶 —— 免許返納と、戻らぬ夏

その日の朝、藤堂は地元の警察署の窓口に立っていました。

差し出したのは、数年前までは当たり前のように財布の中に収まっていた、自分の顔写真入りのプラスチックカード。かつて「英雄」になりたかった男が、自由自在に世界を駆け回るための翼だと思っていた、運転免許証です。

「……本当に、よろしいですね?」

窓口の署員の問いに、藤堂は深く、静かに頷きました。

先週、信号の色の意味が一瞬だけ分からなくなり、交差点の真ん中で立ち尽くしてしまった。あの時、鳴り響いたクラクションの音は、彼にとっての「最後の通告」でした。

(誰かを傷つける前に。……加藤先生がペンを置いたように。高橋先生が車を路肩に止めたように)

穴の開けられた免許証を受け取り、署を出たとき、藤堂の足取りは驚くほど軽やかでした。何かを失うことは、何かを守ることでもある。それを、彼はこの学校の先師たちから学んでいたからです。

揺られる車窓、霧の中の目的地

藤堂は、駅の券売機の前で立ち止まりました。

慣れ親しんだ地名。しかし、どのボタンを押せば、あの「真由美さんの住む街」へ辿り着けるのか、路線図の線が迷路のように絡み合って見えます。

彼は無理をせず、駅員にメモを見せました。

『この街へ行きたいです。切符の買い方を教えてください』

付箋に書かれた、自分への指示書。駅員は少し不思議そうな顔をしながらも、丁寧に切符を買い、乗り換えのホームまで案内してくれました。

ガタン、ゴトン。

電車に揺られながら、藤堂は窓の外を流れる緑を見つめていました。

膝の上には、大切に布で包まれた、あの「黒いノート」があります。

(先生。僕は今、かつてないほど純粋な気持ちで、あなたたちに会いに行っています)

記憶が、砂時計のようにさらさらと落ちていく。

さっき見た車窓の景色を、もう思い出せない。

けれど、胸の奥にある「会わなければならない」という熱い塊だけは、どんな霧に包まれても消えずに残っていました。

坂道の上の、変わらない笑顔

駅からバスに乗り、さらに坂道を歩いて、ようやく辿り着いたあの一軒家。

庭の紫陽花が、雨を待ちわびるように色を濃くしていました。

チャイムを鳴らすと、少しして扉が開きました。

「あら……藤堂くん?」

真由美さんは、藤堂の姿を見るなり、その表情を強張らせました。

藤堂の歩き方、視線の揺らぎ、そして、何かを必死に思い出そうとするその痛々しいまでの表情。かつて、二人の男を看取った彼女の眼識は、残酷なほど正確でした。

「真由美さん。……免許、返してきました。もう、車では来られません」

藤堂が無理に笑ってみせると、真由美さんは何も言わず、彼の腕をそっと取りました。

「よく、ここまで一人で来られたわね。……さあ、入って。渉さんも、高橋くんも、待っているわ」

二人の先師との対話

リビングの祭壇には、加藤先生と高橋先生の遺影が並んでいました。

藤堂は正座し、深く頭を下げました。

左腕の腕時計——高橋先生から受け継いだその時計は、今も変わらずチクタクと音を立てています。藤堂には、その音が「大丈夫だ、覚えているぞ」という先師たちの励ましのように聞こえました。

「先生。僕は、もうすぐ自分の名前を忘れるかもしれません」

藤堂は、仏壇に向かってぽつりと呟きました。

「計算も、漢字も、昨日教えた授業の内容も、霧の中に消えていきました。……でも、不思議ですね。怖くないんです。僕の代わりに、あの少年が数字を覚えてくれている。同僚たちが付箋を貼ってくれる。……僕が消えても、僕がいた『記録』は、みんなが持っていてくれるから」

真由美さんは、藤堂の後ろで静かに涙を拭いていました。

「藤堂くん。渉さんも、高橋くんも、あなたを誇りに思っているわ。……あなたは、彼らが成し遂げられなかった『弱さをさらけ出す』という、一番難しい授業をしているんですもの」

ノートに刻む、最後かもしれない言葉

藤堂は、鞄からあの「黒いノート」を取り出し、テーブルに置きました。

加藤先生の三十ページ、高橋先生の五十ページ。

その後ろに続く、藤堂の乱れた文字の数ページ。

「真由美さん。このノートを、また預かってください」

「……え?」

「僕がこのノートの意味さえ忘れて、どこかに置き忘れてしまう前に。……一番安全な場所に、戻しておきたいんです。僕の記憶が全部砂になっても、このノートだけは、次の『誰か』に繋げられる場所にあってほしい」

真由美さんは、震える手でその重厚なノートを受け取りました。

それは、三人の男たちの命のバトン。

「わかったわ。大切に、命を懸けて守るわね」

藤堂は、最後にペンを借りました。

今の自分に書ける、最高の、そして最後になるかもしれない一文。

彼は、ノートの自分のページの終わりに、大きく、力強く、こう記しました。

『藤堂、参上。——英雄にはなれなかったけれど、最高の仲間たちに出会えた。』

文字はあちこちが震え、今にも崩れそうでした。

けれど、そのインクの跡には、記憶を失うことへの恐怖に打ち勝った、一人の男の凱旋の証が刻まれていました。

帰路の夕焼け

真由美さんに駅まで送ってもらい、藤堂は再び電車に乗りました。

反対側のホームへ行く階段で、彼は一度だけ振り返りました。

真由美さんが、小さくなるまで手を振っていました。

(……あの人は、誰だったかな)

一瞬、記憶が途切れました。

けれど、温かい。胸の奥が、日向ぼっこをしているように温かい。

それでいい、と藤堂は思いました。

名前は忘れても、その温かささえ覚えていれば、自分はまだ「藤堂」でいられる。

ガタン、ゴトン。

夕日に染まる車内で、藤堂は高橋先生の腕時計を見つめました。

針は動いている。

自分という「記録」は、今、この電車に乗っているすべての人、駅員さん、同僚、そしてあの少年に、少しずつ小分けにされて預けられている。

藤堂は、静かに目を閉じました。

車窓から差し込むオレンジ色の光が、彼の穏やかな寝顔を照らしていました。

彼にはもう、付箋も、メモも必要ありませんでした。

忘れることさえも一つの「物語」として受け入れた男の顔は、かつて憧れたどの英雄よりも、気高く、美しく輝いていました。

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