case 1
茶髪でくせっ毛の下ぶちメガネ医師は「至って問題ない」と。
実に淡々と、彼女の「あの……」に被せて茶封筒を渡してくる。
訳も分からず、ただ受け取ることしかできない彼女は茶封筒を見つめた。
……。
……見つめ、続けた。
封を開けるわけでも、裏面を確認するでもなく。
「……中はIDタグだ。世間では身につけておくことが義務化されている」
ため息混じりに口を開いた医師の首に光るそれが、そうらしい。
ぎこちない手つきで茶封筒から取り出せば、識別記号……的な?
“繝槭A繝 繝◆θ”
難解な文字が並ぶ。
「あとは、篠岡義行という男を頼るといい」
――その人がどんな人物なのか。
――ここに来た経緯を、その人なら知っているのか。
そんな説明一切なしに、彼女は早々と退院することとなる。
荷物はない。
この身、ひとつ……で、どうしろと?
言葉も、理解も追いつかないまま、彼女は病院の出入り口に立ちすくむ。
――もしかしたら、しのおか、という人が迎えに。
まとまらない頭で考えた答えは、すぐに否定できた。
医師の言葉は『頼るといい』
頼らなくてもいい、とも取れ、選択権は自分にある。
それに、迎えが来るなら部屋で待っていろと言われそうだ。
自力で“しのおか”と接触する方法。
……。
……――。
……――――なにも持っていない自分にできること、とは。
――――と、堂々巡りしている彼女に自覚はない。ましてや、出入り口に突っ立って、他の人の妨げになっていることも。
「じゃまだぞ」
病院から出てきた子どもに言われ、ようやく気づく。
「あ、うん……?」
耳の生えた男の子は、ぷんすかしながら見上げてきた。
ふわっふわの栗毛から、猫の耳。
心なしか、若草色のくりっくりな瞳の瞳孔が縦に細く見える。
「なんだよ、じっと見るな。失礼だろッ」
尻尾はなくて、手足も毛むくじゃらじゃない。
リアルなカチューシャにしては、感触が生きている。と、男の子に断りもしないで彼女は頭を撫でくりまわした。
「な、中に入るなら、さっさと入れよッ」
小さな手が止めるよう制してくる。
温かい。
自分の体温がかぎりなく低いことが窺える。
「聞いてるのかッ」
「あ……っと。退院、したの。しのおかさんを頼るといいって……」
「ボクも、そいつのとこに用がある。一緒に行くか?」
「ほ、ほんとっ……?」
「あぁ」
「わたし、よく分からなくて」
「へんぴな場所だからな。駅はこっちだ、行こう」
*
5歳くらいの男の子に手を引かれ、海沿いの歩道を歩いた。
「……キミは、あいでぃーたぐ、つけていなくていいの?」
「マウロ。キミじゃない」
「え?」
「ボクの名前だ、マウロ」
おまえは? と聞かれて、彼女は『至って問題ない』ことに苦患する。
「ちょっとかがんでくれ」
マウロは足を止め、彼女のIDタグに触れた。
「マ、ミ、ヤ、ツ、ユ、か」
「え? 読めるの?」
「あぁッ」
にかっと歯を見せて笑うマウロは、自慢げだった。
「ツユか? ツユか?」
どちらにアクセントをつければいいか聞かれるが、「露っぽいから、ツユな」と自己解決して、
「ARは、IDタグいらないんだぞ」
聞き慣れない単語に、さらなる疑問が生まれた。
「……えー、あーるって?」
再び歩き出した2人の会話は絶えない。
ゆっくり喋るツユに嫌な顔ひとつせず、マウロは説明してくれる。
「Animal Replicantのこと、知らないのか?」
「うん」
知らない、と。これならはっきり言えた。
「白砂病で一気に減ったから、それを補うために生まれたのがボクたちだ」
「うんっ?」
「まさか、白砂病も知らないのか? ツユ、ハコイリすぎないか? ……あ、いや、だから、そうなのか」と、尻すぼみになっていく。
そう、とは。
ちょうど駅に着いてしまい、聞けずじまい。
マウロは改札口の端末で、2人分の運賃になるよう操作を始めて。
ツユはそれを見つめる。
ふと顔を上げれば、反射した窓に自分が写った。
初めて見る自分という形は、20代の白い女性。
肌も髪も淡いのだ。
色味のない、生気すら感じられない。
無機物。
人形。
自分のことなのに、どこか他人事。
頭の中はひどく凪いでいる。
なのに、ツユの手は震えていた。
「ツユ。乗れるぞ」
「……」
そんな彼女の手を、マウロは再び握る。
ぎゅっと力強く。
「あいつ――先生は問題ないって言ってたんだろ? なら、ツユは白砂病の進行が止まったんだ」
「とまる?」
「20歳から誰でもなる。若いままだけど、体の中に砂が生まれてくる、よく分かってない病気が白砂病だ!」
説明だけにでなく、ツユを握る手にも力が入り、それは次第に痛みを伴った。
「髪が真っ白なのは末期だからッ」
「マウロくんっ……?」
「でもツユは歩けてるしッ……!!」
「……痛、いっ」
「――ッ!!」
ぱっと手を離す彼のほうが、泣きそうな顔をしていた。




