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最後のチャイムまで、僕は嘘をつく  作者: 水前寺鯉太郎
第ニ章

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第十七話:繰り返される嘘 —— 陽だまりの終止符

卒業式という名の「最後の舞台」を、高橋は奇跡的な気力で演じきりました。

 あの日、真っ白な大樹が描かれた黒板の前で、彼は一人ひとりの生徒の目を見つめ、証書を手渡しました。教え子たちの瞳に宿る感謝と、言葉にならない惜別の情。それをすべて心のノートに刻み込んだとき、高橋は自分の中の「教師としての命」が、一点の悔いもなく燃え尽きたことを悟りました。

 しかし、運命は時に、残酷なまでの「凪」を贈り物として届けることがあります。

 卒業式の翌日、高橋の体調は驚くほど安定していました。あれほど彼を苛んでいた胃の激痛は影を潜め、土気色だった肌には、数ヶ月ぶりに淡い血色が戻っていました。医師が言った「最期の輝き」なのか、あるいは加藤先生が天国で少しだけ時間を工面してくれたのか。

 高橋は、ずっと大切に保管していた愛車のキーを手に取りました。

「真由美さん。少し、遠出してきます。……先生と一緒に、行きたかった場所へ」

 真由美さんは、高橋の澄んだ瞳を見て、止めることはしませんでした。ただ、彼が羽織るコートの襟を整え、「いってらっしゃい。気をつけてね」と、かつて渉を送り出した時と同じ、深く、穏やかな声で微笑みました。


海へ続く一本道


 高橋が向かったのは、加藤先生が生前「一度、あそこの断崖から海を眺めてみたかったんだ」とこぼしていた、県境にある海岸線でした。

 車の窓を全開にすると、三月の少し冷たくも湿り気を帯びた潮風が、車内に流れ込んできます。カーステレオからは、先生が好きだったバッハの旋律が静かに流れていました。

 高橋は、左腕の腕時計を確認しました。午前十一時。太陽は高く、海面は無数のダイヤモンドを撒いたようにキラキラと輝いています。

 (先生。僕、ここまで来られましたよ)

 彼はハンドルを握る手の感触を確かめました。かつて不登校だった少年は、死を目前にして、これほどまでに世界を愛おしいと感じている。その事実が、彼を誇らしい気持ちにさせました。

 目的地である展望台に到着した高橋は、車を降り、手すりに身を預けました。広大な太平洋。水平線が丸みを帯び、空と海の境界が溶け合っていく。

 高橋は鞄から、あの「記録のノート」を取り出しました。加藤先生の筆跡から始まり、真由美さんの決意を経て、今では高橋の言葉で埋め尽くされている、重厚な一冊です。

 彼は展望台のベンチに座り、最後の余白に万年筆を走らせました。

 三月十六日。

 嘘のように体が軽い。昨日の卒業式、生徒たちが僕の嘘を信じてくれたのか、それとも僕に合わせてくれたのかは分からない。けれど、あの子たちの笑顔は、本物だった。

 僕は今日、先生が愛した海を見に来た。先生。死ぬことは、消えることじゃないんですね。誰かの記憶の中に、優しい嘘として生き続けることなんですね。

 僕は、このノートを書き終えたら、もう一度だけ、先生と、真由美さんと、生徒たちのいるあの街へ帰ります。僕の「明日」は、まだ終わらない。

 書き終えた高橋は、満足げにノートを閉じました。その時、空がふっと暗くなったような気がしました。


突然の静寂——繰り返される宿命


 帰り道、高橋は緩やかな峠道を下っていました。意識は冴え渡り、心は凪のように静かでした。

 しかし、その瞬間は、何の予兆もなく、そして圧倒的な力で訪れました。

 ドクン。

 心臓が、一度だけ大きく跳ねました。それは、癌の痛みとは全く質の違う、身体の「中枢」が停止する衝撃でした。

 急性心不全。癌によって極限まで衰弱していた彼の心臓は、最後の一仕事を終えたかのように、その鼓動を止める準備を始めていたのです。

「……あ、……」

 視界が急激に狭まり、手足の先から感覚が消えていきます。高橋は残された最後の力を振り絞り、車を路肩に寄せました。ハザードランプを点滅させ、ブレーキを踏み込む。それは、教師として、そして一人の大人として、他者を巻き込む事故だけは起こさないという、彼の最後の理性がさせた行動でした。

 車が完全に停止したとき、高橋はシートに深く身を沈めました。胸の奥で、何かが静かに、けれど確実に「消灯」していくのを感じました。

 (……あ、……これが、……)

 窓の外には、夕日に染まる山々が見えます。オレンジ色の光が車内に差し込み、助手席に置かれた「記録のノート」を黄金色に照らしていました。

 高橋は震える手で、ダッシュボードに飾っていた一枚の写真を手に取りました。加藤先生、真由美さん、そして若かりし頃の自分が、旧図書準備室の前で笑っている写真でした。

「……先生。……僕、……上手に、……」

 言葉は、声になりませんでした。けれど、高橋の唇は微かに微笑んでいました。

 苦しみはありませんでした。ただ、深い眠りに誘われるような、懐かしい感覚。

 左腕の腕時計が、カチ、カチと音を立てています。加藤先生から受け継ぎ、一秒の狂いもなく時を刻んできたその時計。高橋の心臓が止まるのとほぼ同時に、その時計の秒針もまた、奇跡のような偶然で、その動きを止めました。


静かな「発見」


 日が完全に落ち、辺りが暗闇に包まれた頃。パトロール中の警察官が、ハザードランプを灯したまま静かに停まっている一台の車を見つけました。

 運転席に座っていた青年は、まるで深い眠りについているかのように、穏やかな顔をしていました。その手には古びた写真が握られ、膝の上には一冊の黒いノートが置かれていました。

 警察官がノートを開くと、そこにはまだ乾ききっていないインクで、最後の一行が書き加えられていました。

 『また、明日。僕たちの日常は、続いていく。』

 それは、かつて加藤先生が黒板に残し、高橋が一生をかけて守り抜いた、最高の「嘘」でした。

エピローグ——継承される光

 高橋の葬儀には、卒業したばかりの生徒たちが全員、参列しました。彼らは、自分たちの担任が、どれほどの重荷を背負いながら、あの最後の授業を行っていたかを知りました。

 真由美さんは、高橋の棺の中に、新しく用意した一冊の「真っ白なノート」を入れました。

「高橋くん。向こうで渉さんに、あなたの『続き』をたくさん聞かせてあげてね」

 そして、葬儀の最後。生徒の一人が、高橋の遺したあの黒いノートを手に取りました。不登校だった高橋が救い出した、あの最後列にいた少年でした。

 少年の瞳には、悲しみではなく、確かな「意志」が宿っていました。彼はノートの最後のページの、さらに後ろ。まだ誰も何も書いていない真っ白な頁に、自分の名前を刻みました。

「先生。次は、僕が書きます」

 嘘は、繰り返される。けれど、それは人を傷つけるための嘘ではなく、誰かが明日を生きるための、希望の連鎖でした。

 加藤渉から高橋へ。そして、高橋から次の誰かへ。「記録」は終わることなく、春の風に乗って、また新しい教室へと運ばれていくのでした。

(第2章、完)

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