第1話
窓の外から雨音がした。ぽつぽつとこちらの反応をうかがうような微量の粒が窓ガラスを濡らしたかと思えば、すぐに絶え間ないざーざー降りへと変わる。本格的に長引きそうな勢いだった。
思わず舌打ちが漏れてしまう。
ヒナミの奴はちゃんと傘を持って出て行ったのだろうか。
それでなくても超がつくほどの気分屋なあいつのことである。突然の雨に気分を害されたというだけで、それまで脳内に描いていたスケジュールを百八十度ひっくり返して、いきなり家に戻ってくる可能性だってなきにしもあらずだった。
(やっぱり、やめとくか?)
豪勢な造りをしたタワーマンションの最上階フロアをまるまる占有する一室。首にはめられた拘束具の鎖をじゃらりと無機質に響かせながら、俺は自分自身に問いかけてみる。
今ならまだ引き返せるタイミングだった。
今日のところはひとまず諦めて、じっと次の脱出の機会が訪れるのを待つ――そんな選択肢だってあるはずだ。心の内にいる慎重派の自分が声高に訴えかけてくる。
(いや……次の機会って、そんなのいつになるんだよ)
が、俺はその弱気な訴えを首を左右に振って即座に切り捨てた。
ずーっと俺から目を離さずに監視していたヒナミが『たまたま』急用ができたとかで外出して、室内に残された俺の手の届く範囲に『たまたま』拘束具を解く鍵が置きっぱなしになっていた。
こんな奇跡的な偶然の重なりが次に訪れるという保証がそもそもないじゃねえか。
(だったら、今のうちに逃げるしかあるめえよ)
揺らぎそうになった決意を固めるように力強く自身に言い聞かせて、俺は手にした鍵を使う。すると、およそ一週間もの間、俺から自由を奪っていた拘束具がびっくりするほどあっさりと外れた。
これだけで少し泣きそうだ。……まさか現代日本においてペット感覚で拘束具をはめられて、リードよろしく頑丈な鎖で壁につながれて監禁されることになろうとは。
人権侵害にもほどがあるだろ。
とはいえ、拘束が外れたからといって油断は禁物だった。
いつヒナミがこの部屋に戻ってくるかもわからない。
もしも俺が逃げだそうとしているところにヒナミと出くわす事態になったら、間違いなく彼女は怒るだろう。怒って今度は監禁以上のことをしてくるに違いない。
監禁以上ってなんだ?
これ以上の人権を無視した所業が果たしてこの世に存在しているのか?
疑問が浮かんでくるが、おそらく人権という概念すら知らない人ならざるヒナミのことである。平気で一線を越える仕打ちをしてくることは想像に難くない。
恐怖で身震いする。
(もう後戻りはできねえ……よな)
広々としたリビングルームを見渡す。今は夜だ。電気が消えているのもあいまって室内は真っ暗だった。暗闇の中で俺はおそるおそる立ち上がる。
「――っ!」
と、その過程でよろめいて転んでしまった。
雨音以外には静けさに満ちていた暗いリビングに、人一人分の体重がのしかかる音が鈍く響き渡る。こうして自分の足で歩くのも一週間ぶりなだけに、足下がおぼつかない。ただでさえ焦っているのもあって、もう一度立ち上がろうとしても足がもつれてうまくいかなかった。
落ち着け、落ち着け、落ち着け。
何度目かの挑戦でようやく立ち上がることに成功した。
恐怖心と戦いながらゆっくりと足を動かす――暗がりを壁伝いに進んでやがて玄関にたどり着いた。
(あと少し……あと少しで、俺は晴れて自由の身だ)
緊張で着ているシャツを汗でにじませながら、俺はドアノブに手をかける。がちゃり。ぎぃー。なるべく音をたてないよう慎重に、それでも逸る気持ちに急かされて素早く俺はドアを開けた。
その瞬間だった。
「……ふーん。そういうことするんだ。名央くんのこと、信じてたのに」
可愛がっていたペットの裏切りを目撃したような、冷たい冷たい落胆の声がした。
背筋が凍りつく。
俺は、自分の選択が間違っていたことを悟った。ドアを開けたすぐ目の前に、まるで最初から俺が出てくるのを待ち受けるようにしてヒナミが立っていたのだった。
「ねえねえ。あたし、何度も名央くんに言ったよね? ちょっと出かけてくるから、その間、どこにも行っちゃダメだよって。それなのにどうして約束を破って外に出ようとしてるのかな?」
柔らかいセミロングの髪を揺らして、唇が触れそうなゼロ距離までヒナミが顔を近づけてきた。
事ここに至って、ようやく俺は理解する。
拘束を解く鍵がわざわざ俺の手の届く範囲に置きっぱなしになっていたことも含めて、おそらくすべてヒナミが仕掛けた罠だったのだろう。愛情を確かめるためのテストとか言って。
つまり俺はまんまと彼女の罠にはまってしまったというわけだ。なんつー馬鹿な真似を……。
しかし、己の浅はかさを悔やんでる場合じゃない。質問されているということは、まだ挽回のチャンスは残っているはずだ。
俺は瞬時に、絶望に支配されていた思考を切り替える。考えろ。考えるんだ。ここから一発で状況を逆転できるような言い訳を。
脳みそをフル回転させて、やがて俺は口を開いた。
「いや、違うんだヒナミ! これはだな――」
「あはっ。やっぱり言い訳はいいや。こういうのは身体に教えるのが一番てっとり早いもんね」
可憐な笑みとともにヒナミがそんな言葉を口にした次の瞬間には、俺の意識は途絶えていた。ぱちりと電源スイッチを突然オフにしたみたいに思考する間もなく一瞬で。
最期に俺が意識の端で捉えたのは、ヒナミが笑顔のままで放った手刀が、いともたやすく俺の首を刎ね飛ばした光景だった。
俺は、死んだ。




